第20話 帳簿と天糧壺の祭り
「……黒いな。」
机の上に、帳簿が三冊積んである。
一番上の表紙には、父の癖のある字で
「村会計」とだけ書かれていた。
指でなぞると、墨の跡が少し盛り上がっている。
父が何度も書き直した線だ。
(椅子がきい、と鳴る)
「兄さんは、来ないのか。」
部屋の戸は半分開いている。
礼拝堂の鐘の音がかすかに入ってきた。
さっきから何度目か分からない。
今日も“天糧壺の祈祷”が続いているのだろう。
一枚、帳簿を開く。
収穫量、納税、祭りの費用。
その中で、同じ言葉が何度も目に入る。
――「天糧壺祭」
指でその行を押さえる。
隣の列には数字。
大麦、小麦、豆、肉。
そして、その横に赤い墨で印が付いている。
「……多すぎる。」
声に出すと、部屋が少し冷たく響いた。
(戸口で衣擦れの音)
「呼んだか?」
兄の声だ。
振り向くと、礼拝堂の香の匂いをまとって立っている。
肩にかかった布には、壺の紋章。
「呼んでない。」
「勝手に来た。」
兄が笑って、部屋に入ってくる。
笑い声の奥には、まだ葬儀の赤い目が残っていた。
「父さんの帳簿だろ。」
「そう。」
兄は机の脇に立ち、顔を覗きこむ。
「どうだ。相変わらず、父さんの字は読みにくいか。」
「数字はもっと読みにくい。」
兄がくすっと笑ったあと、
ふと真面目な声になる。
「……何か、気になることがあるんだろ。」
ページをめくる。
天糧壺祭の費用だけを追っていく。
年ごとに少しずつ増えている。
「この列。」
指で示すと、兄が身をかがめる。
「ここ五年で、祭りに出してる穀物が増えてる。
収穫は増えていない。」
兄はしばらく黙って数字を追った。
その沈黙のあと、短く息を吐く。
「それだけ、村が守られてきたってことだろ。」
「逆だ。」
思わず言葉が強くなる。
「守るために削りすぎてる。
腹の中が空のまま、祈りだけ増やしてる。」
兄が眉をひそめる気配。
机の上の壺の影が揺れる。
「弟よ。」
兄は声を落とす。
「天糧壺は、昔、この村を飢えから救った。
父さんだって、それを信じてた。」
「父さんは、畑と川を信じてた。」
手の平で帳簿の紙を押さえる。
「父さんは毎年、雨の回数と、川の水位と、土の状態を書いてた。
壺の前で祈ってる時間より、
畑で石拾ってる時間の方が長かった。」
兄は少し黙った。
指先が机をとん、と軽く叩く音。
「信仰があったから、畑も守れたんだ。」
「畑があったから、信仰を守れたんだ。」
言い合いというより、
同じ場所を別の言葉で指さしている感じだった。
(廊下の向こうから足音)
誰かが戸を軽く叩いた。
「村長さま、よろしいですか。」
声で分かる。村の古老だ。
兄が戸口へ向かう。
「入ってください。」
戸が開き、古老が背を少し丸めて入ってきた。
衣服から、干し草と土の匂いがする。
「父上の……いえ、前の村長殿の帳簿を、見ておられるとか。」
「見ています。」
古老は机に近づき、数字を覗くふりだけして、
すぐに顔を上げた。
「天糧壺の祭りのことですかな。」
兄と顔を見合わせる。
「どうして分かる。」
古老は苦笑した。
「年寄りには、だいたい見当がつくもので。」
椅子をすすめると、古老はゆっくり腰を下ろす。
木がきい、と鳴る。
「……正直を言いましょう。」
古老は小声になる。
「ここ数年、祭りに出す穀物が重すぎると、
何人もがこぼしておりました。」
兄の肩がわずかに揺れた。
「神父様には?」
「言えませぬ。」
古老は即答した。
「天糧壺のおかげで、この村は飢えを免れた。
そういう言葉で、皆、育ってきた。
