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第50話 配る手と、採る手

(朝の鐘の残響)

(濡れた石畳を踏む足音)

(遠くで桶の水を打つ音)


癒院の門の前で、列が昨日より一人ぶんだけ伸びていた。

一人ぶん、なのに、空気が重い。

エメリクは列を横目に、門番の肩越しに院内を見た。


「今日、森へ入る採り手は何人だ」


門番は一瞬、質問の意味を測り直す顔をした。


「……二人です。旦那」


「二人で、ここを回すのか」


「回すのは、癒術師と薬師で――」


「採る者が二人なら、鍋に入る草も二人ぶんだ」


門番は黙った。

反論ができない黙り方だった。


(戸を開ける音)

(中へ入ると、空気が温い)

(煮沸の湯気の音)


癒院の中は、いつも通りに動いていた。

動いている、というのが不思議なほど、皆の声が少ない。

声を出せば、体力が削れる。

削れる体力は、誰にも残っていない。


帳簿室の扉を開けると、紙の匂いが先に来た。

乾いた紙と、湿ったインクと、古い糊の匂い。


「お待ちしておりました」


院の会計係が立ち上がり、頭を下げた。

その背後に、机が三つ並び、紙束が三つ積まれている。

祈願記録、施し記録、治療支出。

同じ紙でも、重さが違う。


「配給の流れを見たい」


「配給、ですか」


「薬と包帯と、食。どうやって届いて、どうやって消える」


会計係は唇を引き結んだ。

“消える”という言い方が、刺さったのが分かった。


(紙をめくる音)

(計算具が机を叩く音)


「まず、薬です。こちらが今月の配給表」


会計係が差し出した紙には、項目が整然と並ぶ。

鎮痛、解熱、止血、解毒、鎮静。

数が付いている。

数は嘘をつかない。

ただし、数の付け方が嘘をつく。


「鎮静が多いな」


「精神の不調が増えております」


「増えているのは、“不調”か、“診断”か」


会計係は息を止めた。

その息の止め方は、答えがある者の止め方だった。


「……診る者が多いのです。内側を」


「外側を縫う者は?」


「不足しております」


昨日と同じ答え。

違うのは、今日はその答えが“帳簿の形”で目の前にあることだ。


エメリクは紙を指で叩いた。


「包帯の支出も増えている」


「はい。ですが、在庫は追いついております」


「追いつく仕組みがある、ということだな」


「王都からの定期便がございますので」


「定期便は、誰が握っている」


会計係は口を開きかけ、閉じた。

癒院の定期便は、王の荷でもある。

だが、運ぶ者は別だ。

帳簿は、そこから先の名前を書かない。


(扉が軋む音)

(革靴の音が近づく)


院長が入ってきた。

年齢は読めない。疲れが年齢を塗りつぶしている。

背筋は真っ直ぐだが、肩が微妙に落ちている。


「癒院の帳面を直に見られるとは、珍しい」


「直に見ないと、直せない」


院長は、笑わなかった。

この癒院で笑う余裕がある者は、すでにいない。


「あなたは“削る”ために来たのか」


「削るのは、命ではない。流れだ」


院長は目を細めた。


「流れ、か。なら聞こう。今ここで流れているのは何だ」


エメリクは机の上の紙束を順に指した。


「紙。薬。人。時間。

そして――責任が薄く広がっている」


院長は、ため息を吐かなかった。

吐けば、負けだと思っている目だった。


「薬剤師の数が多すぎる」


会計係が小さく肩をすくめた。

院長が口を挟む前に、エメリクは続けた。


「受付に固まっている。配る手が過剰で、採る手が不足している」


院長の視線が、会計係ではなく、エメリクの目に刺さった。


「採り手は危険だ。森は命を奪う。

戻らぬ者が出れば、遺族が騒ぐ。

騒ぎは“責任”になる」


「配る手は安全だ。だから集まる」


「安全であることを、責めるのか」


「責めない。配置を変える」


(沈黙)

(遠くで子どもの咳が連続する音)


