第49話 治す者と、運ばれる帳簿
石造りの建物は、朝よりも昼に疲れて見えた。
壁に刻まれた亀裂は古く、修繕の跡は新しい。何度も直し、何度も追いついていない。
王立癒院――この地方一帯で、重症者を拒まない唯一の施設だった。
扉の前には、列があった。
声はない。呻きもない。
ただ、人が立っている。
エメリクは、その列を数えなかった。
数えなくても分かることがあったからだ。
列は、伸びている。
昨日より。先月より。去年より。
「受け入れは、今日も全員ですか」
控えめな声で、随行の記録官が尋ねた。
「拒めば、誰が決める?」
エメリクは歩みを止めずに答えた。
「誰を拒むか、です」
記録官は沈黙した。
問いは、答えを必要としていなかった。
癒院の中は、音が均されていた。
歩く音、布の擦れる音、水を汲む音。
すべてが大きくならないように、抑えられている。
治療室の前を通る。
扉は閉まっているが、中で何が行われているかは、誰もが知っている。
祈り。
触診。
薬草。
包帯。
時間。
癒術師の数は多い。
内科の者、精神を診る者、言葉を扱う者。
一方で、血を止め、骨を繋ぐ者は少なかった。
「外傷担当は?」
「不足しています。常に」
即答だった。
「理由は」
「望まれないからです」
記録官は淡々と述べた。
「血に触れる。切る。縫う。汚れる。
それを担う者は、尊敬されにくい」
「だが、死なせないのは誰だ」
「……外科です」
答えは静かだったが、揺れはなかった。
癒院の奥へ進むと、帳簿室がある。
ここでは声が戻る。
紙の音。
計算具の音。
息を吐く音。
「今月の支出です」
差し出された帳面は、重かった。
紙の重さではない。
「増えているな」
「はい」
「理由は?」
「患者数。薬剤費。人件費。
特に――薬剤師の配置数です」
エメリクは指を止めた。
「多い?」
「過剰です」
薬剤師は、調合をしない。
受付に立ち、紙を扱い、配布をする。
一方で、森へ入る者――
野草を採り、毒と薬を見分け、命を賭ける者は少ない。
「賃金は」
「受付の方が安定しています」
「危険は?」
「ほとんどありません」
エメリクは帳面を閉じた。
「危険な仕事ほど、減る」
「はい」
「価値が低いのではない」
「……避けられているのです」
癒院の裏庭に出る。
小さな畑があった。薬草用だ。
土は良い。
手入れもされている。
「この草は?」
「鎮痛です」
「これは?」
「精神安定」
「これは?」
「解毒。ただし――」
「ただし?」
「一時的です」
エメリクは、そこで初めて立ち止まった。
「一時的?」
「根を断たなければ、再び必要になります」
「根とは」
薬師は、答えなかった。
答えは、癒院の外にあるからだ。
戻る途中、担架が運ばれてきた。
若い男。農夫だろう。
腕を押さえ、顔色が悪い。
「農薬か」
誰かが言った。
「量は?」
「少量。だが、蓄積です」
エメリクは、その言葉を記憶した。
蓄積。
癒院を出ると、列はさらに伸びていた。
だが、人々は騒がない。
信じているからだ。
ここに来れば、何とかなると。
「祈りは、効いているか」
エメリクは独り言のように言った。
記録官は、少し考えてから答えた。
「……祈りは、人を待たせる力があります」
「治す力ではなく?」
「はい」
歩きながら、エメリクは思い出す。
以前、瓶に石を入れた話を聞いた。
大きな石。
次に砂利。
最後に水。
水を入れた瞬間、隙間は消える。
だが、それ以上は――何かを抜かなければ入らない。
この癒院は、何で満たされている?
祈りか。
善意か。
帳簿か。
それとも、全部か。
振り返ると、癒院の壁が見えた。
厚く、重く、動かない。
だが、中身は流れている。
水のように。
止まらない。
エメリクは、歩みを止めなかった。
まだ、誰も責めない。
まだ、誰も裁かない。
ただ――
どこに、何が溜まっているのかを、見極める段階だった。
祈りの時代は、ここにも残っている。
だが、器はすでに限界に近い。
瓶の中の水面は、静かだった。
波立たないからこそ、深い。




