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――17


「ブタ!」

 私の子供の頃のあだ名だ。

 私は生まれつき太っていた。その上、根暗で、トロくて、イジメのかっこうの的だった。男子からは毎日のようにイジメられ、女子からは仲間外れ。もちろん友達なんて一人もいなかった。

 私には両親がいない。赤ん坊の頃事故で亡くなったそうだ。その後、私は親戚の家に引き取られた。伯父さんも伯母さんも私に関心は無く、私が学校でイジメられていようが特に興味は無かった。というより、私がイジメを受けていた事すら多分知らなかったと思う。

 でも、そんな私をいつも慰めてくれる人が一人だけいた。私のおばあちゃんだった。

「神奈ちゃん大丈夫かい?」

 優しいおばあちゃんだった。毎日学校から泣いて帰ってくる私を慰め、励まし、抱きしめてくれた。おばあちゃんの胸の中だけが私の安息の場所だった。

「うっ、う……わ、私は、ぐす、い、いらない子なんだって……」

「そんな事無いわ。この世に必要ない人間なんていないんだから」

「ぐすっ……でも、私は、トロいし、太ってるから、うぅ、邪魔なんだって、みんなが」

「邪魔なんかじゃない。神奈ちゃんは必要とされているわよ」

「本当?」

「ええ、少なくとも、おばあちゃんは神奈ちゃんを必要としているわ」

 毎日、死にたくなるようなイジメを受けても、おばあちゃんのお陰で次の日も頑張ろうと思えた。

「ゴホッ、ゴホッ!はぁはぁ……」

「おばあちゃん大丈夫?」

「ええ……大丈夫よ……少し休めば良くなるから」

 おばあちゃんは体が弱かった。私が小学生の時にはもう自分の足で歩く事が出来なくなっており、私が中学生になった時にはもう寝たきりの状態だった。

「……おばあちゃんが私を必要としてくれるなら、私はおばあちゃんの身体を治してあげる。いっぱいいっぱい勉強してお医者さんになって、おばあちゃんを元気にしてあげる」

「……そうかい、ありがとうね」

 おばあちゃんは少し驚いた表情を見せた後、にっこりと笑ってくれた。

こんな私でも必要としてくれる人がいるなら、私はその人の為に尽くそう。その日から私は学校で受けるイジメを無視するようにし、毎日勉強に没頭した。毎日、毎日、朝登校する前から夜寝る直前まで勉強した。そのうち、何の反応も示さなくなった私に飽きたのか、男子からちょっかいを出される事もなくなり、いじめられる事はなくなった。……そう、もうおばあちゃんに慰めてもらう必要もなくなったのだ。そして、そんな私を見届けるかのようにおばあちゃんはこの世を去っていった。

「神奈ちゃんを必要としてくれる人は私以外にも必ずいるわ。もし神奈ちゃんの力を必要としている人が現れたら、喜んで力を貸してあげなさい」

 それがおばあちゃんの最後の言葉だった。



 おばあちゃんが亡くなってから数年、私は県内屈指の進学校に入学していた。相変わらず友達は一人もできなかったが、それでも私はひたすら勉強した。私の進むべき道は決まっている。

「竜崎は、進路はどうするんだ?」

「神ノ宮中央医科大学を受けようと思っています。あそこは私立の医科大学ですけど、成績上位者は授業料免除と返還義務無しの奨学金をもらうことが出来ますから、家の人に金銭的負担をかけなくて済みます」

「んー医科大学かぁ、まあ、お前の成績なら問題無いと思うが……その、何て言うか、大丈夫かぁ? 医者になるのは大変だぞ?」

「昔から決めていた事ですから」

「そうか、お前がそう言うなら……」

 家族に相談した時もそうだったが、進路相談の時も担任の先生から医者になる事を心配された。いくら勉強ができて、成績が良くても、根暗で不器用な私が医者になると言い出したら、そう思われても仕方が無いだろう。でも、これが私の夢だから、もう止まる訳にはいかなかった。

 私は更に勉強に没頭し、念願だった神ノ宮中央医科大学に首席で合格することが出来た。嬉しかった。医者になるための第一歩、ようやくスタートラインに立つ事が出来たのだ。この時は久しぶりに笑った気がした。



