約束できる仕事
2031年8月。
株式会社カナメの営業部では、新しい案件の相談が少しずつ増えていた。
4月に正式な営業部が設置されてから、四か月。
もっとも、営業部長は金目が兼任しているため、日々の仕事の進め方が大きく変わったわけではない。
松井慎吾が既存顧客を担当し、小坂千尋が新規開拓を進める。
そして、春に入社した大本恭平も、二人の指導を受けながら、少しずつ営業の仕事を覚えていた。
そんなある日、小坂のもとへ、一件の問い合わせが届いた。
*
「……これは、結構大きな話かもしれないな」
小坂は、問い合わせ内容を読み返した。
相手は、複数の飲食店を展開している企業だった。
店舗ごとに異なる予約管理の仕組みを使っており、売上集計やスタッフ間の情報共有にも手間がかかっているという。
そこで、全店舗で共通して利用できる業務システムを導入したいと考えているらしい。
問い合わせには、現在の業務上の課題が整理されていた。
予約管理。
売上集計。
店舗間の情報共有。
そして、本部での管理業務。
カナメがこれまで手掛けてきた業務改善と、相性のよい内容だった。
小坂は、資料を確認しながら考えた。
技術的に難しい部分はあるかもしれない。
しかし、これまでの経験を生かせる案件でもある。
まずは、詳しい話を聞いてみよう。
小坂は、先方へオンライン商談の日程を提案した。
*
数日後。
小坂は、新規顧客とのオンライン商談に参加していた。
相手は、飲食企業の情報システム担当者と、店舗運営を統括する責任者だった。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
小坂が挨拶した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
先方の担当者が答えた。
「早速ですが、現在の業務について教えていただけますでしょうか」
「はい」
担当者は、画面を共有した。
複数の店舗で使われている予約管理表。
店舗ごとに異なる売上集計の方法。
そして、本部へ提出する報告資料。
「今は、店舗によって使っている仕組みが違うんです」
「なるほど」
「予約管理も、店舗によっては紙を使っていますし、別の店舗では表計算ソフトを使っています」
「そうなんですね」
「売上の報告も、それぞれ形式が違うので、本部でまとめるのに時間がかかっていまして」
小坂は、メモを取りながら聞いていた。
「では、今回のシステム導入では、各店舗の業務を統一することも目的になるのでしょうか?」
「そうですね」
店舗運営の責任者が答えた。
「できれば、どの店舗でも同じ手順で仕事ができるようにしたいんです」
「なるほど」
「スタッフが別の店舗へ応援に行くこともありますので、そのときにやり方が違うと困るんですよ」
「それは確かに大変ですね」
小坂は、資料を確認した。
「ちなみに、今回の導入について、ご予算はどの程度を想定されていますか?」
担当者は、概算の予算を説明した。
小坂は、少し驚いた。
カナメにとっても、十分に魅力的な規模だった。
「ありがとうございます。ご予算については、開発内容を確認したうえで、改めてお見積もりさせていただきます」
「よろしくお願いします」
商談は、順調に進んでいた。
必要な機能。
利用する店舗数。
既存データの移行。
導入後の運用。
小坂は、一つずつ確認していった。
そして、最後に納期の話になった。
「ちなみに、導入時期については、いつ頃をお考えでしょうか?」
小坂が尋ねた。
「実は、十月までに全店舗へ導入したいと考えています」
「……十月ですか?」
「はい」
担当者がうなずいた。
「秋のキャンペーンに合わせて、全店舗で共通の運用を始めたいんです」
「なるほど」
「そのため、できれば九月中に準備を終えて、十月から使い始めたいと思っています」
小坂は、少し考えた。
八月に相談を受けて、九月中に開発と導入準備を終える。
決して余裕のある日程ではない。
しかも、今回は一店舗だけの仕組みではない。
複数店舗で利用するシステムであり、導入後の問い合わせや運用も考える必要がある。
「承知しました」
小坂は、落ち着いて答えた。
「ただ、今回の規模ですと、開発だけでなく、テストや導入準備にも時間が必要になります」
「そうですよね」
