最後の一日
2033年3月。
大阪・本町。
株式会社カナメでは、四月一日の新事務所開設に向けて、移転準備が最終段階に入っていた。
新しい事務所は、現在の事業所から徒歩圏内。
執務席は三十席に増え、会議室も三室になる。
業務部には機密情報を扱うための独立した区画を設け、研修や交流会に利用できるオープンスペースも用意した。
新しい事務所の内装工事は、すでに完了している。
通信回線や社内ネットワークの確認も進み、あとは必要な機材や書類を移すだけとなっていた。
そして、三月の終わり。
カナメは、これまで使ってきた事務所での最後の一日を迎えようとしていた。
*
「……これで、だいたい揃いましたね」
福原奈央は、移転作業の一覧を確認していた。
三月下旬。
高瀬と西田を交え、移転前の最終確認を行っている。
「そうですね」
高瀬がうなずいた。
「新事務所の設備については、ひととおり確認できています」
「はい」
「ネットワークの方も問題ないで」
西田が答えた。
「新旧の事務所から接続できることは確認しとるし、普段の開発環境もそのまま使える」
「そらよかった」
福原は、少し笑った。
「では、予定どおり移転を進められそうですね」
「そうですね」
高瀬は、資料を確認した。
「ただし、業務部の書類については、搬出と搬入の記録を忘れないようにしましょう」
「はい」
「特に、機密性の高い書類は、受け取ったあとに内容を照合する必要があります」
「承知しました」
福原は、メモを取った。
「営業部の方は、どうでしょうか?」
「移転期間中の来客予定は、すでに調整できています」
高瀬が答えた。
「四月以降の打ち合わせについても、新事務所の住所を案内する準備が整っています」
「なるほど」
「郵便物の転送手続きも進めています」
「ありがとうございます」
福原は、うなずいた。
移転準備は、昨年から続いていた。
事務所の利用状況の確認。
物件の比較。
契約。
内装工事。
そして、通常業務を続けながらの移転計画。
一つずつ進めてきた仕事が、ようやく形になろうとしていた。
*
「……しかし、開発部は普段どおりなんですね」
福原が、少し笑った。
「せやな」
西田が答えた。
「引っ越しの日は、基本リモート勤務にしとるからな」
「なるほど」
「顧客のシステムもクラウド上で動いとるし、事務所の場所が変わっても、特に影響ないから」
「そうですね」
高瀬がうなずいた。
「営業部も、外回りやオンライン会議を続けています」
「……そう考えると、やっぱり業務部が一番忙しいですね」
福原が言った。
西田が笑った。
「……すまんな(笑)」
「いえいえ(笑)」
福原も笑った。
「でも、こうして準備しておいてよかったです」
「ほんまやな」
高瀬がうなずいた。
「直前になってから全部確認していたら、大変だったと思います」
「そうですね」
*
三月下旬。
旧事務所では、備品や書類の搬出が始まっていた。
机や椅子の一部は、新事務所へ移される。
古くなった備品は、事前に整理されていた。
書類についても、保管条件を確認したうえで、必要なものだけを移送する。
業務部では、高瀬と福原が搬出記録を確認していた。
「こちらの書類は、先に運んでも問題ありません」
福原が言った。
「ありがとうございます」
高瀬がうなずいた。
「では、搬出記録を更新しておきましょう」
「はい」
福原は、一覧を確認した。
書類の種類。
管理番号。
搬出日時。
そして、移転先での受領確認。
どの書類が、どこにあるのか。
それを追えるようにしていた。
「……こうして見ると、結構ありますね」
福原が言った。
「そうですね」
高瀬は、少し笑った。
「ただ、事前に分類しておいたので、だいぶ減りましたよ」
「確かに」
「不要なものまで全部運ぶ必要はありませんからね」
「そうですね」
福原は、うなずいた。
*
「……これ、持っていくんですか?」
大本恭平が、営業部の資料を手に尋ねた。
「そちらは、新事務所でも使う予定です」
福原が答えた。
「なるほど」
大本は、資料を確認した。
「……結構ありますね」
「そうですね」
高瀬がうなずいた。
「必要なものは、事前に分類していますので」
「そら助かります」
大本は、少し笑った。
「準備してへんかったら、大変やったでしょうね(笑)」
「そうですね(笑)」
