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第51話 札が動かす列

(朝の光が回廊の床に細長く伸びる)

(人の気配が、ゆっくりと膨らんでいく)


癒院の前の列は、昨日よりも静かだった。

人数は変わらない。

声が少ないだけだ。


人は、学ぶ。

どこで声を出せば損をするか。

どこで黙っていれば早く進めるか。


エメリクは回廊の柱の陰に立ち、列の動きを見ていた。

動いているのは人ではない。

札だ。


「次の者」


呼ばれたのは、列の中央にいた女だった。

年は若い。顔色は悪い。

手には、紙片が一枚。


それを見た瞬間、受付係の動きが変わった。

視線が一度下がり、次に脇へ逸れる。

そして、少しだけ声が柔らかくなる。


「こちらへ」


女は戸惑いながら前へ出た。

その背後で、列がわずかにざわめく。


「今の人、順番違わなかったか」


「いや……札を持ってた」


「加護のやつだろ」


小声。

だが確実に届く距離。


エメリクは、隣に控えていた書記に言った。


「今の確認の手順を、最初から最後まで書け」


「はい」


「“誰が”札を見るかもだ」


書記は一瞬だけ迷い、それから頷いた。


(紙に筆が走る音)


受付係は三人いる。

最初に札を見る者。

次に名前を帳面に写す者。

最後に、呼び声を出す者。


札を見るのは、必ず最初の一人だけだ。

二人目は見ない。

三人目も見ない。


「なぜ分業している」


エメリクの問いに、書記が答える。


「効率のため、だそうです」


「効率は、責任を薄める」


書記は筆を止めなかった。

止めると、考え込んでしまうからだ。


列は再び動いた。

今度は、老人だった。

背が曲がり、杖に体重を預けている。


受付係が札を見る。

一瞬、眉が動く。


「……少々、お待ちください」


老人は立ち止まった。

列の後ろから、息が詰まったような音が漏れる。


「どうした」


「施しの印です」


声は小さいが、硬い。


「こちらで待機を」


老人は、何も言わずに壁際へ移動した。

移動の仕方が慣れている。

初めてではない。


列が詰まる。

しかし誰も文句を言わない。

文句を言うと、遅くなると知っている。


エメリクは、その場を離れ、受付台の裏へ回った。

受付係の背中が見える位置。


「今の判断基準は」


突然の問いに、受付係が肩を震わせた。


「……規定です」


「どの規定だ」


「加護の印を優先する、と」


「なぜだ」


受付係は口を閉ざした。

閉ざした口は、覚えている口だ。

自分で考えた答えを持っていない。


「誰が決めた」


「……上です」


「上とは」


しばらく沈黙が落ちる。


「……癒殿からの通達です」


エメリクは、そこで初めて頷いた。


「王立の癒院で、私的な癒殿の通達が生きている」


受付係は、言い訳を探す目をした。

だが見つからない。


「それを守らなければ、どうなる」


「……揉めます」


「誰と」


「……外と、です」


外。

その一言に、すべてが詰まっていた。


エメリクは視線を列へ戻した。

列は、見えない川のように流れている。

流れを作っているのは、水ではない。

札だ。


「列を二つに分けろ」


受付係が目を見開いた。


「何と何で、ですか」


「治療の重さと、札の種類で」


「そんなことをすれば――」


「見えるようになる」


受付係は言葉を失った。

“見える”ことが、最も怖い。


書記が小声で言った。


「……それは、混乱を招きます」


「混乱は、すでにある。ただ見えないだけだ」


エメリクは続けた。


「混乱が見えれば、理由を問える」


「問えば、対立します」


「対立しなければ、変わらない」


(列のざわめきが少し大きくなる)


指示はすぐには実行されなかった。

だが、受付係の一人が、床に線を引いた。

炭で引いた、細い線。


「こちらは重症の方」


線の左側。

血の気のない者、立てない者。


「こちらは軽症」


線の右側。

歩ける者。


「札は……後で確認します」


その言葉に、空気が変わった。


「後で?」


「加護でも?」


「施しでも?」


声が重なり始める。

だが、叫びにはならない。

皆、様子を見ている。


老人が、壁際から一歩出た。


「わしは、どちらだ」


受付係が答えに詰まる。


エメリクが前へ出た。


「こちらだ」


重症の列を指す。


老人は頷き、ゆっくりと歩いた。

列の中で、誰かが息を吐いた。

安堵か、諦めかは分からない。


「札は見ないのか」


誰かが言った。


「後だ」


エメリクの声は低く、通った。


「まず、体を見る」


沈黙。

そして、列が動いた。


遅い。

だが、止まらない。


院長が、いつの間にか後ろに立っていた。


「これは……」


「壊しているように見えるか」


院長は首を振った。


「作り直している」


エメリクは頷いた。


「札は、道具だ。判断の代わりに使うものじゃない」


「だが、札がなければ、誰が責任を取る」


「責任は、人が取る」


院長は苦く笑った。


「一番、嫌われるやり方だ」


「嫌われない改革は、改革じゃない」


(紙をめくる音)

(新しい列が動く足音)


書記が、震える手で記録を続けている。


「列の分離、時刻――」


「治療開始までの時間――」


「札の確認、後回し――」


書かれる文字は、後で誰かを怒らせる。

だが、書かなければ、誰も守れない。


エメリクは、再び水瓶を見た。

水面が揺れている。

列が動くたびに、わずかに。


「水は、動けば澄む」


誰に言うでもなく、呟いた。


「止めれば、腐る」


院長は、その言葉を否定しなかった。


癒院の中で、列は今日も続く。

だが――

並び方が、変わった。


それだけで、世界は少しだけ違って見えた。

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