 大学生活が始まり、私にも変化があった。

「ゴメン竜崎さん待った?」

「う、ううん。わ、私も今来たところだから」

「それじゃ行こっか。学食の席無くなっちゃう」

 初めて私に友達が出来た。

彼女の名はミキ。私と違い、美人で明るく社交的な人だった。

「あれ? ウソ、ちょっと待ってよ」

「ミ、ミキちゃん? どうしたの?」

「うわーサイアク。お財布忘れてきちゃった。どーしよー」

「あ、それなら私のお金使って」

「え? だめだよそんな……」

「い、いいの。つ、使ってちょうだい」

「う~ん、本当ゴメン。後で必ず返すから」

「う、うん」

 本当に楽しい大学生活だった。……でもそんな楽しい大学生活も長くは続かなかった。



(あれ? カバンの中に入れておいたハズのレポート課題が無い。昨日の夜ちゃんと確かめたのに)

 この時あたりからか、私のカバンから物、特にレポート類が紛失する事が多々あった。

「何?またレポートを忘れたのか?どうしたんだ竜崎、最近弛んでるぞ」

「……申し訳ありません」

 担当教員にレポートを忘れてしまった事を伝え、私は席に戻った。

「どうしたの竜崎さん?」

「ううん、な、何でも無いよ。ただ、レポートを忘れちゃっただけだから」

「大丈夫? 最近、竜崎さん元気ないよ」

「だ、大丈夫だよ。い、いつも通りだから。は、はは」

「そお? ならいいんだけど……あ、そうだ。竜崎さん今日の夕方空いてる?」

「え? ど、どうして?」

「カラオケ行かない?他にも何人か誘ってさ」

「え、あー……ご、ごめんなさい。き、今日は用事があるの」

 ウソを吐いた。この時、特に用事なんて無かったが、面識の無い人達とカラオケに行く事に躊躇してしまった。

「ああ、そうなんだ。何か無理に誘ってゴメンね」

「そ、そんなこと無いよ。誘ってくれてありがとう」

 この時、躊躇せず、素直に誘いを受けていれば、また違った人生が待っていただろう。しかし、今思えばこの誘いを断っておいて良かったのかもしれない。そうでなければ、真実を知る事は出来なかった。そうしなければ、あの出会いも無かった。

 この日、私は遅くまで学校の図書館で勉強をしていた。日も落ち、閉館時間も近づいてきたのでそろそろ家に帰ろうかと荷物を整理していた時だった。

「あっ、しまった」

 自分のカバンの中を見て気が付いた。

「ミキちゃんにノート借りっぱなしだった。どうしよう、今日中に返した方がいいよね……」

 私は図書館を後にした。そして、携帯電話を取り出し、彼女に電話をかけた。とにかく、彼女に一報を入れといた方がいいと判断したのだ。

「ん? あれ?」

 電話をかけた直後だった。聞いた事のある着メロが、すぐ横にある建物の二階から聞こえてきたのだ。

「この曲、ミキちゃんの着信音」

 私はすぐに電話を切り、着メロが聞こえてきた二階へと向かう事にした。本人が居るなら直接返す事が出来る。そう思ったからだ。

 そして、私は着メロが聞こえてきた、とある教室の前に着く。真っ暗な建物の中でその教室だけ明かりが点いており、中からは数人の笑い声が聞こえてきた。

「他にも誰か居るみたい……」

 彼女以外の人が居る事がわかり、私は教室に入る事を躊躇した。人見知りな私としては少し怖かったのだ。しかし、そんな理由で借りた物を返さない訳にはいかない。意を決して教室に入ろうとドアに手をかけた時だった。

 聞いてしまった。彼女達の会話を。

「ねぇミキ、今の電話誰から? もしかして彼氏?」

「違う。私の飼ってるブタちゃんから」

(……え?)

 私は一瞬耳を疑った。しかし、その声は間違いなく彼女のものだった。そして、その声で言われたのだ、小学生の頃、毎日の様に言われた私のあだ名を。

「っていうかミキさぁ、どうしてあんなデブとつるんでるわけ? アイツ暗くてキモいんだけど」

「私も~、アイツマジで何考えてるかわかんないし、つーか怖い」

「ああ、いいのいいの、あのブタちゃんは私の財布だから」

「え? どーゆー事?」

「あのブタ、頭だけはいいからさ奨学金ガッポリ貰ってるわけよ。あのブタにはどーせエサ買うぐらいしか使い道がないんだし、私が代わりに使ってあげてんのよ」

「うっわ、ナニソレヒデー。でもミキの家ってさ、お金あるんでしょ? 親から貰えないの?」

「それがさ、ウチのクソ親父、金あるくせに必要最低限の金しかよこさないんだよ。高い学費払ってるから充分だろ? だって。ふざけんなっての」

 扉の向こう側から、「キャハハ」という彼女達の笑い声が聞こえてくる。私は頭の中が真っ白になっていた。彼女達の言っている事が理解できない。いや、理解したくなかったのだ。もうこれ以上彼女達の会話を聞きたくない。この場に居たくない。しかし、いくらそう思っていても私の足は言うことをきかず、動いてはくれなかった。

