第56話 正しさは、静かに人を傷つける
職員室は、癒院の詰所に似ていた。
壁際に並ぶ机。
中央に置かれた大きな長机。
その上に積まれた紙の束。
違うのは、ここには呻き声も血の匂いもないことだ。
代わりにあるのは、
沈黙と前提だった。
「今年の新入生は、落ち着いていますね」
教頭が言った。
白髪交じりの男だ。
この学校で生まれ、この学校で教え、この学校で役職についた。
「ええ。問題も起きていません」
別の教師が応じる。
「静かですし、指示も通ります」
「良いことだ」
教頭は満足そうにうなずいた。
エメリクは、そのやり取りを端で聞いていた。
正式な来訪ではない。
「視察」という名目だ。
問題が起きない理由
エメリクは、あえて口を挟んだ。
「質問してもいいですか」
教頭が笑顔で振り向く。
「どうぞ。村長殿」
「“問題が起きていない”というのは、どういう意味ですか」
一瞬、空気が止まった。
教師の一人が答える。
「規律違反がない、という意味です」
「騒がない」
「命令に従う」
「授業を妨げない」
次々と定義が出てくる。
エメリクはうなずいた。
「なるほど。では」
間を置いて、続ける。
「分からない子が、分からないと言った例は?」
誰も答えなかった。
「それは問題ではありません」
教頭が代わりに言う。
「分からない子は、努力が足りないだけです」
「努力すれば、分かります」
「分からないと言わせると、甘えが増えます」
エメリクは静かに聞いた。
——この論理、病院で聞いた。
内科医の言葉と同じだ
「検査値は正常です」
「気のせいでしょう」
「様子を見ましょう」
そう言われ続け、
自分の痛みを疑い始める患者。
ここでは子どもが同じ目に遭っている。
「分からないのは、自分が悪い」
そう刷り込まれる。
教師の正義
若い教師が、少し不安そうに言った。
「でも……質問できない子も、いるのでは」
教頭の視線が向く。
「それは、教師が甘やかすからです」
「厳しさは、優しさです」
「社会は、もっと厳しい」
その言葉に、誰も逆らわない。
エメリクは気づいた。
——ここでは、「正しさ」は個人ではなく制度にある。
なぜ変わらないのか
エメリクは聞いた。
「この学校で、教師の評価はどう決まりますか」
教頭は即答した。
「規律維持です」
「問題を起こさないこと」
「保護者から苦情が来ないこと」
「上からの指示を守ること」
「子どもの理解度は?」
「数値で測れないものは、評価できません」
——だから、見ない。
ヨハンの影
そのとき、名前が出た。
「教会からも、秩序維持を評価されています」
教頭は誇らしげに言う。
「祈りと規律は、同じです」
「従うことが、救いになる」
エメリクの背中に、冷たいものが走った。
——兄だ。
ヨハンの思想と、完全に重なっている。
子どもは“未完成な大人”
別の教師が言う。
「子どもは、まだ分からない存在です」
「だから、決めてあげる必要があります」
「考えさせると、混乱します」
エメリクは答えた。
「それは、“考える筋肉”を使わせないということです」
教師は怪訝な顔をした。
「筋肉?」
「使わなければ、萎えます」
沈黙。
静かな暴力
エメリクは、机の上の帳面を見た。
出席簿。
成績表。
評価欄。
そこに暴力は書かれていない。
だが、
可能性が削られている。
痛みはない。
血も出ない。
だから、誰も止めない。
「ここでは、治らない」
エメリクは確信した。
この学校は、
教える場所ではない
育てる場所でもない
仕分ける場所だ。
病院で言えば、
診断だけして治療しない。
決意
職員室を出る前、教頭が言った。
「村長殿も、秩序の大切さはお分かりでしょう」
エメリクは振り返った。
「ええ」
「秩序は必要です」
そして、続けた。
「ですが——」
一拍置く。
「秩序が人を壊すなら、それは制度の欠陥です」
教頭の笑顔が、わずかに引きつった。
次の扉
廊下を歩きながら、エメリクは思った。
病院では、
「治らない理由」を探した。
学校では、
「分からなくなる仕組み」を見た。
次に見るべきものは、何か。
——食べ物だ。
体を作るもの。
心を支えるもの。
そして、
誰がどんな理由で削っているのか。
廊下の窓から、子どもたちの背中が見えた。
次の章は、
彼らの“腹の中”を扱うことになる。




