第19話「父の葬儀と“天糧壺(てんりょうこ)”の伝承」
薄暗い礼拝堂の空気は、朝の冷たさよりも重かった。
石の床に並ぶ長椅子の下には冷えた湿気が溜まり、
靴裏がきゅ、と小さく鳴るたび、胸の奥が沈む。
棺の前に置かれた大きな布には、
古い壺と二匹の魚の紋章が金糸で縫われている。
灯明の炎が揺れるたび、壺の口が微かに光った。
(布が擦れる音)
神父がゆっくり立ち上がった。
長い法衣の裾が床をなでる。
「……彼が眠りについたのは、夜明け前でありました。」
神父の声は低く、けれどもよく通った。
礼拝堂の石壁に反射し、重ねた響きになる。
「この村を支えた者よ。
そして、我らが**天糧壺**の伝承を守った家の当主でもありました。」
椅子がわずかに揺れる音がする。
村人たちが姿勢を正したのだ。
背中で兄が息を飲むのが分かる。
その音だけで、兄の目が赤く濡れている気配が伝わった。
神父は、祭壇横に飾られた陶器の壺をそっと指さす。
その壺の表面には細かな模様が走り、
炎を受けて赤銅色に光っていた。
「昔、この村には天から糧が降りた壺がありました。
飢えた年も、困窮の年も、壺の周りには食卓が満ちた。
それを我らは“天糧壺”と呼び、
今もその名残を紋章として受け継いでおります。」
(ざわ……と衣擦れの音)
村人たちが頷く。
誰もが幼いころから聞いてきた話だ。
兄は拳を固くしていた。
祈りの体勢のまま、体が震えているのが見える。
(沈黙)
神父が棺に手を置いた。
「……彼は、壺を守り、村を守り、
天の糧を信じた者でした。」
その言葉に、胸がざらりと逆立つ。
いや、父は壺じゃない。
天から降った食べ物じゃない。
父が村を満たしたのは、自分の手だ。
畑の石を拾い、川の泥をかき、
夜中まで帳簿を睨んだ、あの背中だ。
だが言葉にはならない。
葬儀の静寂が、あまりに重い。
(神父が深く息を吸う音)
「さあ、別れの祈りを捧げましょう。」
村人たちが一斉に立ち上がり、
長椅子がぎ……と揺れた。
兄が小さく呟く。
「……父さんは、本当に壺を信じてたんだよ。」
その声は震えながらも、芯があった。
まるで壺の紋章を握りしめるような声音。
「そうだろ? 兄弟。」
問いかけられたが、答えには詰まる。
(炎の揺れる音)
兄の目は祭壇の壺に向き、
その光だけを吸い込んでいた。
「父さんは“天が与える糧”を大切にしてた。
そういう人だった……そうだよな。」
俺は胸の奥に、
冷たい泥のような違和感を抱えたまま、返せない。
兄の信仰が強くなるほど、
父の現実的な背中が遠ざかる気がした。
葬儀は静かに進んだ。
神父の祈り。
村人のすすり泣き。
蝋燭のわずかな音。
(風が扉を揺らす音)
最後に、神父が語る。
「天糧壺を守る家は、この村の柱であります。
これからも、その務めは続きます。」
兄は真っ直ぐに頷いた。
その姿は、もう父と同じ“壺の家”の継承者だった。
祭壇の壺の口が、灯に照らされ、
冷たく光った。
俺はその光の下に立ちながら、
胸の奥の違和感だけがゆっくりと深く沈んでいくのを感じた。
——父は、壺では村を救えないと知っていたはずだ。
だが言えない。
この場では誰も聞かない。
(葬儀の終わりを告げる鐘の音)
村人の靴音が外へと流れていく。
兄はまだ祭壇を見つめていた。
兄の立っている場所——
今の兄には壺の光しか見えていない。
その光は、
これから俺と兄の間に“長い影”を落とす気配がした。