福原も笑った。
「ただ、移転するものと処分するものを間違えないようにしてくださいね」
「了解です」
大本は、資料を指定された場所へ運んだ。
普段は、顧客との打ち合わせや営業資料の作成に使っている書類。
しかし、こうしてまとめてみると、意外と多い。
「……営業部も、結構紙あるんやな」
大本は、小さくつぶやいた。
*
その日の午後。
柴崎真帆は、旧事務所へ立ち寄っていた。
移転前に、開発部で使っていた備品を確認するためだった。
普段はリモート勤務が多いため、毎日事務所へ来ているわけではない。
それでも、この場所には見覚えがあった。
2031年四月。
新卒社員として入社した日。
初めて自分の開発環境を整えた日。
先輩たちに何度も質問しながら、少しずつ仕事を覚えていった日々。
柴崎は、執務スペースを見渡した。
「……なんか、懐かしいですね」
隣にいた上條亮介が、少し笑った。
「そうですね」
「最初は、ここで何もわからなくて」
「そうでしたね」
上條は、うなずいた。
「でも、今は後輩に教えるようになりましたからね」
「……まだまだですけど(笑)」
柴崎は、少し笑った。
「去年、初めて後輩から質問されたとき、結構焦ったんですよ」
「そうだったんですか?」
「はい」
「何をどう説明したらいいのか、わからなくて」
上條は、少し考えた。
「でも、ちゃんと説明できていたと思いますよ」
「そうでしょうか?」
「はい」
柴崎は、少し笑った。
「……ありがとうございます」
*
「そういえば、上條さん」
柴崎が言った。
「はい」
「私、最初の頃、何回も同じこと聞いてましたよね」
上條が、少し笑った。
「そうですね(笑)」
「……やっぱり(笑)」
二人は笑った。
「でも、聞いてもらった方が助かりますから」
上條が言った。
「そうなんですか?」
「はい。わからないまま進められる方が、あとで困ることもありますし」
「なるほど」
柴崎は、うなずいた。
「……私も、後輩にそう言えるようになりたいです」
「もう、言えると思いますよ」
「そうでしょうか?」
「はい」
上條は、少し笑った。
「少なくとも、前よりずっと仕事を理解していますから」
柴崎は、少し考えた。
「……そうですね」
そして、執務スペースへ目を向けた。
以前は、ここに座って、先輩たちから教わっていた。
今は、同じように後輩から相談を受けることがある。
場所は変わっても、その関係がなくなるわけではない。
「……新しい事務所でも、よろしくお願いします」
柴崎が言った。
「こちらこそ」
上條が答えた。
*
三月末。
旧事務所では、最後の搬出作業が進んでいた。
机や椅子が運び出され、執務スペースには少しずつ空きが増えている。
会議室も、すでに片づけられていた。
以前は、誰かがオンライン会議をしていたり、資料を広げて相談していたりした場所。
今は、静かになっている。
金目は、その様子を眺めていた。
「……なんか、広なったな」
隣にいた西田が笑った。
「物がなくなったからな(笑)」
「せやな(笑)」
金目は、少し笑った。
十五席ほどの執務スペース。
一つの会議室。
そして、オープンスペース。
以前は、この場所で十分だった。
しかし、社員が増え、仕事も増えた。
今では、三十五名の会社になっている。
「……最初は、ここで十分やと思っとったんやけどな」
金目が言った。
「せやな」
西田がうなずいた。
「まあ、ここまで増えるとは思ってへんかったしな」
「ほんまやな」
二人は、少し笑った。
*
金目は、片づいた事務所を見渡した。
ここで、いろいろな仕事をしてきた。
新しい社員を迎えた。
仕事の進め方を考えた。
そして、少しずつ人へ仕事を任せるようになった。
以前は、自分が直接判断していたことも多かった。
しかし、今は各部署に責任者がいる。
自分が知らないところで、仕事が始まり、問題が解決することもある。
金目は、少し笑った。
「……ようけ変わったな」
西田がうなずいた。
「せやな」
「最初の頃は、俺が何でも見とった気がするわ」
「そうやったな」
「今は、知らん仕事もようけあるし」
西田が笑った。
「それ、前にも言うとったな(笑)」
「……せやったな(笑)」
二人は笑った。
*
「でも、ええことやと思うで」
西田が言った。
「そうか?」
「せやな」
