第59話 空腹は、静かに人を壊す
朝の教室は、静かだった。
正確には、静かにさせられている。
誰も大声を出さない。
だが、落ち着いているわけでもない。
椅子がきしむ。
鉛筆が何度も床に落ちる。
指先が机の縁を叩く。
教師は黒板に向かって話している。
「ここ、大事だからな」
声は一定。
抑揚は少ない。
前の席の子は、ノートを取っている。
だが、字が少し歪んでいる。
手が震えている。
後ろの席。
一人の子が、頻繁に体勢を変えていた。
足を組み替える。
椅子を揺らす。
周囲を見る。
「落ち着きなさい」
教師が言う。
「集中できないの?」
子どもは答えない。
——答えられない。
エメリクは、教室の後ろに立っていた。
帳面は持っていない。
今日は、ただ見るだけだ。
休み時間。
前の席の子が、机に突っ伏した。
「大丈夫?」
隣の子が声をかける。
「ちょっと、気持ち悪くて」
「朝、食べた?」
小さく首を振る。
「時間なくて」
その言葉は、よく聞く。
廊下。
別の子が、教師に呼び止められている。
「また立ち歩いてたな」
「何度言えば分かる」
「集中力がない」
子どもは下を向く。
「……はい」
教師は溜息をつく。
「家で、ちゃんと生活してる?」
返事はない。
保健室。
看護師が、簡単な問診をしている。
「昨日の夜は?」
「パンだけ」
「今朝は?」
「何も」
体重は、少し軽い。
成長曲線は、ぎりぎり下限。
「最近、眠れてる?」
「……あんまり」
エメリクは、その横で聞いていた。
この子は、病気ではない。
だが、健康でもない。
昼前。
黒板の前で、教師が言う。
「はい、じゃあ次」
前の席の子が、ゆっくり手を挙げる。
「……分かりません」
教室がざわつく。
「え?」
「どうしたの?」
誰かが小声で言う。
教師は一瞬、言葉に詰まった。
「……じゃあ、後で考えよう」
その声は、いつもより硬い。
後ろの席。
例の子が、突然立ち上がった。
「意味わかんねえし!」
声が大きい。
教室が凍る。
「座りなさい!」
教師が怒鳴る。
「何度言えば——」
「腹減ってんだよ!」
一瞬、沈黙。
言ってしまった、という顔。
教師は言葉を探す。
「……それと、授業は関係ない」
「関係あるだろ!」
「静かにしなさい!」
声が被さる。
エメリクは、その光景を見ていた。
——違う。
関係は、大いにある。
昼。
給食が運ばれる。
量は、決まっている。
成長期でも、同じ。
朝を抜いても、同じ。
「いただきます」
前の席の子は、半分ほどで箸が止まった。
「食べないの?」
「気持ち悪くて」
後ろの席の子は、勢いよく食べる。
だが、早い。
噛まずに飲み込む。
すぐに終わる。
「足りない」
呟く。
教師は言う。
「残さず食べなさい」
「早く食べなさい」
同じ言葉。
だが、背景は違う。
午後。
集中力は、さらに落ちる。
できる子は、ミスをする。
できないとされた子は、荒れる。
教師は、帳簿に書く。
「注意散漫」
「落ち着きがない」
「努力不足」
エメリクは、医師の顔を思い出す。
「この患者は、指示を守らない」
——守れないのだ。
空腹では。
放課後。
職員室。
「最近、問題行動が多い」
「家庭の問題じゃないか」
「本人の資質もある」
誰も、胃袋の話をしない。
エメリクは、静かに言った。
「朝食を抜いた子は、何人いますか」
教師たちは、一瞬黙る。
「……調べていません」
「では、給食の栄養量は」
「基準通りです」
「誰の基準ですか」
答えはない。
エメリクは、帳面に書いた。
「空腹は、怠慢に見える」
「低栄養は、反抗に見える」
「だがそれは、身体の悲鳴だ」
紙を閉じる。




