第58話 できないと決められた者たち
教室の空気が、少しだけざらついていた。
机を引く音が、必要以上に大きい。
消しゴムが落ちる音に、誰かが笑う。
前の席の子が手を挙げる。
「そこ、もう一歩先まで考えてみよう」
教師の声は柔らかい。
答えが続く。
黒板に書かれる。
頷きが返る。
その後ろで、別の声が小さく漏れた。
「またかよ」
誰に向けた言葉でもない。
だが、誰に向けられているかは分かる。
休み時間。
数人が集まって、机の間に輪ができる。
中心にいるのは、先ほど手を挙げた子だった。
「なあ、それってさ」
声は明るい。
だが、目は笑っていない。
「先生に言われた通り言ってるだけじゃん」
周囲がくすっと笑う。
「自分で考えてるふり、得意だよな」
言葉は軽い。
冗談の形をしている。
当人は、最初は笑って返した。
「いや、別に……」
「ほら、そうやって逃げる」
「できる子って、逃げるの上手いよな」
輪が少し狭まる。
エメリクは、廊下の端からその様子を見ていた。
教師は職員室にいる。
見ていない。
見ていない、というより——
見なくていいと思っている。
次の授業。
ノートが配られる。
前の席の子の机の上には、すでに置かれている。
後ろの席では、紙が見当たらない。
「誰か、見なかった?」
小さな声。
「知らない」
即答。
教師は気づかない。
黒板に向かって話し続ける。
時間が進む。
「書いてないの?」
教師が言う。
「はい」
「じゃあ後で写しなさい」
それで終わりだ。
昼前。
前の席の子が、少し苛立った声を出した。
「……さっきの式、ここ違うと思う」
教師が振り返る。
「いいところに気づいたね」
その瞬間。
後ろから、椅子がわざとらしく倒れた。
「うるせえな」
今度は、はっきりした声。
教室が一瞬、静まる。
教師が眉をひそめる。
「静かにしなさい」
言葉は平等だ。
だが、視線は後ろに長く留まらない。
昼休み。
校庭の端。
「調子乗るなよ」
低い声。
「お前さ、先生に好かれてるだけだろ」
返事がない。
「俺らがどんだけ頑張ってもさ」
「どうせ、最初から決まってんだろ」
砂を蹴る音。
「できるやつは、できるって」
「できねえやつは、できねえって」
「だったらさ」
一拍。
「できるやつが黙れば、平等じゃね?」
その夜。
エメリクは帳面を開いていた。
病院の記録と、学校の記録。
似ている。
回復が早い者は「良好」。
遅い者は「要観察」。
教師の評価欄と、医師の所見欄。
言葉が違うだけで、構造は同じだ。
翌日。
担任が職員室で話している。
「最近、クラスが少し荒れてまして」
「できる子が目立つんですよ」
「周りがついてこれてない」
別の教師が頷く。
「よくあることだ」
「突出すると、浮くからな」
「本人も、もう少し空気を読めばいい」
エメリクは、その言葉を聞いた。
——空気を読む。
それは、能力を下げることだ。
放課後。
前の席の子が、保健室にいた。
腹を押さえている。
「朝から何も食べてなくて」
看護師が言う。
「最近、食欲もない?」
小さく頷く。
廊下の向こうでは、別の子が走っている。
大きな声。
落ち着きがない。
教師が叱る。
「静かにしなさい!」
その子の目は、虚ろだ。
エメリクは思う。
できない子が、できる子をいじめているのではない。
できないと決められた子が、
できると扱われた子を壊している。
原因は、子どもではない。
評価。
配置。
期待。
それらが、子ども同士を戦わせている。
エメリクは、帳面の端に書いた。
「欠乏は、攻撃性を生む」
「攻撃は、才能を潰す」
「才能が潰れれば、
社会は全体で貧しくなる」
紙を閉じる。
次に見るべきは、胃袋だ。
——空腹のままでは、誰も学べない。
その夜、厨房の方から、鍋の音がした。
次の章への合図だった。