「まずは社内で実現可能性を確認させてください。そのうえで、対応できる範囲とスケジュールをご提案したいと思います」
「わかりました」
担当者は、うなずいた。
「ぜひ、前向きにご検討いただければと思います」
「ありがとうございます」
小坂は、丁寧に頭を下げた。
商談が終わると、少し大きく息をついた。
「……これは、取りたいなあ」
*
翌日。
小坂は、松井と大本を交えて、今回の商談内容を共有していた。
「今回のお客様なんですが、かなり大きな案件になりそうです」
小坂が言った。
「そうなんですね」
松井が、資料を確認した。
「複数店舗への共通システム導入ですか」
「はい。予約管理と売上集計、それから店舗間の情報共有をまとめたいそうです」
「なるほど」
大本も、画面を確認していた。
「……これ、決まったら結構大きいですよね」
「そうね」
小坂は、少し笑った。
「ぜひ受注したい案件ではあるんだけど」
松井が口を開いた。
「納期が気になりますね」
「そうなんです」
小坂は、予定表を開いた。
「十月から全店舗で使い始めたいそうなんですが、開発期間がかなり短くて」
「そうですね」
松井は、少し考えた。
「既存の仕組みをどこまで流用できるかにもよりますが、開発部へ確認する必要がありますね」
「はい」
大本が尋ねた。
「……予算が十分にあるなら、人を増やして対応することはできないんでしょうか?」
松井は、少し笑った。
「可能性はあります。ただ、人を増やせば、その分だけ早く作れるとは限りませんからね」
「そうなんですね」
「新しく参加する人にも、システムや業務を理解してもらう時間が必要です」
「なるほど」
小坂も続けた。
「それに、今動いている案件を止めるわけにもいかないからね」
「そうですよね」
大本は、メモを取った。
大きな案件を受注できれば、会社の売上は増える。
しかし、受注するためには、実際に仕事を進められる体制が必要になる。
営業だけで決められる話ではなかった。
「では、開発部に相談してみましょう」
小坂が言った。
「そうですね」
松井がうなずいた。
*
数日後。
小坂と松井は、開発部の田村と井上を交えて、今回の案件について打ち合わせをしていた。
田村は開発課長。
井上は基盤運用課長。
4月の組織再編によって、それぞれの課で判断する範囲が明確になっていた。
「……なるほどな」
田村が、共有された資料を確認した。
「複数店舗で使う予約管理と売上集計か」
「はい」
小坂が答えた。
「できれば、十月から全店舗で使い始めたいそうです」
「十月なあ……」
田村は、少し考えた。
「作れへんことはないと思う」
「本当ですか?」
「ただ、どこまで作るかによるな」
田村は、機能一覧を確認した。
「予約管理だけなら、既存の仕組みを流用できる部分もあると思う」
「はい」
「でも、売上集計や店舗間の情報共有まで入れるとなると、結構な規模になるで」
松井がうなずいた。
「そうですよね」
田村は、開発部の予定表を開いた。
「今の案件もあるし、十月までに全部完成させるのは厳しいな」
「……やはり、そうですか」
小坂が言った。
「開発だけやったら、無理したら間に合うかもしれん」
田村は続けた。
「でも、テストと導入まで考えたら、現実的ちゃうと思う」
井上もうなずいた。
「導入後の運用もありますからね」
「そうですね」
小坂が答えた。
「複数店舗で同時に使い始めるとなると、問い合わせも増えそうです」
「そうなんです」
井上は、資料を確認した。
「店舗ごとに運用が違うなら、最初から全店舗で同じように使えるとは限りません」
「なるほど」
「操作方法の説明や、データ移行の確認も必要になります」
小坂は、少し考えた。
「……つまり、開発が終わったらすぐ導入できるわけではない、ということですね」
「そうですね」
井上がうなずいた。
「実際に使い始めるまでの準備も、計画に入れる必要があります」
田村は、少し考えた。
「もし十月に間に合わせたいなら、対象を絞るしかないと思うで」
「対象を、ですか?」
「例えば、最初は数店舗だけにするとか、機能を限定するとかやな」
小坂は、少し顔を上げた。
「……段階的に導入するということですね」
「せやな」
田村がうなずいた。
「それやったら、検討できると思う」
井上も続けた。