西田は、少し考えた。
「金目が全部見とったら、三十五人の会社なんか回らへんやろ」
「……まあ、そうやな」
「今は、みんなが自分の仕事を進めとる」
「せやな」
「それでええんちゃう?」
金目は、少し考えた。
「……そうやな」
そして、少し笑った。
「まあ、俺が楽になったかいうたら、そうでもないけどな(笑)」
西田も笑った。
「営業部長、まだ兼任しとるしな(笑)」
「……ほんま、それや(笑)」
二人は、また笑った。
*
金目は、もう一度だけ事務所を見渡した。
この場所で、たくさんの仕事が進んできた。
そして、たくさんの人が、少しずつ仕事を覚えてきた。
しかし、今はもう、その場所でなければできない仕事はほとんどない。
社員たちは、それぞれの場所で仕事を進めている。
明日も、誰かが新しい仕事を始めるだろう。
誰かが、困っている人を助けるだろう。
そして、誰かが、自分の判断で仕事を進めるだろう。
「……ほな、そろそろ行こうか」
西田が言った。
「せやな」
金目は、うなずいた。
まだ、最終確認と施錠が残っている。
その仕事を終えれば、この事務所での役目も終わる。
金目は、少し笑った。
「……最後まで、ちゃんとせなあかんな」
西田がうなずいた。
「せやな」
そして、二人は最後の確認へ向かった。
*
三月三十一日。
株式会社カナメの旧本町事業所では、最後の確認作業が進められていた。
新事務所への備品や書類の移送は、前日までにほぼ完了している。
社員たちは、原則としてリモート勤務。
営業部も、顧客訪問やオンラインでの打ち合わせを続けていた。
事務所の引っ越しがあっても、会社の仕事が止まるわけではない。
そのために、昨年から準備を進めてきた。
そして今日。
長年使ってきた事務所を、いよいよ明け渡すことになっていた。
*
「……こちらは、問題ありませんね」
高瀬が、最終確認表を見ながら言った。
隣では、福原奈央が書類の移送記録を確認している。
「はい。新事務所での受領確認も、すべて完了しています」
「ありがとうございます」
「機密書類についても、管理番号と保管場所を照合できています」
「それはよかったです」
高瀬は、うなずいた。
「では、業務部の移送については、完了ですね」
「はい」
福原は、少し笑った。
「……ようやく終わりましたね」
「そうですね」
高瀬も、少し笑った。
「まだ、新事務所での仕事はこれからですけどね」
「……確かに(笑)」
二人は笑った。
書類を整理し、保管条件を確認し、移送する順番を決める。
そして、搬出と搬入の記録を残す。
普段の仕事を続けながら進めてきた準備が、ようやく一段落した。
*
「そういえば、給与の方は大丈夫でしたか?」
福原が尋ねた。
「はい。今月分も、予定どおり処理できています」
「そらよかったです」
「請求処理についても、移転による影響はありませんでした」
「よかったです」
福原は、少し安心したように笑った。
「引っ越しの準備をしながら、普段の仕事も進めるのは、なかなか大変でしたね」
「そうですね」
高瀬がうなずいた。
「でも、事前に整理しておいてよかったと思います」
「はい」
「何を、いつまでに、誰が担当するのか」
「そうですね」
「そこが決まっていれば、一つずつ進められますから」
福原は、少し笑った。
「……高瀬さんらしいですね」
「そうでしょうか?」
「はい。何でも先に整理されていますから」
高瀬も、少し笑った。
「福原さんも、ずいぶん助けてくださいましたよ」
「ありがとうございます」
「特に、各部署との調整は、福原さんが進めてくださったおかげです」
「いえいえ」
福原は、少し照れたように笑った。
「でも、無事に終わりそうでよかったです」
「そうですね」
*
同じ頃。
新事務所では、西田が設備の最終確認を行っていた。
新しいネットワーク。
会議室の設備。
社員が利用する執務スペース。
そして、基盤運用課が使用する機材の保管場所。
それぞれ、予定どおり利用できる状態になっていた。
「……ほな、問題なさそうやな」
西田は、確認結果を見直した。
新しい事務所には、三十席の執務スペースがある。
一般社員向けのフリーアドレスが二十四席。
業務部の独立区画に四席。
金目の専用席が一席。
そして、多目的席が一席。
会議室は三室。
個室ブースは二室。
