最初の退職者
2033年7月。
大阪・本町。
株式会社カナメでは、夏を迎えていた。
四月に新しい事務所へ移転してから、三か月。
社員たちも、新しい環境での仕事にすっかり慣れていた。
社員数は三十七名。
開発部では、開発一課、開発二課、基盤運用課の三課体制が続いている。
それぞれの課が担当する仕事を進め、必要に応じて協力する。
そんな日常の中で、ある社員が、一つの決断をしていた。
*
「田村さん、少しお時間いただけますか?」
七月上旬。
開発一課の中途社員が、田村洋介へ連絡した。
「ええで。どうしたん?」
「少し、お話ししたいことがありまして」
「了解。ほな、時間取ろか」
田村は、予定を確認した。
普段から、仕事の相談を受けることはある。
案件の進め方。
技術的な課題。
そして、今後の担当について。
今回も、そうした話かと思っていた。
*
「……実は、退職を考えています」
社員が言った。
田村は、一瞬言葉を止めた。
「……そうなんか」
「はい」
「何かあったん?」
田村が尋ねた。
「いえ。会社に不満があるわけではないんです」
「なるほど」
「今の仕事も、やりがいがありますし」
「うん」
「ただ、以前から興味のあった技術分野に、挑戦してみたいと思いまして」
田村は、うなずいた。
「そうなんやな」
「転職先も、すでに決まっています」
「なるほど」
「ですので、八月末で退職させていただけないかと考えています」
田村は、少し考えた。
「……そっか」
そして、社員へ目を向けた。
「結構、考えたんやろ?」
「はい」
「そうか」
田村は、うなずいた。
「話してくれてありがとうな」
「ありがとうございます」
*
「ちなみに、今の仕事で困っとることはないん?」
田村が尋ねた。
「大きな問題はありません」
「そうなんやな」
「周りの方にも、いろいろ助けていただいています」
「なるほど」
田村は、少し考えた。
「……正直、辞められるんは残念やで」
「すみません」
「いや、謝らんでええよ」
田村は、少し笑った。
「でも、今の案件もあるからな。引き継ぎはちゃんと考えなあかん」
「はい。もちろんです」
「ほな、そこは一緒に整理しようか」
「ありがとうございます」
社員は、少し安心したように笑った。
*
面談を終えたあと。
田村は、担当案件の一覧を開いた。
退職を申し出た社員は、開発一課でいくつかの仕事を担当している。
大型案件の一部機能。
設計資料の更新。
そして、ほかの社員への技術的な相談対応。
どれも、すぐに止められる仕事ではなかった。
「……さて、どうするかな」
田村は、少し考えた。
退職そのものを止めることはできない。
しかし、残る仕事については、整理する必要がある。
誰が引き継ぐのか。
どこまでを退職前に終わらせるのか。
そして、担当が変わることで、既存案件へ影響が出ないか。
田村は、必要な項目をまとめ始めた。
*
「西田、ちょっとええか?」
田村が連絡した。
「ええで。どうしたん?」
「開発一課の社員から、退職の申し出があってな」
「……そうなんか」
西田が答えた。
「八月末で退職したいらしい」
「なるほど」
「転職先も決まっとるみたいや」
「そうなんやな」
西田は、少し考えた。
「理由は聞いたん?」
「せやな。別の技術分野に挑戦したいらしい」
「なるほど」
「会社への不満いう話ではなさそうや」
「そうか」
西田は、うなずいた。
「……まあ、そういうこともあるわな」
「せやな」
田村は、少し笑った。
「ただ、初めてやからな」
「そうやな」
西田も、少し考えた。
「ほな、まずは本人の意思を確認して、必要な手続きを進めようか」
「了解」
「引き継ぎの方は、どうや?」
「今、整理しとるところや」
「なるほど」
「今の案件への影響を確認して、担当を調整したいと思っとる」
「せやな」
西田がうなずいた。
「そこは、田村の方で進めてくれたらええで」
「了解」
*
数日後。
金目は、西田から退職の報告を受けていた。
「……退職?」
金目が聞き返した。
「せやな」
西田が答えた。