「最初の店舗で運用を確認できれば、その結果をほかの店舗へ展開するときにも生かせます」
「なるほど」
小坂は、メモを取った。
全店舗同時導入は難しい。
しかし、何もできないわけではない。
顧客の目的を一部でも達成できる方法は、まだ考えられそうだった。
*
打ち合わせを終えた小坂は、松井と大本を交えて、提案内容を整理していた。
「……段階導入で提案してみようと思います」
小坂が言った。
「そうですね」
松井がうなずいた。
「ただ、十月までに何ができるのかは、明確にした方がいいですね」
「はい」
小坂は、資料を開いた。
第一段階。
十月までに、一部店舗で予約管理を中心とした機能を試験導入する。
第二段階。
試験導入の結果を踏まえて、売上集計や店舗間の情報共有を追加する。
第三段階。
翌年にかけて、全店舗へ展開する。
「これなら、秋のキャンペーンにも一部対応できると思うんです」
小坂が言った。
「そうですね」
松井は、資料を確認した。
「ただ、対象店舗の選び方も重要になりますね」
「はい」
「運用が比較的近い店舗から始めた方が、導入時の問題を整理しやすいと思います」
「なるほど」
大本も、資料を見ていた。
「……これなら、お客様の目的も少しは達成できそうですね」
「そうね」
小坂は、少し笑った。
「全部は難しくても、できるところから始める方法はあると思う」
松井がうなずいた。
「では、開発部ともう一度確認して、正式な提案にしましょう」
「はい」
小坂は、資料を保存した。
今回の案件は、ぜひ受注したい。
顧客の課題も明確で、予算もある。
カナメとしても、これまでの経験を生かせる仕事だった。
ただし、受注するために、できない約束をするわけにはいかない。
小坂は、もう一度提案資料を見直した。
「……何とか、うまくいくといいんですけどね」
松井が、少し笑った。
「そうですね」
大本も、うなずいた。
営業として、できることはまだ残っていた。
*
八月下旬。
小坂千尋は、新規顧客とのオンライン商談に臨んでいた。
前回の打ち合わせから、二週間ほどが経っている。
その間に、カナメでは開発部と営業部が協力し、実現可能な導入計画を検討してきた。
当初の希望は、十月までに全店舗へ共通の業務システムを導入すること。
しかし、現在の開発体制と既存案件の予定を踏まえると、すべての機能を完成させ、全店舗へ展開することは難しい。
そこで、小坂たちがまとめたのは、段階的な導入計画だった。
「本日は、前回ご相談いただいた件について、弊社からのご提案をご説明させていただきます」
小坂が挨拶した。
「よろしくお願いします」
先方の情報システム担当者が答えた。
画面には、店舗運営を統括する責任者も参加している。
「まず、今回ご希望いただいている内容については、技術的に実現できると考えています」
「そうですか」
担当者が、少し表情を明るくした。
「ただし、十月までにすべての機能を完成させ、全店舗へ導入することについては、難しいという判断になりました」
「……なるほど」
小坂は、資料を切り替えた。
「そこで、段階的な導入をご提案したいと考えています」
*
画面には、三段階の導入計画が表示された。
第一段階。
十月までに、一部店舗へ予約管理を中心とした機能を導入する。
第二段階。
試験導入の結果を踏まえ、売上集計や店舗間の情報共有を追加する。
第三段階。
翌年にかけて、全店舗へ展開する。
「最初に対象店舗を絞ることで、実際の業務に合わせた調整を行いながら、導入を進められると考えています」
小坂は、説明を続けた。
「また、全店舗で一斉に運用を切り替える場合と比べて、導入時の問題を早い段階で確認できるという利点もあります」
情報システム担当者がうなずいた。
「なるほど。段階的に進めるということですね」
「はい」
「確かに、その方が安全に導入できそうですね」
「ありがとうございます」
小坂は、少し安心した。
少なくとも、提案そのものは理解してもらえている。
しかし、店舗運営の責任者は、資料を見ながら考え込んでいた。
「……一つ、よろしいでしょうか」
「はい。どうぞ」
「今回、十月から全店舗で共通の運用を始めたいと申し上げたのには、理由があるんです」
「はい」
「秋のキャンペーンでは、全店舗で同じ予約管理と売上報告を行う予定になっています」
「なるほど」