研修や交流会にも利用できるオープンスペースも用意されていた。
旧事務所と比べれば、ずいぶん使いやすくなっている。
西田は、福原へ連絡した。
「新しい方は、ひととおり確認終わったで」
「ありがとうございます」
「ネットワークも会議室も、問題なく使えそうや」
「それはよかったです」
「明日の準備も、予定どおり進められると思う」
「承知しました」
福原は、少し笑った。
「明日は、新卒社員が二名入社しますからね」
「せやな」
西田もうなずいた。
「新しい事務所で、最初に迎える社員やな」
「はい」
「ほな、こっちは準備進めとくわ」
「よろしくお願いします」
*
午後。
金目は、旧事務所へ立ち寄っていた。
すでに、ほとんどの備品は運び出されている。
十五席ほどあった執務スペースには、机も椅子も残っていない。
会議室も、すっかり片づいていた。
オープンスペースにも、以前のような賑わいはない。
「……ほんま、何もなくなったな」
金目が言った。
隣にいた高瀬が、少し笑った。
「そうですね」
「なんか、広なった気がするわ」
「家具がなくなりましたからね」
「せやな(笑)」
金目は、少し笑った。
*
「高瀬さん、移転の方はこれで全部終わりですか?」
金目が尋ねた。
「旧事務所については、ほぼ完了です」
「なるほど」
「このあと、最終確認をして、鍵を返却する予定です」
「了解」
金目は、うなずいた。
「しかし、よう準備してくれましたな」
「ありがとうございます」
「福原さんも、いろいろ調整してくれとったし」
「そうですね」
高瀬は、少し笑った。
「各部署にも協力していただきました」
「せやな」
金目は、事務所を見渡した。
「……俺、あんまり何もしてへんな(笑)」
高瀬が笑った。
「そんなことはありませんよ」
「そうか?」
「はい。必要な判断はしていただいていますから」
「……なるほどな」
金目は、少し考えた。
「まあ、そういう仕事やったな(笑)」
「そうですね」
二人は笑った。
*
「そういえば、金目さん」
高瀬が言った。
「はい?」
「新事務所の専用席も、準備できていますよ」
「ありがとうございます」
「資料や機材を置けるようにしてあります」
「そら助かるわ」
金目は、少し笑った。
「……社長室はないけどな(笑)」
高瀬も笑った。
「はい。ご希望どおりです」
「せやな」
「ただ、機密性の高い打ち合わせは、会議室をご利用くださいね」
「了解(笑)」
金目は、うなずいた。
新しい事務所には、自分の席がある。
しかし、自分だけの部屋はない。
それで十分だった。
会社の仕事は、自分一人でするものではない。
社員たちが、それぞれの場所で仕事を進められること。
その方が、ずっと大切だった。
*
夕方。
旧事務所の最終確認が始まった。
高瀬と福原が、確認表に沿って室内を見て回る。
忘れ物はないか。
書類や機材が残っていないか。
設備の状態に問題はないか。
そして、退去に必要な手続きが済んでいるか。
「……こちらも問題ありません」
福原が言った。
「ありがとうございます」
高瀬がうなずいた。
「では、これで最終確認は完了ですね」
「はい」
福原は、少し笑った。
「……本当に終わりなんですね」
「そうですね」
高瀬も、少し笑った。
「長い間、使ってきた事務所ですからね」
「はい」
二人は、室内を見渡した。
以前は、社員たちが仕事をしていた場所。
今は、何も置かれていない。
しかし、ここで進めてきた仕事がなくなったわけではない。
その仕事は、すでに新しい場所へ引き継がれていた。
*
「金目さん、最終確認が終わりました」
高瀬が報告した。
「ありがとうございます」
金目は、うなずいた。
「ほな、これで終わりやな」
「はい」
「鍵の返却も、このあと予定どおり進めます」
「了解」
金目は、少し笑った。
「……ほんま、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
福原も、少し笑った。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「ほな、先に新しい方へ行ってもろてええですよ」
金目が言った。
「最後は、俺らで確認しとくわ」
高瀬がうなずいた。
「承知しました」
福原と高瀬は、最後に室内を確認してから、事務所を後にした。