「開発一課の社員から、八月末で退職したいいう話があってな」
「そうなんや」
金目は、少し考えた。
「何か不満あったんかな?」
「本人の話では、そういうことではないらしい」
「ほう」
「別の技術分野に挑戦したいんやと」
「なるほどな」
金目は、うなずいた。
「転職先は決まっとるん?」
「決まっとるみたいやで」
「そうか」
金目は、少し考えた。
「……ほな、本人もよう考えたんやろな」
「せやろな」
西田がうなずいた。
*
「……正直、残念やな」
金目が言った。
「せやな」
西田が答えた。
「せっかく一緒に仕事してきたわけやし」
「そうやな」
金目は、少し考えた。
「でも、本人がやりたいこと見つけたんやったら、応援したいな」
「せやな」
「うちに残ってくれたら嬉しいけどな」
金目は、少し笑った。
「でも、その人の人生まで会社が決めるもんちゃうしな」
西田がうなずいた。
「ほんま、それやな」
*
「引き継ぎの方はどうなっとる?」
金目が尋ねた。
「田村が整理しとるで」
「なるほど」
「今の案件への影響を確認して、担当を調整する予定や」
「了解」
金目は、少し考えた。
「ほな、そこは任せるわ」
「了解」
「採用の方は、どうする?」
西田が尋ねた。
金目は、少し考えた。
「……今の採用計画は、そのままでええんちゃう?」
「そうなん?」
「せやな」
「一人辞めたからいうて、すぐ一人採らなあかんわけでもないし」
「なるほど」
「まず、仕事の方を整理してもろたらええと思う」
西田がうなずいた。
「了解」
*
金目は、社員一覧を確認した。
三十七名。
四月に新卒社員二名を迎えたばかりだった。
そして、八月末には一名が退職する予定になった。
これまで、カナメでは新しい仲間を迎えることが続いていた。
しかし、会社で働く人が増えれば、別の道を選ぶ人も出てくる。
それは、会社が成長する中で、自然に起こることなのかもしれない。
「……まあ、寂しいけどな」
金目は、小さくつぶやいた。
そして、資料を閉じた。
退職する社員の意思を尊重すること。
残る社員たちの仕事を守ること。
その両方を考える必要があった。
カナメにとって、初めての退職者。
しかし、それもまた、会社の日常の一つになろうとしていた。
*
七月中旬。
株式会社カナメの開発一課では、八月末に退職する社員の引き継ぎについて、準備が進められていた。
退職の申し出を受けた田村洋介は、本人と担当業務を確認していた。
「ほな、今やっとる仕事を整理しようか」
「はい」
社員は、資料を共有した。
現在担当している大型案件の一部機能。
設計資料の更新。
そして、ほかの社員から受けている技術的な相談。
それぞれの進捗と、今後の予定がまとめられていた。
「……結構あるな」
田村が言った。
「そうですね」
「八月末までに終わらせられそうなんは、どれやろ?」
社員は、資料を確認した。
「こちらの機能については、今月中に実装が終わる予定です」
「なるほど」
「ただ、結合試験は来月になりますので、そこは引き継ぎが必要だと思います」
「せやな」
「設計資料の更新については、退職前に完了できると思います」
「了解」
田村は、うなずいた。
「ほな、全部を無理に終わらせるんやなくて、引き継ぐものをちゃんと分けようか」
「はい」
*
「ちなみに、今の案件で気になっとることはある?」
田村が尋ねた。
「そうですね……」
社員は、少し考えた。
「実装の内容については、資料にまとめています」
「うん」
「ただ、以前にお客様と確認した経緯が、少しわかりにくいかもしれません」
「なるほど」
「仕様を決めた理由も、引き継ぎ資料に残しておいた方がよいと思っています」
田村がうなずいた。
「それは助かるわ」
「はい」
「何を作ったかだけやなくて、何でそうしたんかもわかった方がええからな」
「そうですね」
田村は、少し笑った。
「ほな、そこもお願いしてええ?」
「もちろんです」
*
数日後。
田村は、開発一課の担当者たちと、引き継ぎの確認を行っていた。
「今回、担当を一部変更することになったから、確認しときたいんやけど」