「本部側の管理方法も、それに合わせて変更することになっていまして」
小坂は、メモを取った。
「そうしますと、一部店舗だけ新しい仕組みを使う形では、運用上の問題があるということでしょうか」
「そうなんです」
責任者がうなずいた。
「店舗によって仕組みが違うと、結局、本部で集計方法を分けなければならなくなります」
「なるほど」
「今回の目的は、全店舗の運用を統一することなんです」
小坂は、少し考えた。
段階導入によって、システムの開発と導入の負荷は減らせる。
しかし、顧客が本当に実現したいことは、全店舗で同じ業務を行えるようにすることだった。
その点では、今回の提案は十分ではない。
「承知しました」
小坂は、うなずいた。
「では、十月から全店舗で同じ運用を始めることが、今回の必須条件ということですね」
「はい」
責任者は、はっきりと答えた。
「そこは、どうしても譲れないんです」
*
小坂は、もう一度資料を確認した。
予算は十分にある。
顧客の課題も明確だ。
カナメがこれまで培ってきた経験を生かせる案件でもある。
できれば、受注したい。
しかし、開発部からは、全店舗同時導入について現実的ではないという回答が出ている。
無理をすれば、開発そのものは間に合う可能性がある。
だが、その後のテストやデータ移行、各店舗への説明、導入後の運用まで含めれば、確実に対応できるとは言えなかった。
「……一つ、確認させてください」
小坂が口を開いた。
「十月から全店舗で共通の運用を始めることが必須であれば、当初予定されていた機能の一部を後から追加する方法も難しいでしょうか」
情報システム担当者が、店舗運営の責任者へ目を向けた。
「……どうでしょうか」
責任者は、少し考えた。
「予約管理だけでは、今回の目的を達成できないんです」
「なるほど」
「売上報告も含めて統一しなければ、本部の仕事が変わりませんので」
「承知しました」
小坂は、うなずいた。
予約管理だけを先に導入する。
あるいは、一部店舗だけで運用を始める。
どちらも、顧客の必須条件を満たせない。
それなら、無理に提案を続けても意味がない。
「申し訳ありません」
小坂は、少し姿勢を正した。
「弊社としても、ぜひお力になりたいと考えております」
「ありがとうございます」
「ただ、現時点では、十月までに全店舗へ必要な機能を導入するという条件で、お約束することはできません」
画面の向こうで、担当者がうなずいた。
「……そうですか」
「はい。ご期待に沿えず、申し訳ありません」
少しの沈黙があった。
やがて、店舗運営の責任者が口を開いた。
「いえ。できないことを、できると言われるよりはありがたいです」
「ありがとうございます」
「ただ、今回はどうしても日程を変えられませんので、ほかの会社さんにも相談してみようと思います」
「承知しました」
小坂は、丁寧に頭を下げた。
「もし今後、別の形でお手伝いできることがありましたら、ぜひご相談ください」
「はい。その際はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
商談が終わった。
*
オンライン会議を退出すると、小坂は椅子の背もたれに体を預けた。
「……ああ、残念」
思わず、声が出た。
受注できれば、かなり大きな案件になったはずだった。
新しい顧客との取引が始まり、カナメとしても実績を増やせたかもしれない。
何より、相手の困りごとを解決できる仕事だった。
しかし、条件が合わなかった。
小坂は、もう一度商談記録を開いた。
顧客の希望。
開発部の回答。
代替案。
そして、今回の結論。
記録を整理しながら、少し考えた。
ほかに、何か方法はなかっただろうか。
もう少し早く相談を受けていれば。
あるいは、最初から対象機能を絞って提案できていれば。
しかし、今から考えても、十月までという条件は変わらない。
小坂は、商談結果を案件管理表へ記録した。
受注見送り。
理由は、納期条件の不一致。
そして、金目と松井へ報告の連絡を入れた。
*
「……ということで、今回は受注できないと思います」
小坂が、説明を終えた。
オンライン会議には、金目と松井が参加している。
「なるほどな」
金目は、共有された資料を確認した。
「申し訳ありません」
小坂が言った。
「売上につなげられませんでした」
