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第30話 水と風の折り合い

(夜明け前の鐘が、まだ眠い空気を震わせる)


「……兄上は、もう起きてるよな」


主人公がつぶやくと、石段の上に立つエメリクが、杖で一度だけコツンと音を立てた。


「起きてるさ。こういう朝は、水の方が早く動く」


「水の方?」


「上からの視線が気になる朝だ。

 昨夜の火のことも、もうどこかに伝わっているかもしれない」


主人公はうなずき、教会の重い扉に手をかけた。


(扉がきしんで開く音)


中は思ったよりも静かだった。

灯された燭は少なく、祭壇の前に、ヨハンがひとり膝をついている。


祈りの言葉は聞こえない。

ただ、深く息を吐く音だけが、石壁に反射していた。


「兄上」


声をかけると、ヨハンは立ち上がり、振り返った。


「……来たか」


その顔には、いつもの静けさと、少しの疲れが混ざっている。


エメリクが祭壇から一歩離れた位置で足を止めた。


「昨夜の火、もう耳に入っているな?」


「広場の端の屋台が燃えかけた、と。

 お前たちが水を回して止めた、と」


ヨハンは短く答え、主人公の方を見た。


「弟よ。

 怪我人は?」


「大きな怪我はない。

 ただ、皆、くたくただ。

 火を見て、心まで擦り切れかけている」


ヨハンの手が、祭壇の縁をなでるように動いた。


「……催しを責めに来たか」


エメリクが割って入る。


「責めに来たというより、“折り合い”をつけに来た。

 このまま張りつめさせれば、またどこかで火が出る」


「風の比喩か」


「そうだ。

 風は、高い圧から低い圧へ吹く。

 兄上が高く張りつめた“催し”に圧をかければ、

 疲れた村人という低圧へ、必ず吹きつける。

 昨夜の火は、その一つだ」


ヨハンは目を閉じる。


「……分かっている。

 だが、上の目もまた、圧なのだ。

 “この村は働いているか”“賑わっているか”

 その視線も、私には重い」


主人公は一歩前に出た。


「だからこそ、折り合いが必要なんだ。

 村の骨を折る前に」


(燭台の火がぱち、と小さく弾ける)



「兄上」


主人公は、昨日までまとめていた帳面を差し出した。


「村の家々の“空いた日”と“働いた日”を、ひと月分、全部書いてみた。

 催しのある月は、畑が空いた日が多すぎる。

 牛の餌も減る。

 薪も足りなくなる」


ヨハンは帳面を受け取り、ページをめくった。


「……これは、お前が?」


「書記の手も借りた。

 でも、内容は全部、村人の口から出た言葉だ」


“畑が空いた日”

“薪割りを後回しにした日”

“子どもの泣き声が増えた夜”