田村が言った。
資料には、今後の担当と作業予定がまとめられている。
「こちらの機能は、来月から担当を変更する予定や」
「了解です」
「設計資料については、今の担当者が更新してくれとる」
「なるほど」
「ただ、資料を渡しただけで終わりにはせんようにしたい」
田村は、少し考えた。
「実際に次の担当者が確認して、わからんところがあれば聞けるようにしとこう」
「わかりました」
「八月末まで時間はあるからな」
田村は、うなずいた。
「慌てて全部移す必要はないで」
*
その日の午後。
西田は、田村から引き継ぎの状況を聞いていた。
「……どうや、進んどる?」
西田が尋ねた。
「今のところ、問題なさそうや」
田村が答えた。
「ほう」
「担当する仕事を整理して、順番に引き継いどる」
「なるほど」
「ただ、やっぱり一人減るからな」
「せやな」
「残るメンバーの負担は、少し増えると思う」
西田は、うなずいた。
「そこは無理せんようにしたいな」
「せやな」
「必要なら、案件の予定も調整しよう」
「了解」
田村は、少し考えた。
「……正直、惜しい人材やと思うで」
「そうやろな」
「仕事もちゃんとやってくれとったし」
「うん」
「でも、本人が次にやりたいことを見つけたんやったら、しゃあないな」
西田は、少し笑った。
「せやな」
「残ってくれたら嬉しいけど、それと本人の希望は別やからな」
「ほんま、それやな」
*
七月下旬。
業務部では、退職に伴う手続きの確認が進められていた。
「……これが、初めての退職手続きになるんですね」
福原奈央が言った。
「そうですね」
高瀬がうなずいた。
「これまでは、入社の手続きが中心でしたから」
「はい」
福原は、資料を確認した。
退職日の確認。
社会保険や雇用保険の手続き。
給与の精算。
貸与機器の返却。
そして、退職後に必要となる書類の準備。
「……入社とは、また違う確認が必要ですね」
「そうですね」
高瀬が答えた。
「ただ、必要な手続きは決まっていますので、一つずつ確認していきましょう」
「はい」
*
「そういえば、退職される方への案内なんですが」
福原が言った。
「はい」
「最終出社日と、実際の退職日は分けて確認した方がよいですよね?」
「そうですね」
高瀬がうなずいた。
「有給休暇の取得予定もありますから」
「なるほど」
「本人の希望と業務の引き継ぎ状況を確認したうえで、日程を整理しましょう」
「はい」
福原は、メモを取った。
「貸与機器についても、返却方法を確認します」
「お願いします」
「リモート勤務の方ですので、必ずしも事務所へ持参していただく必要はありませんよね?」
「そうですね。安全に返却できる方法を案内しましょう」
「承知しました」
*
「……それにしても」
福原が、少し考えた。
「退職される方が出るのは、少し寂しいですね」
「そうですね」
高瀬が答えた。
「これまで一緒に働いてきた方ですから」
「はい」
「ただ、本人にとっては、新しい仕事への挑戦でもあります」
「そうですね」
福原は、うなずいた。
「ですので、最後まで気持ちよく働いていただけるようにしたいです」
高瀬が、少し笑った。
「それがよいと思います」
*
同じ頃。
金目は、田村から届いた引き継ぎ計画を確認していた。
担当変更の予定。
引き継ぐ資料。
既存案件への影響。
そして、退職までに必要な確認事項。
それぞれが整理されていた。
「……ええ感じやな」
金目は、少し笑った。
田村が中心となり、開発一課で引き継ぎを進めている。
西田も状況を確認し、必要な調整を行っていた。
金目が直接、担当者を決める必要はなかった。
しかし、一人が退職することで、残る社員たちの負担が増える可能性はある。
そこは、会社として確認しておきたかった。
*
「西田さん、ちょっとええ?」
金目が連絡した。
「ええで。どうしたん?」
「退職の件なんやけど」
「うん」
「引き継ぎの資料、確認したで」
「ありがとう」
「今のところ、問題なさそうやな」
「せやな」
西田がうなずいた。
「田村がちゃんと進めてくれとる」
「そらよかった」