金目は、少し首をかしげた。
「なんで謝るん?」
「……え?」
「いや、今回の話やけど」
金目は、少し考えた。
「お客様の希望は確認したんやろ?」
「はい」
「開発部にも相談した?」
「はい。田村さんと井上さんに確認しました」
「ほんで、代替案も出したんやな?」
「はい。段階導入をご提案しました」
「それでも条件が合わへんかった?」
「……はい」
金目は、うなずいた。
「ほな、今回はしゃあないな」
小坂は、少し驚いたように金目を見た。
「……よろしいんでしょうか」
「何が?」
「かなり大きな案件でしたので」
金目は、少し笑った。
「そら、取れたらうれしかったやろな」
「はい」
「でも、無理な条件で仕事取ってきて、みんなに迷惑かける方が困るで」
小坂は、うなずいた。
「……そうですね」
金目は、資料を見直した。
「ただ、一つだけ確認したいんやけど」
「はい」
「お客様が全店舗同時に導入したかった理由って、最初の商談でどこまで聞けとった?」
小坂は、少し考えた。
「秋のキャンペーンに合わせたいということは伺っていました」
「なるほど」
「ただ、本部の運用も同時に切り替える必要があるという点までは、十分に確認できていませんでした」
「そうか」
金目は、うなずいた。
「ほな、そこは次に生かせるな」
「はい」
「最初から必須条件がわかっとったら、もう少し早く判断できたかもしれん」
「そうですね」
松井も口を開いた。
「今回の提案内容自体は、今後の参考になると思います」
「そうですね」
小坂が答えた。
「ただ、最初の段階で、譲れない条件をもっと確認しておくべきでした」
金目は、少し笑った。
「ええと思うで。そこまで整理できとったら、今回の商談も無駄ちゃうやろ」
「ありがとうございます」
「もちろん、受注できるに越したことはないけどな」
「はい」
「でも、約束できへんことを約束してまで、売上を作る必要はないと思っとる」
金目は、少し間を置いた。
「それやったら、最初から断った方がええ」
小坂は、うなずいた。
「わかりました」
「ほな、今回の話はちゃんと記録しとこうか」
「はい」
「また条件が合う仕事があったら、相談してもらえるかもしれんしな」
「そうですね」
小坂は、少し笑った。
受注できなかったことは、やはり残念だった。
しかし、今回の判断が間違っていたわけではない。
そう思えるようになっていた。
*
数日後。
小坂は、今回の商談記録を整理していた。
顧客から聞いた課題。
検討した機能。
開発部の見積もり。
そして、条件が合わなかった理由。
その内容を、今後の営業活動でも参照できるようにまとめている。
「小坂さん、少しよろしいでしょうか?」
大本恭平が声をかけた。
「うん。どうしたの?」
「この前の案件なんですが……」
「ああ、あれね」
「結局、今回は仕事にならなかったんですよね」
「そうね」
小坂は、少し笑った。
「残念だけど、今回は受注できなかった」
「そうですか」
大本は、資料を確認した。
「……結構、大きな案件だったんですよね」
「うん。だから、できれば受注したかったんだけどね」
「なるほど」
大本は、少し考えた。
「でも、開発部の方が難しいって言っていたなら、仕方ないんでしょうか」
小坂は、少し首をかしげた。
「うーん。仕方ない、だけではないかな」
「……そうなんですか?」
「今回、もっと早く確認できたこともあったと思うの」
「なるほど」
「お客様が何をしたいのかは聞いていたけど、何が絶対に必要なのかまでは、最初に確認できていなかったから」
大本は、うなずいた。
「……ああ、なるほど」
「そこがわかっていたら、開発部への相談の仕方も変わっていたかもしれない」
「そうですね」
「だから、受注できなかったから終わり、ではないと思う」
小坂は、資料を開いた。
「今回わかったことを、次の商談に生かせるようにしておきたいの」
「なるほど」
大本は、少し考えた。
「……営業って、仕事を取ってくるだけじゃないんですね」
「そうね」
小坂は、少し笑った。
「約束できることを、ちゃんと約束する仕事でもあるから」
「……なるほど」
「それに、できないことを無理に引き受けても、お客様も困るでしょ?」
「そうですね」
「だから、断ることも必要になるの」
大本は、メモを取った。
