第29話 「風は張りつめた処から、沈んだ処へ」
――夜の土間に、藁を踏む音が細く沈んだ。
「戻ったのか」
炉の前で湯気を吸っていた母が、声だけで気配をつかんだ。
主人公は上着を脱ぎながら、小さく息を落とした。
「今日も、広場かい」
「ああ。……兄が、また催しの準備で村を走り回っている」
言った瞬間、喉の奥に粉じんのようなざらつきが広がる。
村の空気そのものが疲れている――そう感じる日が増えていた。
母は椀を差し出した。
「飲んでおいき。湯だけど、胸のつかえには効くよ」
主人公は礼を言い、温かな息を飲み込んだ。
その温度だけが、今日という日の荒れを鎮めてくれる。
(……張りつめすぎている)
火の影を見つめながら、胸の奥でつぶやく。
兄ヨハンが守る教会領。
そこは、補助金の流れがまとわりつく土地。
催しを行えば王都に報告が立ち、兄の手柄になる。
それが分かっているからこそ、村人は逆らいづらい。
――しかし。
催しをするたび、村の人々は走り回り、
屋台を出すギルドは原価すら戻らず、
祭器は雨ざらしになり、
匠たちは疲れ切り、
村の“芯”が静かに削られている。
(このままでは、いずれ折れる)
その時だった。
土間から廊下へ向かう風を割るように、
コツン、と杖の音が刻まれた。
エメリクだった。
「……遅くなった」
「兄上のところか?」
主人公が問うと、エメリクは静かに頷いた。
「教会領の倉を見てきた。やはり、空いていたよ。
祭器を置く場所がないわけじゃない。“使っていない”だけだ」
主人公は目を閉じる。
「やっぱり……兄は、催しの“数字”さえ立てばいいんだ」
エメリクは、壁にもたれて杖をトントンと床で鳴らした。
「数字が高すぎれば、風が生まれる。
張りつめた処から、沈んだ処へ。圧の差をならすように吹く。
兄上が“高圧”になりすぎたんだ」
その比喩に、主人公の胸がざわめいた。
――風は低い所から吹くのではない。
高く張りつめた圧が、弱いところへ押し寄せるように流れ込む。
兄が作り出した催しの“張りつめた圧”。
その圧力を受けて沈む者たちがいる――村人だ。
「エメリク……どうすればいいと思う?」
「まずは、倉の鍵を預かる人間を確かめる。
次に、祭器の扱いを改めさせる。
催しをするなら、器も祈りも整えぬと、いずれ禍が来る」
母が息を飲んだ。
「禍……?」
エメリクは声を低くした。
「“器を粗末にする”ということは、
祈りを軽いものと扱うのと同じだ。
上への報告ばかり重くして、村の祈りを軽くすれば……
いつか“流れ”が切れる」
主人公は拳を見つめた。
自分の手が、固く握られていることに気づく。
(このままでは……兄が村を壊す)
エメリクは主人公の肩に手を置き、静かに言った。
「おまえは、この家の次の柱だ。
風のように見えぬものを感じ取り、
水のように流れを読み、
土のように踏ん張れる。
その三つをもつ者は、珍しい」
主人公は照れたように顔をそむける。
「そんな……。俺はただ、広場の疲れが気になっているだけで……」
「それができる者が少ないんだ。
兄上は、“上の目”ばかり見ている。
おまえは、“地の目”を見る。
この村に両方必要なんだ」
その時、土間の戸が激しく叩かれた。
「村長の家の方! 火の手だ!」
三人の表情が一斉に変わる。
「どこだ!?」
「広場の端! 屋台の油が倒れたとかで……!」
主人公は飛び出した。
夜気が胸を刺し、土の冷たさが足裏に伝わる。
遠くで火が踊り、叫び声が交錯していた。
(間に合え――!)
走りながら、主人公の胸の奥に、エメリクの言葉が響く。
「風は張りつめた処から、沈んだ処へ流れる」
兄が張りつめさせた催し。
疲れた村人の沈み。
そして、火――。
それらが、一本の糸で結ばれたように感じた。
火の明かりが近づく。
屋台の布が燃え、倒れかけた木枠を若い匠が必死に支えている。
「水を! 桶を回せ!」
主人公が叫ぶと、あちこちから返事が飛び、
村人が走って濁流のように水を運んだ。
火が鎮まるころには、夜は深く沈んでいた。
エメリクが追いつき、静かに状況を見渡す。
「……これは、“風”だな」
主人公は息を吐きながら言う。
「兄の“張りつめた催し”が、
村の疲れという“低圧”に吹きつけた……そういうことだな」
エメリクは頷いた。
「圧が強すぎると、どこかが燃える」
焚きしめた煙の中で、主人公は決意する。
(兄と話さなければ――)
催しをどう続けるか。
補助金をどう扱うか。
祈りと器をどう守るか。
この村の“流れ”を正すのは、
兄ではなく、自分なのかもしれない。
――夜明け前、主人公は小さく息を吸った。
「明日、兄と会う」
火の残り香が風に乗り、夜空へ消えた。
その風は、沈んだところへ、静かに流れていく。