金目は、少し考えた。
「ただ、残る人に無理させんようにしてな」
「もちろんや」
「必要なら、案件の予定を調整してもええし」
「了解」
「一人辞めるからいうて、残った人がその分全部頑張らなあかんわけちゃうからな」
西田は、少し笑った。
「せやな」
「そこは、こっちで調整するわ」
「頼むで」
*
「……しかし、初めてやな」
金目が言った。
「何が?」
西田が尋ねた。
「退職者や」
「ああ、そうやな」
「これまで、入ってくる人ばっかりやったからな」
「せやな」
金目は、少し考えた。
「……まあ、いつかはあると思っとったけどな」
「そらそうやろ」
西田が答えた。
「三十七人もおったら、いろんな考えの人がおるし」
「せやな」
「ずっと同じ会社で働きたい人もおれば、別の仕事に挑戦したい人もおるやろ」
「ほんまやな」
金目は、うなずいた。
「……会社としては残念やけどな」
「せやな」
「でも、本人にとってええ選択やったら、それでええんちゃうかな」
西田が、少し笑った。
「そうやな」
*
七月末。
退職を予定している社員は、引き継ぎ資料の更新を進めていた。
設計の内容。
実装時に確認したこと。
そして、仕様を決めた理由。
次の担当者が仕事を続けられるように、必要な情報を整理していく。
その作業を終えたあと、社員は田村へ連絡した。
「田村さん、引き継ぎ資料を更新しました」
「ありがとう。確認しとくわ」
「よろしくお願いします」
「……そういや、次の会社は九月からなん?」
田村が尋ねた。
「はい。その予定です」
「なるほど」
「新しい仕事なので、少し緊張しています」
田村は、少し笑った。
「そらそうやろな」
「はい(笑)」
「でも、やりたかった仕事なんやろ?」
「そうですね」
「ほな、頑張ってな」
「ありがとうございます」
*
社員は、少し笑った。
カナメで働いてきた時間。
担当してきた仕事。
そして、一緒に仕事をしてきた人たち。
そのすべてが、次の会社へそのまま持っていけるわけではない。
しかし、ここで身につけた知識や経験は、これからも自分の中に残る。
社員は、資料を保存した。
退職まで、あと一か月。
まだ、やるべき仕事は残っていた。
*
株式会社カナメでは、初めての退職者を送り出すための準備が進んでいた。
退職する本人の希望を尊重すること。
残る社員たちの仕事を守ること。
そして、必要な手続きを適切に進めること。
どれか一つだけを考えればよいわけではない。
会社にとっては、少し寂しい出来事だった。
しかし、本人にとっては、新しい仕事へ進むための決断でもあった。
七月の終わり。
カナメでは、いつもどおりの仕事が続いていた。
その中で、一人の社員が、次の場所へ向かう準備を進めていた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、カナメで初めて退職者が出ることになったお話でした。
これまで社員が増える一方だったカナメですが、三十七名ともなれば、別の道を選ぶ人が出てくるのも自然なことでしょう。
今回の退職理由は、新しい技術分野への挑戦。
会社への不満や人間関係の問題ではなく、本人が考えて決めたことでした。
もちろん、会社にとっては残念な出来事です。
一緒に働いてきた仲間がいなくなり、担当していた仕事の引き継ぎも必要になります。
しかし、だからといって、本人の新しい挑戦を否定する理由にはなりません。
**会社に残ってほしいという気持ちと、本人の選択を尊重することは、両立できる。**
今回は、そんな姿を描きたかったわけです。
そして金目は、退職者が出ても採用計画を変更しませんでした。
一人辞めたから、一人補充する。
そう単純に考えるのではなく、まずは残る仕事を整理する。
そのうえで、必要なことを判断していく。
……相変わらず、人数合わせには興味がないようですね(笑)。
さて、退職は八月末の予定です。
残り一か月、本人にとっても、送り出す社員たちにとっても、よい時間になればと思います。
次回も、引き続きお付き合いいただければ幸いです。




