運べない仕事
2033年2月。
大阪・本町。
株式会社カナメでは、四月一日の新事務所開設に向けて、準備が進められていた。
移転先は、現在の事務所から徒歩圏内。
社員の通勤経路も、大きく変わらない場所だった。
新しい事務所には、三十席の執務スペースと、三つの会議室、二つの個室ブースが設けられる予定になっている。
一般の執務席はフリーアドレスとし、業務部には機密情報を扱うための独立した区画を用意する。
金目の専用席も一つ設けるが、社長室は作らない。
そんな新しい事務所の姿が、少しずつ形になってきていた。
しかし、事務所の移転は、机や椅子を運べば終わる仕事ではなかった。
*
「金目さん、新事務所の契約手続きが完了しました」
二月上旬。
高瀬は、経営会議で移転準備の状況を報告していた。
「ありがとうございます」
金目が答えた。
「これで、四月一日から使えるんやな」
「はい。ただし、内装工事と設備の準備が予定どおり完了することが前提です」
「せやな」
金目は、資料を確認した。
新事務所の賃貸契約。
内装工事の予定。
通信回線の開通日。
そして、現在の事務所の退去手続き。
それぞれの予定が、一覧にまとめられている。
「……結構、やることあるな」
金目が言った。
「そうですね」
高瀬は、少し笑った。
「ただ、昨年から準備を進めていますので、現時点では大きな遅れはありません」
「そらよかった」
「今後は、実際の移転作業と、通常業務の調整が中心になります」
「なるほど」
金目は、少し考えた。
「開発部の方は、どうなん?」
西田が答えた。
「基本的には、普段どおり仕事できるで」
「ほう」
「顧客向けのシステムはクラウド上で動いとるし、開発環境もリモートから使えるからな」
「せやな」
「新しい事務所のネットワークは、別で先に作っとる」
「なるほど」
「新旧の環境を並行して使えるようにする予定や」
金目は、うなずいた。
「ほな、システム止める必要もないわけやな」
「せやで」
西田は、少し笑った。
「事務所が変わるだけやからな」
「……それは助かるな(笑)」
*
「ただ、営業部と業務部については、少し調整が必要です」
高瀬が続けた。
「ほう?」
「営業部では、移転前後にも顧客との打ち合わせが予定されています」
「せやな」
「新旧どちらの事務所をご案内するのか、事前に整理しておく必要があります」
「なるほど」
「また、業務部では、紙の書類や郵便物の取り扱いがありますので」
「……ああ、そっちか」
金目は、少し考えた。
「領収書とか、契約書とかやな」
「はい」
「それに、給与や経理の処理もあります」
「せやな」
高瀬は、資料を切り替えた。
「移転するからといって、毎月の支払日や請求処理を変更するわけにはいきませんので」
「そらそうやな」
金目は、少し笑った。
「……結局、一番大変なんは業務部なんやな(笑)」
高瀬も、少し笑った。
「そういうことになりますね(笑)」
*
数日後。
業務部では、高瀬と福原奈央が、移転する書類の整理を進めていた。
「……思ったよりありますね」
福原が、保管書類の一覧を見ながら言った。
「そうですね」
高瀬がうなずいた。
「普段は電子データで管理しているものも多いんですが、紙で保管している書類もありますから」
「なるほど」
福原は、一覧を確認した。
契約関係の書類。
経理処理に関する証憑。
人事関係の書類。
そして、過去の手続きに関する記録。
それぞれ、保管方法や閲覧できる人が異なっていた。
「……これ、全部そのまま運ぶんでしょうか?」
福原が尋ねた。
「いえ。まず、保管する必要があるものと、整理できるものを分けましょう」
「なるほど」
「電子データで管理できるものもありますし、保管期間が終わっているものもあるかもしれません」
「そうですね」
高瀬は、少し考えた。
「ただし、紙の原本を残す必要があるものについては、適切に保管する必要があります」
「はい」
「まずは、書類の種類と保管条件を確認しましょう」
「わかりました」
*
「金目さんなら、全部スキャンしたらええんちゃう、って言いそうですね(笑)」
福原が、少し笑った。
高瀬も笑った。
「そうですね(笑)」
「でも、全部捨てられるわけではありませんしね」
「はい」
高瀬は、資料を確認した。
「電子保存の要件を満たしているものもありますが、書類によって取り扱いが違いますので」
「なるほど」
「それに、紙で保管する必要があるものもあります」
「そうですね」
福原は、少し考えた。
「では、移転する前に、不要な書類を整理しておいた方がよさそうですね」
「はい」
「ただし、処分してよいかどうかは、確認してからですね」
「そういうことです」
高瀬は、うなずいた。