*
しばらくして。
西田が、旧事務所へ戻ってきた。
「……終わったん?」
西田が尋ねた。
「せやで」
金目が答えた。
「高瀬さんらが、全部確認してくれたわ」
「そらよかった」
西田は、室内を見渡した。
「……ほんま、何もないな」
「せやろ?」
「最初は、ここでも十分やったんやけどな」
「ほんまやな」
金目は、少し笑った。
「十五席あったら、十分やと思っとったわ」
「せやな」
「それが、三十五人になったんやもんな」
西田がうなずいた。
「よう増えたな」
「ほんまやな」
*
「でも、仕事はあんまり変わらん気もするな」
金目が言った。
「そうか?」
西田が尋ねた。
「いや、やることは増えたで?」
「せやろな」
「でも、結局、誰かが困っとったら相談して、必要なこと決めて、仕事進めるだけやろ?」
西田は、少し考えた。
「……まあ、そうやな」
「それを、前は俺がようけやっとった」
「せやな」
「今は、みんながそれぞれやってくれとる」
西田がうなずいた。
「そういうことやな」
金目は、少し笑った。
「……楽になったかいうたら、微妙やけどな(笑)」
西田も笑った。
「まだ営業部長やしな(笑)」
「……ほんま、それや(笑)」
二人は笑った。
*
笑い声が収まると、事務所は静かになった。
金目は、何もなくなった執務スペースを見渡した。
ここで、いろいろなことを決めてきた。
新しい仕事を始めた。
新しい仲間を迎えた。
仕事の進め方を変えた。
そして、少しずつ誰かに任せるようになった。
最初から、会社を大きくするために、何か特別なことをしてきたつもりはなかった。
ただ、目の前の仕事を、もう少しやりやすくしたかった。
誰か一人が頑張らなくても、仕事が進むようにしたかった。
そのために、必要なことを考えてきただけだった。
気がつけば、社員は三十五名になっていた。
自分が知らないところで、新しい仕事が始まる。
自分が知らないところで、問題が解決する。
そして、自分が知らないところで、誰かが次の誰かへ仕事を教えている。
金目は、少し笑った。
「……ようけ任せられるようになったな」
西田がうなずいた。
「せやな」
「最初の頃は、何でも俺が見とったのにな」
「そうやったな」
「今は、知らん仕事もようけあるし」
西田が、少し笑った。
「それでええんちゃう?」
金目は、少し考えた。
「……せやな」
*
「ほな、そろそろ行こうか」
西田が言った。
「せやな」
金目は、うなずいた。
最後に、もう一度だけ室内を見渡した。
何も置かれていない執務スペース。
誰もいない会議室。
そして、静かなオープンスペース。
ここで積み重ねてきた仕事は、もうこの場所には残っていない。
けれど、その仕事を覚えた人たちは、今もそれぞれの場所で働いている。
明日も、誰かが新しい仕事を始めるだろう。
誰かが、困っている人を助けるだろう。
そして、誰かが、自分の判断で仕事を進めるだろう。
「……よう頑張ってくれたな」
金目が、小さくつぶやいた。
西田は、何も言わなかった。
金目は、照明を消した。
そして、扉を閉めた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回をもちまして、第三章「任せた先にあるもの」は完結となります。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
さて、今回のお話は、カナメが長年使ってきた本町事業所を離れる、最後の一日でした。
新しい事務所への移転準備も整い、四月一日からは新しい場所で仕事が始まります。
しかし、今回の中心にしたかったのは、引っ越しそのものではありません。
**この場所で、カナメがどのように変わってきたのか。**
そこを、少しだけ振り返るお話でした。
最初は十五席ほどの執務スペースと、一つの会議室。
リモート勤務を併用していたこともあり、当初はそれで十分でした。
しかし、社員が増え、仕事が増え、少しずつ手狭になっていきました。
そして、2033年三月。
カナメは三十五名の会社となり、新しい事務所へ移ることになったわけです。
……十五席の事務所で三十五名の会社を運営していたというのも、なかなかのものですね(笑)。
もっとも、全員が毎日出社していたわけではありませんので、そこはご安心ください。