「だからあのブタちゃんから貢いでもらってんの。いやーいくら金ひっぱっても返してとか言わないからさ、ついつい使っちゃうんだよねぇ」

「えーいいなー、ミキィ私にもちょっと回してよ」

「それがさぁ、今日ブタちゃんにカラオケ行こうって誘ったわけよ。もちろん全額ブタちゃん持ちでね。そしたらさぁ、あのブタ何て言ったと思う? 「今日用事がある」だって。マジふざけんなよあのブタ」

「えー? もしかして今日のカラオケ無しになった理由ってそれ?」

「そーよ。でもまあいっか。ブタちゃんからはレポートとかコピらせてもらってるし」

(レポート? もしかしてレポートって……)

「ホラ、私って忙しいからさぁ、レポート何てダルいものやってないのよねぇ。だから、ブタちゃんのやってきたレポートパクって丸写ししてんの」

「え? それだと教授にバレない?」

「だいじょーぶ。パクったブタちゃんのレポートは写し終わったら捨てちゃうから」

「うわーミキサイテーじゃね? それに忙しいって男とばっか遊んでるからじゃん」

 退く事も出来ないせいで、更に知りたくもない事実を耳にしてしまった。私の視界はグラグラと揺れ、頭の中では彼女達の笑い声が反響していた。喉の辺りまで込み上げてきている吐き気を必死に堪える。だが、それでも私の足は動いてくれず、教室の前に止まっていた。

「ぶっちゃけさぁ、仮にブタちゃんが医者になったとしてぇ、アンタ達、ブタちゃんに診察されたいと思う?」

「私ムリ」

「私もパス」

「でしょ! あんなキモデブが医者になれるわけねーじゃんっての」

 もう、聞きたくなかった。

「アイツ何のために存在してんだよ」

 もう、やめてほしかった。

「金だけ置いて死んでくんねぇかな」

 もう、耐えられなかった。

「あのブタ存る意味無ぇよ」

「……ッ」

 突然、私の足が動き出し、私はその場を離れる事が出来た。頭では何も考えられず、ドコをどう走っているのかすらわからない。

 運動音痴で、普段全く走ったりしない私だったが、この時はまるで別人の様に足が動いていた。勝手に足が動き、廊下を駆け抜け、物凄い勢いで階段を駆け上がった。

 そして、私は無意識の内に神ノ宮中央大学病院の屋上へ辿り着いた。ここに来た理由はわかっている。もうやる事は一つだけだ。私は屋上の端へ行き、手すりをよじ登って向こう側へと降りた。

 あと一歩。一歩踏み出すだけで私の人生は終わる。呆気なく終わる。しかし、ここにきて私の足はまた言う事を聞いてくれなかった。

「どうして……、一歩、いやあと半歩踏み出すだけで全てが終わるのに、私をここに連れて来たのは貴方でしょ」

 私はこの期に及んで竦んでしまった自分の足に話しかけていた。

「行こう行こう行こういっ……」

「おや先客が居るようだ」

 突然、後ろから男性の声が聞こえ、私は慌てて振り向いた。

「ここから見る夜景は素晴らしいが、手すりを越えて見ようとするのは危険だよ」

「だ、誰ですか貴方」

 屋上の入り口の前には一人の見知らぬ男性が立っていた。

「わ、私は別に夜景を見に来たわけではありません。ここから飛び降りて自殺するんです。じゃ、邪魔をしないでください」

「そうか、飛び降り自殺か……うーん、私はあまりおすすめ出来ないね、飛び降り自殺は」

 そう言うと、見知らぬ男性は私の方へと歩き出した。

「こ、来ないでください」

「飛び降り自殺は後処理が面倒だ。落ちた人物の血や肉片が辺りに散乱して掃除するのが大変なんだよ。特に君の様な体格だとね」

 男性は私の言葉を無視して一歩一歩近づき、そして、私から約一メートル離れた所で立ち止まった。

「どうして死にたいんだい?」

「も、もうこの世界には私を必要としてくれる人なんていないから、私なんていてもいなくてもいい存在だから」

「だから死にたい……か。だが、それはとてももったいない事だよ。竜崎君」

「えっ、どうして……私の名前……それに」

 今、この男性は「もったいない」と言ったのだ。もう誰にも必要とされていない私に対して。

「もちろん知っているよ。私はたまに臨時講師としてここの大学に講義をしに来るんだ。君の優秀さはここの先生方からよく聞いている。……しかし、そうか君は私の講義を受けた事が無いんだね。少し残念だな」