「特に、人事や経理の書類は、取り扱いを間違えないようにしたいですね」
「はい」
*
福原は、書類の分類表を作成した。
移転先へ持っていくもの。
電子データで管理するもの。
保管期間や保存要件を確認するもの。
そして、適切な手続きを経て処分できるもの。
それぞれを分けていく。
「……こうして整理すると、結構すっきりしますね」
福原が言った。
「そうですね」
高瀬がうなずいた。
「ただ、移転する書類については、もう一つ確認しておきたいことがあります」
「何でしょうか?」
「誰が運んで、誰が受け取るのかです」
「……ああ」
福原は、少し考えた。
「確かに、書類がなくなったら困りますね」
「そうですね」
「特に、人事関係の資料は、誰でも開けられる状態にはできませんし」
「はい」
高瀬は、資料を開いた。
「機密性の高い書類は、施錠できる容器にまとめて、移送記録を残す形にしたいと思っています」
「なるほど」
「搬出時と搬入時に確認して、保管場所まで記録しましょう」
「わかりました」
福原は、メモを取った。
引っ越し業者へ渡して終わりではない。
どの書類を、誰が管理し、どこへ移したのか。
それを確認できるようにする必要があった。
*
一方、営業部でも、移転に向けた準備が進んでいた。
「……これ、ちょっと確認しとかなあかんな」
小坂千尋が、顧客との打ち合わせ予定を眺めていた。
隣では、松井慎吾と大本恭平が、移転前後の予定を整理している。
「四月の打ち合わせですか?」
松井が尋ねた。
「そう。新しい事務所でお客様を迎える予定があるでしょ?」
「はい」
「でも、三月中に日程を決める場合は、どちらの住所をご案内するか気をつけないと」
「なるほど」
大本がうなずいた。
「……確かに、今の事務所の住所を送ってしもたら困りますね」
「そうなのよ」
小坂は、少し笑った。
「お客様が間違って前の事務所へ行ってしまったら大変でしょ?」
「そら、困りますね」
大本も笑った。
松井は、予定表を確認した。
「では、四月以降の来社予定については、新事務所の住所を案内するようにしましょう」
「そうね」
「ただ、正式な利用開始が確認できるまでは、案内内容を統一した方がよさそうですね」
「そうですね」
大本が、少し考えた。
「……それ、営業部全員に共有しといた方がええですね」
「そうね」
小坂がうなずいた。
「名刺や会社案内の住所も変わるから、そこも確認しないと」
「なるほど」
*
「あと、郵便物もありますね」
松井が言った。
「そうね」
小坂がうなずいた。
「契約書を郵送していただくこともあるし」
「はい」
「新しい住所を案内しても、しばらくは前の事務所に届くものもありそうですね」
「確かに」
大本が、少し考えた。
「……引っ越しって、思ったより大変なんですね」
小坂が笑った。
「そうね。自分の家の引っ越しとは、ちょっと違うかもしれないね」
「せやな」
松井も、少し笑った。
「お客様との仕事は、引っ越しが終わるまで待ってくれませんから」
「……ほんま、それですね」
大本は、うなずいた。
*
二月中旬。
福原は、営業部から届いた確認事項を、移転計画へ反映していた。
来客予定の確認。
新住所の案内。
名刺や会社案内の更新。
郵便物の受け取り。
そして、業務部で保管している書類の移送。
開発部については、新事務所のネットワーク環境を先行して準備することで、通常業務への影響を抑えられる見込みだった。
しかし、営業部と業務部には、物理的な場所に関係する仕事が残っている。
「……なるほど」
福原は、一覧を見直した。
事務所の移転は、会社の住所を変えるだけではない。
そこで行われている仕事を、新しい場所でも続けられるようにすることだった。
そして、その仕事は、部署によって少しずつ違っていた。
「……まだまだありますね」
福原は、少し笑った。
移転計画には、確認するべき項目が増えていた。
しかし、それぞれの担当と期限を整理すれば、一つずつ進められる。
福原は、次の項目を開いた。
移転期間中の業務継続。
ここからは、実際にどの仕事を、いつ、どのように移すのかを考える必要があった。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、カナメの事務所移転準備についてのお話でした。
四月一日の新事務所開設に向けて、いよいよ準備が本格化しています。
新しい事務所の契約も完了し、内装工事や通信回線の準備も進んでいます。
あとは引っ越すだけ。
……と言いたいところですが、会社の引っ越しは、どうやらそんなに簡単ではないようです(笑)。
さて、今回の中心となったのは、高瀬と福原でした。
これまで、カナメの開発部ではさまざまな仕事を描いてきました。