さて、今回の前半では、移転準備を進める高瀬と福原の姿を描きました。
新しい事務所の準備。
機密書類の移送。
営業部の来客対応。
そして、通常業務を止めないための調整。
どれも、普段はあまり目立たない仕事かもしれません。
しかし、こうした準備があるからこそ、社員たちはいつもどおり仕事を続けられます。
会社を支えているのは、目に見える成果を生み出す仕事だけではない。
そんなことも、今回改めて描きたかったところです。
そして、柴崎と上條のやり取り。
柴崎が初めてこの事務所へ来たのは、2031年四月のことでした。
当時は、先輩に教わりながら仕事を覚える立場でした。
しかし、今では後輩から相談を受けることもあります。
まだまだ本人は自信がないようですが、少しずつ成長していることは確かなのでしょう。
教わっていた人が、今度は教える人になる。
これもまた、会社が成長していく中で生まれる変化の一つですね。
さて、第三章では、こうした変化をさまざまな立場から描いてきました。
開発部では、組織の再編が行われました。
田村が一人で抱えていた判断を分け、尾崎が新しく課長となりました。
井上たちの基盤運用課でも、日々の運用だけでなく、改善や育成に時間を使えるようになってきました。
営業部では、大本が少しずつ経験を積み、お客様が何を必要としているのかを考えられるようになっています。
業務部では、福原が採用だけでなく、入社した社員たちの受け入れや、その後の立ち上がりにも目を向けるようになりました。
そして、金目。
以前は、自分が知らなければ進まない仕事も多くありました。
しかし、今は違います。
自分が知らないところで、新しい案件が始まる。
自分が知らないところで、問題が解決する。
そして、自分が知らないところで、誰かが次の誰かへ仕事を教えている。
会社が大きくなったというのは、単に社員数が増えたことではありません。
**自分で考え、判断し、仕事を進められる人が増えたこと。**
それこそが、第三章で描いてきた成長だったのだと思います。
もっとも、金目自身がすっかり暇になったわけではありません。
相変わらず営業部長を兼任していますし、経営者として考えなければならないことも増えています。
……いつになったら楽になるんでしょうね、この人(笑)。
ただ、以前とは仕事の中身が変わりました。
自分で一つひとつの案件を進めるのではなく、社員たちが仕事を進められるようにする。
必要な判断を任せ、その結果を会社として支える。
そして、会社全体がどこへ向かっているのかを考える。
少しずつ、経営者としての役割も変わってきたのでしょう。
さて、今回の最後。
金目と西田は、何もなくなった旧事務所を見渡していました。
机も椅子もなくなった執務スペース。
誰もいない会議室。
そして、静かになったオープンスペース。
そこには、もう以前のような賑わいはありません。
しかし、この場所で覚えた仕事も、築いてきた関係も、なくなったわけではありません。
社員たちは、それぞれの場所で、今も仕事を続けています。
最後に金目がつぶやいた言葉。
「……よう頑張ってくれたな」
あの言葉は、事務所に向けたものだったのかもしれません。
一緒に会社を支えてきた社員たちに向けたものだったのかもしれません。
あるいは、ここまで仕事を続けてきた自分自身に向けたものだったのかもしれません。
その答えは、あえて決めないことにしました。
ただ、最後に扉を閉める。
それだけで、第三章を終えたいと思ったのです。
さて、次回からは第四章が始まります。
2033年四月一日。
新しい事務所で、新しい仲間を迎える日です。
三十五名となったカナメは、年末には四十名体制を目指しています。
会社が大きくなれば、新しい仕事も、新しい課題も生まれてくるでしょう。
それでも、これまで積み重ねてきたものが、なくなるわけではありません。
誰かが考え、誰かが判断し、誰かが次の人へ仕事を任せていく。
その積み重ねが、これからもカナメを動かしていくのだと思います。
第三章「任せた先にあるもの」。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
そして、第四章でも引き続きお付き合いいただければ幸いです。