文字になったそれらが、

黒い線となって並んでいる。


ヨハンは指で一つひとつなぞり、目を細めた。


「ここまで、見えてしまうのか」


エメリクが静かに言う。


「見える。

 兄上が、“水脈”の方だけ見てきたものもな」


今度はエメリクが、もう一つの帳簿を出した。


「祝げ金の推移。

 催しを増やしてから、教会領に入る分がどう変わったか。

 兄上の書きつけた数字だ」


ヨハンの目が、わずかに揺れた。


「……それも見たのか」


「箱の蓋を開けてくれたのは兄上だ」


エメリクは淡々と言う。


「兄上が悪いとは言わない。

 上との関係を太くしようとしただけだ。

 だが、その分だけ、村の足元が痩せている」


主人公は、二冊の帳簿を横並びにして見せた。


一冊は村の暮らし。

一冊は教会の水脈。


「兄上。

 この二つを見比べて、何も変えなくていいと言えるか?」


ヨハンは長く息を吐いた。


「……言えない」


その一言が、石造りの教会の空間を震わせる。


「では、どうする?」


エメリクが問いかける。


ヨハンは祭壇の前に立ち、壁の高いところにある小さな窓を見上げた。

朝の光が細く差し込み、埃の粒が流れている。


「……催しの回数を減らす」


主人公とエメリクが、わずかに顔を上げた。


「年に十二度から、六度へ。

 ひと月おきにする。

 どうしても上に示さねばならぬ“賑わい”は、その時だけに絞る」


エメリクが口を開こうとしたとき、ヨハンは片手を上げて続けた。


「それと、催しに出す屋台の選び方も改める。

 “負担ばかりかかる家”を、続けて出店させない。

 今月出した家は、次の月は休ませる」


主人公が思わず言葉を挟む。


「それだと、祝げ金は減るだろ」


「減るだろうな」


ヨハンは淡く笑った。


「だが、箱に銀貨が少し減るくらいなら、

 村の牛が倒れるよりましだ」


エメリクが、その言葉をじっと聞いていた。


「……急に変わったな、兄上」


「昨夜、窓から見ていた。

 炎と、お前たちの姿を」


ヨハンの声は、少しだけ掠れていた。


「圧をかけすぎた。

 それは認める」



主人公が、もう一歩踏み込む。


「催しの“箱”の中身も、変えられないか?」


「箱?」


「出店料の分け方だ。

 今は、教会とギルドと、上への報告用の銀貨ばかりが太っている。

 村の家に戻る分が少なすぎる」


ヨハンはしばらく黙り、祭壇の下に置かれた銀の箱を見た。


「……箱の中身を変えるには、“鍵”を変える必要がある」


「鍵?」


「今は、教会とギルドの代表だけが鍵を持っている。

 だから、中身の行き先も、その二つで決めてきた」


エメリクが杖を軽く床に当てた。


「なら、鍵を増やせばいい。

 村の家々の代表――例えば、パン屋、鍛冶屋、牛飼い。

 その中から、交代で“箱を見ていい人間”を選ぶんだ」


ヨハンは眉をひそめる。


「箱を多くの者に見せれば、混乱が……」


主人公が言葉を継ぐ。


「混乱を恐れた結果が、今だろ。

 火が出て、牛が痩せて、

 皆、誰を責めていいかも分からず、自分を責めている」


沈黙。


やがてヨハンは、銀の箱の上に手を置いた。


「……分かった。

 鍵を三つにする」


エメリクが片眉を上げる。


「三つ?」


「一つは教会。

 一つはギルド。

 もう一つは――」


ヨハンは主人公の方を向いた。


「村長の家だ」


主人公は目を見開いた。


「俺が?」


「村長の家は、“井戸と畑と道”を見てきた家だ。

 ならば、銀貨の流れも見てよい。

 ……父上も、そう言うだろう」


エメリクの口元に、初めて少し笑みが浮かんだ。


「やっと、“水”が“風”と混ざったな」


ヨハンが苦笑する。


「私にとっては、風を箱の中に入れるようなものだがな」


「風は箱に入らない」


主人公がぽつりと言った。


「でも、箱の中身がどこへ流れているかは、感じ取れる。

 その役なら、俺でもできるかもしれない」


ヨハンは真面目な顔になり、深く頷いた。


「頼む」


その一言には、兄としての重さと、

教会を預かる者としての重さが、両方乗っていた。



(鐘が二つ鳴る)


教会の外では、朝の空気が少しずつ温み始めていた。

昨夜の火の跡には、まだ黒い焦げあとが残っているが、

村の人々はそれぞれの持ち場に戻り始めている。


エメリクが、教会の階段を降りながら言った。


「これで、すべてがうまく回るわけじゃない」


「分かってる」


主人公は空を見上げた。


「催しの回数が減ったくらいで、

 すぐに畑が太るわけでもない。

 牛も、一晩で太らない。

 でも、“折り合い”の一歩にはなる」


エメリクは満足そうに頷いた。


「風は、一度吹いたくらいでは何も変えない。

 何度も何度も、圧をならし続けて、

 ようやく道を変える」


「兄上の水は?」


「水も同じさ。

 高い方から低い方へ流れ続ける。

 ただ、器を変えれば、流れ方も変わる」


主人公は、教会の方を振り返った。


まだ高い位置にある窓から、

兄の姿は見えない。


だが、あの銀の箱の鍵が三つになったことは、

もう覆らないだろう。


「……これで、第五の話は一息だな」


主人公が小さく言うと、

エメリクがくすっと笑った。


「第五?」


「いや、こっちの話だ」


(村のどこかで、犬が一声だけ吠える)


遠くの畑の方からは、鋤を引く牛の鈴の音が微かに聞こえる。

まだ痩せた音だが、

それでも昨日より、少しだけ力がこもっている気がした。


風が吹く。


高く張りつめていたどこかから、

疲れて沈んだ場所へと、静かに流れていく。


その風の中で、村の一日が、また始まりつつあった。

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