誰も、祭りを小さくしようとは口にしません。」
「でも、実際には……?」
古老は手を開いて見せる。
骨ばった掌。
爪の間に、まだ土が少し残っている。
「若い者は、冬になると麦を減らして寝床で震える。
それでも祭りの日には、壺の前に山盛りの穀物を積む。
そうせねば、天が見放すと怖がる。」
兄は唇を噛んだ音を立てた。
「じゃあ、どうすればいい。」
声がわずかに荒い。
「祭りをやめるのか。
壺を捨てるのか。」
「捨てろとは言わない。」
俺は帳簿を閉じる。
「壺は壺でいい。
問題は、壺を満たすために腹を空にしてることだ。」
古老がゆっくり頷く。
「村長殿の言うことはもっとも。
だが、人の心は、計算では動きませぬ。」
兄が、ふっと笑い、俺を見る。
「聞いたな、弟。」
「聞いた。」
古老は続ける。
「天糧壺が一度だけ本当に満ちた飢饉の年があったことは、
わしも子どものころから聞いております。
誰も畑に出られぬほどの吹雪の日、
壺の前にだけ食べ物が集まった、と。」
「それは、誰が置いたんだ。」
古老は目を細めた。
「さあ。
天か、人か。
その違いを、あの頃の者は気にしなかった。」
部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
兄が静かに言う。
「父さんは、その話を、信じてたんだと……思う。」
俺は別のことを思い出していた。
吹雪の夜ではなく、去年の干ばつ。
父が誰よりも先に川に降りて、
泥に膝まで浸かって小さな水路を掘っていた姿。
あれは、天が壺に入れてくれるのを待っている背中ではなかった。
「父さんは、壺が満ちなくても、
自分の手で満たそうとしてた。」
そう言うと、古老が肩を震わせて笑う。
「お二人とも、前の村長殿に似ておられる。」
兄が不満そうに眉をしかめる。
「どこが。」
「上の方は信じたがり、
下の方は計算したがり。」
古老は両手を上下に振り分けて見せる。
「どちらも、村には必要です。」
(外で子どもの声/犬の吠え声)
兄が椅子から立ち上がる。
「……今日の祈祷の時間だ。」
「行くのか。」
兄は壺の紋章をつまみ、胸のあたりで軽く整える。
「行く。
これは父の役目でもあった。」
戸口に向かう兄の背中を見送りながら、問いかける。
「兄さん。」
「なんだ。」
「来年の天糧壺祭、
祭りの量を、収穫に合わせて変えることは、
信仰に反する?」
兄は少しだけ立ち止まった。
振り向かないまま、答える。
「……まだ分からない。
教会で、聞いてくる。」
その声は迷っていたが、
完全に拒んでもいなかった。
兄の足音が廊下を遠ざかる。
礼拝堂の方向からは、
鐘の音と、誰かの歌声がかすかに重なって聞こえてきた。
古老が静かに言う。
「村長殿。
天糧壺の話を変えられるのは、
壺を壊す者ではなく、
腹を守る者です。」
「腹を守る者。」
「ええ。
誰も飢えさせずに冬を越した者の言葉なら、
人は耳を貸します。」
帳簿の表紙に手を置く。
父が残した線の上に、自分の指が重なる。
「……なら、まず今年を、越える。」
そう口に出したとき、
礼拝堂からもう一度、鐘の音が響いた。
さっきより、少しだけ軽い音に聞こえた。
――壺は壺。
腹は腹。
どちらも守れと言うなら、
やり方を変えるしかない。
父の代ではできなかったやり方で。
(ペン先が紙に触れる音)
新しい帳の端に、
小さく一行だけ書き加えた。
「――天糧壺祭・次年分 “収穫量に応じて変動” 検討。」
墨のにおいがふわりと立ち上がる。
窓の外で風が一度だけ鳴り、
紙の端を軽くめくった。
――了――




