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第28話 風の計算、水の策

(朝の鐘。冷えた空気が石壁にぶつかって響く)


エメリクは夜明け前に村を歩いた。

昨日の箱の光景が頭から離れない。


パン屋の家の前を通ると、

土間に置かれた薪が半分に減っていた。


「……また足りないのか」


鍛冶屋の家では、炉の火が弱く、

織り手の家では、機織り台の横に古い帳簿が積まれている。


どの家も、生活の“欠け”が目に見える形で残っていた。


(戸口が開く)


「エメリクさま、また……村を見ておられるのですね」


声をかけたのは、パン屋の若い妻だった。

彼女の腕には小さな子が抱かれている。


「眠りが浅い子で……。

 夜、薪を足す余裕がなくて」


エメリクは薪の残りを見て、静かに頷いた。


「今日のいちも、兄上の方で?」


「はい。

 “賑わいが村を守る”のだと、そう仰ってました」


(子どもがむずっと泣く)


若い妻は慌てて揺らしながら、

小さな声で続けた。


「けれど……市の日は、いつも仕事が止まるのです」


その言葉は、昨日帳面に書いた“空いた畑の日数”と見事に重なった。


「今日は……俺も少し見て回る。

 また話を聞かせてくれ」


妻は礼を言い、戸を閉じた。



午前になると、教会前の広場に屋台が立ち始めた。

木製の簡素な棚に布を張ったもの、

香草を煮た鍋を掲げるもの、

乾燥果実を並べるもの。


そして、その周りで大道の芸人たちが準備している。

手回しの笛、木製の杯、細工の細長い布。

どれも旅暮らしの者が持っている道具だ。


(広場がざわつく)


ヨハンが教会から現れ、

白い法衣を揺らしながら屋台の配置を見渡していた。


「兄上、今日も催しを?」


エメリクの声にヨハンが振り返る。

光の中で、その目は水面のように静かだ。


「王都から視察の者が来る。

 村の賑わいを見せるには、今が好機だ」


「賑わい……」


エメリクは屋台の下に置かれた細かな数字――

“出店料”“神への寄進”“芸人の受け取り分”

その計算表を視線で追った。


どの数字も、昨日の箱と同じ方向に流れている。


「兄上。

 今日の催しは、村のどの家に益が出る?」


ヨハンは淡々と答える。


「来る旅人が買うだろう。

 果物を。布を。香草を。

 それらは村の統治の“水脈”にも通じる」


「だが――村の者は仕事を止める。

 畑も山も、今日も一日分の空白が生まれる」


ヨハンの足が止まった。


「エメリク、お前は“風”のように動きすぎる。

 あれもこれも見て回れば、混乱する」


「兄上は“水”の流れしか見ていない。

 上からの流れがどう通るかだけだ」


二人の声が重なり、

広場のざわめきと風に紛れる。



(大道芸人が声を張る)


「お立ち会い!

 旅の者の手品をご覧あれ――!」


子どもたちが走り寄り、

大人たちも仕事の手を止めて集まっていく。


その様子を見ながら、

エメリクは芸人の腰袋にこっそり覗いた。

銅貨が少し。

破れかけた袋。

道具は手入れ不足。


“黒字にはならない”

――それが一目で分かった。


「彼らも……兄上の流れに乗せられているだけだ」


呟くエメリクの背後に、ヨハンが近づいていた。


「旅の芸人は、風と同じだ。

 留まらぬ者には、留まらぬ生き方で良い」


「兄上。

 彼らに村の銅貨が流れているのに、

 村の者は何も得ていない」


ヨハンの表情はわずかに曇る。


「エメリク。

 “人が集まった”という事実は、

 この村にとって価値なのだ。

 人数が増えれば、助け金が増えることもある」


「兄上は、上しか見ていない」


兄弟の視線が交わる。


「俺は、“村の箱”を見ている」

「私は、“国の水脈”を見ている」


答えが二つあることは、

昨晩の会話で分かっていた。

だが――その差は今日さらに大きくなっている。



そのとき、パン屋の若い夫が走ってきた。


「エメリクさま!

 ――さっき、うちの売上うりあげが……」


息を切らしながら、布袋を差し出す。


「朝から屋台の人に頼まれたんです。

 “安く分けてくれ”って。

 でも……買値の半分の銀貨しか……」


袋の銀貨は、わずか三枚。

パンの数に対して明らかに少ない。


エメリクはそっと袋を開け、

静かに問いかける。


「その銀貨、誰が渡した?」


「えっと……えっと……

 教会の、兄上の部下の者です。

 “催しのための仕入れ”だと」


エメリクはゆっくりと立ち上がった。


ヨハンに向き直り、はっきり言う。


「兄上。

 これは、村の疲弊ではなく――

 村の“搾り取り”だ」


ヨハンの表情が初めて揺れた。

風が法衣を大きく揺らし、

銀の髪が波のように動く。


「エメリク……

 それは言いすぎだ」


「言いすぎだとしたら、

 兄上の箱に、今日の銀貨を全部入れてみればいい。

 “どこから来た銀貨か”――

 兄上自身が確かめられる」


ヨハンはしばらく黙り込み、

広場の賑わいを見つめた。


屋台の匂い、芸人の声、子どもの笑い声。

そのどれもが、兄弟にとって違う意味を持つ。


ヨハンにとっては“水脈”。

エメリクにとっては“風の通り道”。


価値は似ているようで――違っていた。



(鐘がひとつ鳴る)


ヨハンがついに口を開いた。


「……今夜、また話そう」


「兄上の箱を、もう一度見せてくれるか?」


「見せよう。

 だが――お前の帳面も示せ」


「もちろんだ。

 村の暮らしは、全部ここに書いてある」


エメリクは手帳を軽く叩く。


そして兄弟は、

互いの“正しさ”と“誤り”を測るように、

静かに視線を交わした。


風が吹く。

水面が揺れる。


村の空気は――そのどちらにも引き裂かれつつあった。

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