 男性は「ははは」と自嘲にも似た笑い声を漏らす。

「それに、君の様に優秀な頭脳の持ち主がこの世からいなくなってしまう事は本当にもったいない事だよ」

 その時の私には、そんな言葉を信用する程心に余裕は無かった。何もかもが怪しく見えてしまい、私は男性の笑顔を直視できずに顔を伏せた。

「だ、だからって……いくら優秀な頭脳を持っていたって、誰にも必要とされなければ、いる意味なんて……」

「なら私が貰おう」

「え?」

 男性の言っている意味がわからず、疑問の声を上げた。私は伏せていた顔を上げ再び男性の顔を見る。先程までの笑顔とは違い、そこにあったのは表情の無い顔だった。

「君がいらないと言う、その命を私にくれないか?」

「え、どういう意味ですか?」

「ああ、すまない。言い方が悪かったか。では、率直に言おう。君にはある新薬の被験者になって欲しい」

「新薬……ですか?」

「そうだ。私は今、新薬の研究、開発を行っていてね。その薬は今のところ理化学検査や動物実験といった非臨床試験までは終了している。次はヒトを使った臨床試験なんだ。君にはその第一号になって欲しいんだよ」

「で、でもそれなら、もっと健康な人に頼んだ方がいいんじゃ……」

「いや、出来れば君の様な人間の方が良い。その方がその新薬の効果が見やすい」

 そう言って、男性はゆっくりとした動きで右手を私の前に差し出した。私が少し手を伸ばせば届く距離に男性の右手がある。

「理化学検査や動物実験で問題が無かったとはいえ、ヒトで試すのは初めてだ。何が起こるかはわからない。しかし、成功すれば多くの人々を救う第一歩となる。犠牲になれとは言わない。だが、君の命が病気で苦しむ多くの人達を救う事が出来るかもしれないんだ」

「わ、私が?」

私の心は揺らいでいた。先程、いらないと言われていた私が、そんな私でも命を張れば誰かの為になる。役立つかもしれない。

「さあ、選んでくれ。そのまま、そこから飛び降りて肉塊になるか……私と来て多くの命を救うか……決めてくれ」

「わ、私は……」

 私は手すりから手を放した。そのまま後ろに倒れれば私の人生は終わる。でも、私は震えた手を伸ばした。手すりの向こう側へ、差し出された右手を握りしめた。

「ありがとう。君の勇気に感謝する」

 こうして、私は先生と出会った。

その後、私は先生と共にとある場所へ移動した。約十畳程のとても殺風景な部屋だった。窓は無く部屋の中央には病院等にある簡易ベッドが一つと入り口の横には鏡と洗面台が備え付けられていた。私は手術着に着替えるとその部屋に入った。

「では始めようか。今から君にこの薬剤を投与する」

 先生の右手には青白い液体の入った試験官が握られていた。はたから見ればとても薬には見えない。体に悪そうな色を放っている。いや、薬なんて結局のところ体に良い物ではないのだから、見た目なんてどうでもいい事か。

「君はベッドに横になってくれ、点滴で少しずつ薬を投与していく」

 先生に言われた通り私はベッドに横になる。先生はテキパキと点滴の準備を進め、私の右腕に注射針が刺し込まれた。

「この検証がうまくいけば君はその結果に驚くだろう。もちろん失敗は絶対にさせない」

 私の血管と繋がっている生理食塩水の入ったバッグに例の新薬が投与された。

 薬剤が投与されてから一時間程経った頃、私の身体に異変が起きた。

「あ、熱い」

 急に燃えるような熱さが体の奥深くから込み上げてきた。まるで、サウナや真夏の炎天下に居るかのように体中から汗が噴き出してくる。

「薬が効き始めてきたようだな。苦しい……いが頑張って……もうすぐ……」

 先生が何か言っているみたいだったが、意識が朦朧とし始め途中から何を言っているのかわからなかった。そして、この後私は意識を失った。

 それからどれだけの時間が経ったのだろう。私は目を覚ました。目の前には真っ白な天井があり、首だけを動かして周りを見回すとやはりそこは何もない殺風景な部屋だった。しかし、先生の姿は見えず、部屋には私一人しか居ない。とりあえずベッドから降りようとした時、私は自分の身体の異変に気が付いた。