「……勉強になります」
小坂が笑った。
「まあ、できれば受注したいんだけどね(笑)」
「それはそうですよね(笑)」
二人は笑った。
*
八月末。
小坂は、今回の案件管理表を更新していた。
商談結果は、受注見送り。
売上にはならなかった。
しかし、顧客の課題や検討した内容は、記録として残っている。
開発部と確認したことも、次の提案に生かせるだろう。
そして、顧客との関係も、完全に終わったわけではない。
小坂は、資料を保存した。
営業の仕事は、受注することだけではない。
顧客の希望を聞く。
会社として対応できることを考える。
そして、約束できることを、責任を持って約束する。
今回は、その条件が合わなかった。
ただ、それだけのことだった。
小坂は、次の案件管理表を開いた。
新しい商談の予定が、いくつか並んでいる。
「……さて、次も頑張ろうかな」
小坂は、少し笑った。
株式会社カナメの営業部では、今日も新しい仕事が始まろうとしていた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、小坂が新規案件の受注を見送るお話でした。
これまでのカナメでは、お客様の困りごとを解決し、仕事につなげていく場面を多く描いてきました。
しかし、営業の仕事をしていれば、当然ながらすべての商談が受注につながるわけではありません。
今回は、予算も十分にあり、カナメの得意分野とも合致する案件でした。
……できれば、受注したかったでしょうね(笑)。
ただ、問題は納期でした。
お客様は十月までの全店舗同時導入を希望していましたが、カナメの開発体制では、品質や導入後の運用まで含めて対応することが難しい状況でした。
そこで小坂は、開発部と相談し、段階的な導入を提案します。
しかし、お客様にも譲れない事情がありました。
どちらかが間違っていたわけではありません。
単に、双方の条件が合わなかったわけです。
さて、今回描きたかったのは、営業における「断る」という判断です。
営業である以上、売上を増やしたい。
大きな案件なら、なおさら受注したいでしょう。
しかし、受注することと、その仕事を最後まで責任を持って遂行できることは、別の話です。
無理な納期を約束すれば、開発部に負担がかかります。
品質に問題が出れば、お客様にも迷惑をかけることになります。
既存のお客様への対応にも影響するかもしれません。
それでは、たとえ一時的に売上が増えたとしても、会社にとってよい仕事だったとは言い切れないでしょう。
もっとも、だからといって、簡単に断ればよいというわけでもありません。
今回、小坂は段階導入という代替案を考えました。
できない理由を並べるのではなく、どうすれば実現できるのかを考える。
そのうえで、どうしても条件が合わなければ、無理な約束はしない。
そこにも営業としての専門性があるのだと思います。
そして、今回の金目。
失注を報告した小坂に対して、まず「なんで謝るん?」と尋ねていました。
ただし、何も確認せずに判断を褒めたわけではありません。
お客様の希望を正しく把握できていたのか。
開発部と相談したのか。
代替案は検討したのか。
そうした経緯を確認したうえで、今回の判断を受け入れています。
さらに、最初の商談で確認できたはずの条件についても指摘しました。
失注したことを責めるのではなく、次に生かせることを考える。
これも、金目らしい仕事の任せ方なのかもしれません。
さて、今回の小坂は、残念ながら売上を作ることができませんでした。
それでも、何も残らなかったわけではありません。
お客様の課題を知り、開発部と実現可能性を検討し、提案をまとめた。
そして、条件が合わないときには、きちんと断ることができた。
そうした経験は、次の商談にも生きてくるはずです。
もっとも、会社を経営する以上、失注ばかりでは困りますけどね(笑)。
金目も、社員の判断を尊重するだけでなく、ちゃんと売上を作ってもらわなければなりません。
……四月には賞与制度まで作ってしまいましたし(笑)。
さて、次回は再び開発部のお話です。
四月の組織再編によって、田村と井上が課長に就任しました。
あれから数か月。
新しい体制は、実際の仕事の中でどのように機能しているのでしょうか。
次回もお付き合いいただければ幸いです。




