第60話 鍋の向こう側
厨房は、静かだった。
火は落とされ、
鍋は伏せられ、
床には水の跡だけが残っている。
昼の喧騒が嘘のようだ。
エメリクは、そこに立っていた。
「今日の残りは?」
調理員が答える。
「ほとんどありません」
「残菜は?」
「規定内です」
言葉は整っている。
だが、エメリクは鍋の縁に残った白い跡を見ていた。
澱のようなもの。
煮溶けきらなかった粉。
「これで、足りると?」
調理員は一瞬、言葉に詰まった。
「……基準では」
「基準、か」
その言葉を、エメリクは何度も聞いてきた。
病院で。
学校で。
癒殿で。
帳面を開く。
食材の一覧。
穀類
油脂
乾燥野菜
加工肉
量は、計算されている。
だが、質は記されていない。
「この肉は、どこから?」
「商会経由です」
「生産地は?」
「……書類上は、王領外縁」
「実際は?」
調理員は、目を伏せた。
「分かりません」
エメリクは、思い出す。
朝食を抜いた子。
腹を押さえていた子。
怒鳴った子。
——あれは、性格ではない。
「野菜は?」
「保存が利くものを」
「旬は?」
「考慮していません」
その言葉は、責めるためのものではない。
だが、事実だった。
エメリクは、厨房の外を見る。
校庭の向こう。
村の畑。
さらに先に、牧草地。
川の流れ。
すべて、ここにつながっている。
「食は、最後の出口だ」
独り言のように言う。
「だが、入口はもっと奥にある」
調理員が、小さく言った。
「私たちも、選べません」
「決まった契約」
「決まった業者」
「決まった値段」
「決まった量」
エメリクは、頷いた。
「分かっている」
その夜。
エメリクは帳面を整理していた。
学校の評価表。
医療の診療記録。
給食の献立。
すべてに共通するものがある。
途中が、見えない。
「学べないのは、怠けではない」
「荒れるのは、悪意ではない」
「壊れているのは、身体だけじゃない」
ペンが止まる。
エメリクは、最後にこう書いた。
「鍋の中を変えたいなら」
「畑と牧場と川を、見なければならない」
窓の外。
夜風が吹く。
遠くで、家畜の鳴き声。
川の水音。
人は、食べなければ生きられない。
だが、
何を、誰が、どう作るかで、
人の未来は決まる。
エメリクは立ち上がった。
次に向かう先は、
厨房ではない。
教室でもない。
——土だ。