新しい機能の開発。
顧客からの相談。
システムの運用改善。
そして、社員たちの育成。
しかし、会社の仕事はそれだけではありません。
毎月の給与を支払うこと。
請求書を発行すること。
契約書や経理関係の資料を管理すること。
そして、必要な書類を適切に保管すること。
そうした仕事も、会社を運営するためには欠かせません。
普段はあまり目立たないかもしれませんが、誰かがきちんと進めてくれているからこそ、ほかの社員たちも安心して仕事ができるのでしょう。
さて、今回の事務所移転。
開発部については、比較的影響を抑えられる見込みでした。
カナメでは、顧客向けのシステムをクラウド上で運用しています。
社員たちも、普段からリモート勤務を活用しています。
そのため、事務所の場所が変わったからといって、顧客向けのシステムを停止する必要はありません。
新事務所のネットワーク環境も先に構築し、旧事務所と並行して利用できるように準備しています。
もちろん、通信環境や接続設定の確認は必要です。
それでも、普段から場所に依存しない働き方をしてきたことが、今回の移転でも役立っているわけです。
……こういうとき、リモート勤務のありがたみを実感しますね(笑)。
一方で、営業部と業務部には、少し違った問題がありました。
営業部では、移転前後にもお客様との打ち合わせが予定されています。
事務所が変わるからといって、商談をすべて止めるわけにはいきません。
新しい住所を案内すること。
来客予定を調整すること。
名刺や会社案内を更新すること。
そして、以前の住所へ届く郵便物にも対応すること。
一つひとつは、それほど難しい仕事ではないかもしれません。
しかし、どれか一つでも忘れてしまえば、お客様に迷惑をかけてしまう可能性があります。
特に、移転前後の住所案内は気をつけたいところですね。
……せっかくお越しいただいたお客様が、誰もいない旧事務所の前に立っていたら大変ですから(笑)。
そして、今回もっとも大変そうだったのが業務部です。
紙で保管している契約書や経理関係の資料。
人事に関する書類。
そして、毎月の給与や請求に必要な情報。
こうしたものを、適切に管理しながら移転しなければなりません。
そこで高瀬と福原は、まず書類を整理することにしました。
新事務所へ持っていくもの。
電子データで管理するもの。
保存要件を確認するもの。
そして、適切な手続きを経て処分できるもの。
書類の種類によって、取り扱いを分けていくわけです。
もちろん、何でもスキャンすれば紙を捨てられるというわけではありません。
保存方法や保存期間については、それぞれの要件を確認する必要があります。
また、移転する書類についても、誰が運び、誰が受け取り、どこに保管するのかを明確にしました。
特に機密性の高い資料は、紛失や情報漏えいが起きないよう、慎重に扱う必要があります。
そして、もう一つ。
書類を安全に運べたとしても、その間に必要な情報を確認できなくなってしまっては困ります。
今後は、日常業務で使う書類と、長期保管している書類を分けて、移送する順番も考えていく必要があります。
**大切なのは、物を無事に運ぶことだけではなく、必要な仕事を続けられる状態を保つこと。**
今回は、そんなところを描きたかったわけです。
さて、今回の金目。
開発部の仕事は基本的に止めずに済むと聞いて、安心していました。
しかし、営業部や業務部の話を聞いて、引っ越しの大変さを改めて実感したようです。
普段、会社の仕事が滞りなく進んでいると、その裏でどれだけの準備や確認が行われているのか、なかなか意識する機会はありません。
毎月、決まった日に給与が振り込まれる。
必要なときに、契約書を確認できる。
お客様から届いた書類が、適切な担当者へ渡される。
どれも、当たり前のことのように思えます。
しかし、その当たり前を続けるために、仕事をしている人たちがいるわけです。
会社を支えているのは、目に見える成果を生み出す仕事だけではありません。
**何事もなく、いつもどおりの一日を迎えられるようにする仕事も、会社を支えている。**
そんなことを、今回の高瀬と福原から感じていただければうれしいです。
さて、四月一日の新事務所開設まで、残り一か月ほどとなりました。
新しい事務所では、三十席の執務スペースに加え、会議室や個室ブースも増える予定です。
そして、四月には新卒社員二名も入社します。
新しい場所で、新しい仲間を迎える。
カナメにとって、また一つ大きな節目になりそうですね。
もっとも、その前には引っ越しという大仕事が残っています。
……高瀬と福原には、もうひと頑張りしてもらいましょうか(笑)。
次回も、引き続きお付き合いいただければ幸いです。




