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第18話 風の下に灯をともす

 夜の底で、犬が一声だけ鳴いた。

 村の外れの鐘を預かるローデン神官が、手を止めて息を吸う。

 その一声が「風が東へ返った」合図だった。


「エメリク、今夜は冷える。七灯、すべて点けるのか?」


「はい。根から順に。上から燃やすと風が迷う」


 石の床に、七つの燭台。

 油を注ぐ音、芯が布に擦れる音。

 倉の梁の上で、猫が見ている。

 マリアが油壺を持って跪き、祈りを合わせる。


「息を合わせます。根、幹、枝……。」


 火打石の音。

 パチリと弾けた光が一つ、また一つ。

 エメリクが短く息を吐き、灯の列が下から順に明るむ。


 ローデン神官が小声で言った。

「双つの火の年が来る。表が暴れ、裏が灰に残ると、昔の書にあった」

「分かっています。火を縛るより、風に覚えさせます。」


 風を受ける羽根車を置くと、弱い気流でも羽根が静かに一段回る。

 灯が怯えず、芯が呼吸するように揺れた。


「これでいい。風が火の道を覚えた。」


「雨は?」とマリア。

「まだ来ません。空が硬い。土が音を吸わない。」


 外で牛が鼻を鳴らす。

 少年テオが手綱を持っていた。

「エメリク様、畝を浅くしますか?」

「そうだ。深く掘れば根が息を忘れる。今日は浅く、明日も浅く。」


「印はそのままに?」

「そのままでいい。額の印は“血ではなく汗”の証です。」


 倉猫が梁から降り、穀倉の影に消えた。

 ねずみが鳴く音、次いで沈黙。

 ローデン神官が微笑んだ。

「倉は任せたようだ。」

「ええ、あの子は働き者です。」


 灯を見上げるマリアの横顔に、淡い火が映る。

 エメリクが呟く。

「……この灯は、村の呼吸だ。消せば肺が止まる。」


「そう言って、あなたのお父上も灯を守っておられた。」

 ローデンが言う。

「でも、王都は帳簿と印ばかりを求める。」


「わかっています。兄上は教会領へ呼ばれました。」

「ヨハン様が?」

「はい。祈りを秩序に戻せと。……僕は村を守ります。」



 井戸の縁は冷たい。

 エメリクが杖で土を叩く。

 硬い音のあと、井戸の底から“ぽつり”と湿った音。


「聞こえますか?」

 マリアが耳を傾ける。

「水が、思い出している音ですね。」

「ええ、まだ流れを覚えている。」


 井戸の石の間から、蛇が顔を出した。

 テオが驚いて後ずさる。

「追わないで。ここを通るだけだ。」

 蛇は静かに消える。

 マリアが胸で十字を切ろうとしたが、エメリクが手で止めた。

「これは恐れの印ではない。再生の道です。」



 朝。七灯を残したまま、倉の前に器が並ぶ。

 エメリクが配る。

 マリアが麦の計量を手伝う。

 ローデン神官が祈りを読み上げ、テオが荷車を押す。


「今日の分は今日。明日はまだ約束の中。」

 村人が一人ずつ頭を下げ、器を差し出す。

 手の震えがそのまま量を決める。

 数を数えず、声も掛けないのに、みんなが納得した。


「種分は別ですか?」とマリア。

「はい。春が浅い。深く播かず、風で乾かす。」


 猫が足元を回り、梁に戻る。

 その瞬間、犬が遠くで吠え、風が東へ返った。


「……呼ばれたのですね。」

 ローデンが低く言った。

 エメリクは頷く。

「はい。教会領からの召喚です。兄上の報せでしょう。」


 ローデンが鍵を差し出す。

「倉を頼みます。」

「預かります。」


「ヨハン様に伝えることは?」

「あります。“火は根から起こせ”。上から燃やすと、風が迷うと。」

 ローデンが短く笑った。

「笑われますよ。」

「笑わせておきます。土は笑いません。」



 その日の午後。

 ヨハンは教会領の石堂にいた。

 高司祭が祈りを唱える声を聞きながら、胸の中に小さな違和感。

 灯が上から順に点けられていく。

 だが、どこか息苦しい。

 上ばかり明るくて、足元が暗い。


 そのとき、遠くの鐘が一つ鳴った。

 音が風に乗り、堂の中まで届く。

 ヨハンが顔を上げた。

 あの音は知っている。

 弟が火を入れるときの合図――根からの呼吸だ。


 周囲の司祭たちが振り向く。

「今の鐘は?」

「東の村からでしょう。」

「なぜ鳴らす?」

 ヨハンは答えず、灯の列を見つめた。

 上から点された火が、ふっと揺れて一つ落ちた。

 代わりに、下の小さな灯が強く息を吸い、燃え上がる。


 祭服の裾が揺れる。

 風が、堂の中に入り込んだ。

 火が逆順で灯り、天井まで光が這い上がる。


 誰も言葉を出せなかった。

 ヨハンだけが静かに目を閉じた。

 ――風が道を覚えた。



 その夜、村では七灯が静かに息をしていた。

 エメリクが窓を開ける。

 羽根車がわずかに回り、火が低く応える。

 マリアが歌を口ずさみ、粉を挽く音が一定の拍で続く。

 猫が梁で丸くなり、犬が坂の上で首を上げた。


 遠くの教会領から、鐘が三度響いた。

 風が東へ返り、倉の灯がその拍で揺れる。


「兄上、聞こえましたね……。」


 エメリクが呟く。

 風の音だけが返ってくる。

 冷たくも、柔らかい。

 まるで誰かが息を合わせてくれているように。


 七つの灯が一度だけ膨らみ、

 根から順に、光の拍を合わせた。


 その夜、村は静かだった。

 誰も祈らず、誰も言葉を発さず。

 ただ風と灯と呼吸だけが、同じ間で揺れていた。

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