「えっ、何……これ」

 動かそうとした自分の右腕を見て心臓が止まりそうなほど驚いた。ブ厚い脂肪に覆われ、大根の様だった私の腕が、あろうことかまるで人形の様な細く綺麗な腕になっている。いや、それだけではない。腹のまわりにまとわりついていた脂肪も脚についていた脂肪も一切合財なくなっている。

「何がどうなっているの……そうだ」

 私はベッドから降りると部屋に備え付けられている洗面台の前に行った。そこには鏡も一緒に備え付けられている。

 今、自分がどうなっているのか確かめるために私は鏡を覗きこんだ。

「だ、誰?」

 覗き込んだ鏡に映っていたのはいつも見ていた下膨れの破裂しそうな大きな顔ではなく、無駄な脂肪が一切ない整った綺麗な顔だった。

「それが今の君だ」

 私は声のする方に視線を移す。すると、部屋の入り口に先生が立っていた。

「気が付いたか、気分はどうだい?」

「え、えっと、それより、これはどういう事ですか」

 私は未だに状況がのみ込めず、混乱していた。あれだけあった脂肪がいつの間にか無くなり、別人のような体型になっていたのだ。動揺するのも無理はないと思う。

「それが、新薬『ブルードルフィン』の効果だ。君の無駄な脂肪を燃やし、そのほとんどを筋肉に変えた。足りないアミノ酸等は水分と一緒に点滴で補給した。脂肪が筋肉に変わっただけで体重は変わらないはずだよ」

「そ、そんな事が……実際に……」

「出来ているじゃないか。君自身がその証拠だ。検証は成功だよ。良いデータがとれた、君にはとても感謝している」

 そう言って先生は私に頭を下げた。それと同時に感謝の言葉を聴いた瞬間、私の目から大粒の涙が零れ落ちた。邪魔者扱いされ続け、感謝なんて一度もされた事のない私が初めて人の役に立った。何とも言い表せない気持ちと共に涙が溢れてくる。

「お、お願いがあります」

 私は涙声で言った。伯父さん伯母さんを含め人に何かをお願いするのは初めてかもしれない。その場に膝を着き、そのまま私は土下座をした。

「私に何か、お手伝いをさせてください! なんだって構いません! 雑用でも何でもします! ですから……お願いです。貴方の……お役に立ちたいんです」

 血が出るかと思うほど額を床に押し付け懇願した。しかし、返答は来ない。先生の顔を見る事も出来ず、ただただ額を床にこすり付け返答を待った。時間が経過し、もうだめかと思った時だった。

「君は大学に戻り医者の道を進んだ方が良いと、私は思う。私と一緒に来たところで得るものは何も無い。それでも……」

「それでもいいです! 私は……私を必要としてくれた貴方の役に立ちたい」

「……わかった。そこまで言うなら私の助手になってくれ。といっても本当に雑用ばかりになってしまうがね。さあ、顔を上げてくれ女性に土下座されるのはあまり良い気分ではないよ」

 私は顔を上げ先生を見上げた。そこには笑顔で右手を差し出す先生の姿があった。

「ありがとうございますありがとうございますありがとうございます……」

 私は差し出された先生の手を握りしめると、感謝の言葉を連呼し、泣いた。

 こうして、私は先生の助手となった。先生はああ言っていたけれど、先生の助手になって得られたものは多いと思う。

それに、たった数ヵ月の間だったが、先生と共に過ごした日々は楽しかった。今まで生きてきた中でこんなに楽しかった事なんて無い。まあ、私の人生があまりにもつまらなかったと言ってしまえばそれまでなのだが、ここは先生の助手でいられた事が日常では得られない体験だったという事にしておこう。

まるで夢の様な日々だった。だがしかし、夢からは覚めなくてはならない。一生続く夢なんてものは無い。それは死んでしまっているのと同じだ。あの時、折角助けてもらったのにそれでは意味が無くなってしまう。

さあ、起きなければ。さあ、戻らなければ。悪夢よりもずっとずっと恐ろしい現実の世界へ。

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