院長は、しばらく黙ってから言った。


「配置は、紙で動かない」


「なら何で動く」


「慣れだ」


短い答えだった。

慣れは、石より硬い。


エメリクは机の端に置かれた小さな木札を見つけた。

そこには二種類の印が押されている。


「この札は」


会計係が答えた。


「施し証です。王の印。

……それから、こちらは“加護”の印です」


「同じ効力か」


会計係は、声を落とした。


「……同じです」


院長が、視線を外した。

目の前の事実を、見ない訓練をした目だった。


「同じ札で、列が変わる」


エメリクは言った。

問いではない。確認だ。


会計係は頷いた。


「“加護”の印のほうが、先に呼ばれます。

病の重さとは関係なく」


「誰が決めた」


「……慣れです」


また慣れだ。

慣れは、制度の皮を被って生きる。


(廊下で走る足音)

(扉を叩く音)


「院長! 外傷です!」


呼び声は抑えられていたが、抑えられない焦りがあった。


「外科へ回せ」


「外科が足りません! 縫える者がいません!」


院長が、唇を噛んだ。

噛んだのは怒りではなく、計算だ。

“誰が穴を埋めるか”の計算。


「内科の者を回せ」


「血を見て、手が止まります!」


声が揺れた。

揺れた声は、現場の真実だ。


エメリクは立ち上がった。


「案内しろ」


院長が一瞬、止めようとした。

だが止める言葉が見つからなかった。

止めれば責任を取ることになる。

責任を取る仕組みがない者ほど、止めない。


(廊下を急ぐ足音)

(担架の軋む音)

(誰かが布を裂く音)


処置室には、鉄の匂いがあった。

血の匂いは、言葉を奪う。

叫び声が無いのが異様だった。

叫べば、痛みが増えるのを皆知っている。


男が横たわっていた。

腕の内側が深く裂け、布で押さえられている。

押さえている手が震えている。

手は若い。薬剤師だろう。

配る手は、ここでは役に立たない。


「止血帯は」


「ありません! 使い切りました!」


エメリクは、部屋の隅の棚を見た。

包帯はある。

しかし、止血帯だけが無い。

“必要が少ない”と判断された物資だ。


「布を二枚。硬い棒。紐」


言われた者たちが動いた。

動ける者だけが動く。

動けない者は固まる。


(棒を机に置く音)

(布を締める音)

(呼吸が荒くなる音)


「締めすぎるな。青くなる前で止める」


エメリクは指示を出した。

指示は短く、手順は具体的に。

こうする、次にこうする、最後にこうする。

“どうすれば”だけを並べる。


院長が、低い声で言った。


「あなたは手を動かせるのか」


「動かせる者が少ないなら、動かす」


「それは癒術師の領分だ」


「癒術師がいないなら、誰の領分でもない」


(沈黙)

(男の息が、少し落ち着く)


応急の止血が決まった。

次は縫合。

だが縫える者がいない。


院長が、歯を食いしばって言った。


「呼べ。……森の採り手を」


「採り手は縫えません!」


「採り手は“針”を扱う。皮を破り、毒を抜く」


会計係が走り出した。

走りながら、誰かに怒鳴っていない。

怒鳴る余裕がない。


エメリクは男の顔を見た。

汗が頬を伝っている。

祈りの言葉は無い。

ここでは、言葉より布と針が勝つ。


(遠くで鐘が一度だけ鳴る)

(鐘は祈りではなく、連絡の合図)


エメリクは、院長の横顔に言った。


「配る手が多いのに、針を持つ手が足りない」


院長は答えない。

だが目が、肯定していた。


「帳面に書けるか。今日の不足を」


「書ける。だが――」


「だが?」


院長の声が少しだけ低くなった。


「不足を書けば、誰かが“責められる”」


エメリクは、そこで初めて頷いた。


「責めるために書くんじゃない」


院長が顔を上げる。


「なら、何のためだ」


エメリクは、処置室の隅に置かれた水瓶を見た。

大きな陶器。水面が揺れている。

映るのは天井の影だけ。

人の顔は映らない角度に置かれている。


「溢れる前に、器を作り替えるためだ」


(布が締まる音)

(針が器具箱に当たる音)

(外で列が動くざわめきが、壁越しに小さく響く)


癒院は今日も回る。

回りながら、削れていく。


祈りの時代は、まだ終わらない。

けれど――

器の時代は、もう始まっている。


エメリクは、紙と血の匂いの中で思った。

次に動かすのは、誰の手か。

配る手か。

採る手か。

縫う手か。


そして、それを決めるのは――

“祈り”ではなく、帳簿の線引きだ。

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