伝える責任
2031年4月。
大阪・本町。
株式会社カナメでは、今年も基本給改定の時期を迎えていた。
3月には、各部署のマネージャーが年次評価面談を終えている。
その結果をもとに、新年度の役割と報酬を検討し、4月から適用する月額基本給を決定した。
あとは、その結果を本人へ伝えるだけだった。
もっとも、金目にとっては、その「あとは」が一番難しい仕事でもあった。
*
「……今年も、なかなかやな」
金目は、会議室の机に並べられた資料を眺めていた。
社員ごとの評価結果。
月額基本給の改定額と、その年額換算。
そして、今年度に期待する役割。
高瀬が、向かいの席に座っている。
「今年も、社長から直接お伝えする形でよろしいですね」
「せやな」
金目はうなずいた。
「まだ俺が全員と話せる規模やし」
「承知しました」
「まあ、来年以降は考えなあかんかもしれへんけどな」
高瀬は、少し笑った。
「今後、さらに社員が増えるようでしたら、各マネージャーへの委譲も検討したいですね」
「そうやな」
金目は、資料を開いた。
「でも、今年は俺がやるわ」
「お願いします」
高瀬は、査定資料について説明した。
「今回、各部署から提出された評価理由については、昨年より整理されています」
「そうなんや」
「はい。具体的な成果と、今後期待する役割を分けて記載していただいています」
金目は、資料を確認した。
確かに、以前よりわかりやすくなっている。
何を評価したのか。
どんな仕事を任せられるようになったのか。
そして、今年度に何を期待しているのか。
それぞれが整理されていた。
「……ええやん」
金目は、少し笑った。
「西田さんらも、ちゃんと考えてくれとるな」
「そうですね」
高瀬もうなずいた。
「ただ、評価結果と基本給改定額が、必ずしも一致するわけではありません」
「せやな」
「会社としての報酬原資や、現在の役割も踏まえて判断していますので」
「うん」
金目は、少し考えた。
「……そこを説明するんが、難しいんよな」
*
金目は、次の資料を開いた。
今回、基本給が上がる社員もいる。
小幅な改定にとどまる社員もいる。
それぞれに理由があった。
「……上げる話は、ええねん」
金目がつぶやいた。
高瀬が顔を上げた。
「はい?」
「いや、給料上がりますって伝えるんは、そんなに難しくないやろ?」
「そうですね」
「本人もうれしいやろし、俺もうれしいし」
金目は、少し笑った。
「でも、期待しとったほど上がらへん人には、どう伝えるか悩むねん」
高瀬はうなずいた。
「理由を曖昧にしないことが大切ですね」
「せやな」
「評価している部分と、今後の課題を分けて伝える必要があります」
「うん」
金目は、資料を見直した。
「頑張ってくれとるんは、わかっとるんよ」
「はい」
「でも、頑張ったことと、今どこまで任せられるかは、必ずしも同じちゃうやろ?」
「そうですね」
「そこを、ちゃんと説明せなあかん」
金目は、少し考えた。
「それに、期待だけ伝えても、次に何したらええかわからんかったら意味ないしな」
高瀬がうなずいた。
「具体的な行動につながる説明が必要ですね」
「せやねん」
金目は、資料を閉じた。
「……ほな、今年も頑張りますか」
*
査定結果の通知は、今年も本町事業所の会議室で行われた。
普段はフルリモートで働いている社員たちが、日程を分けて来社する。
金目は、一人ずつ面談を行い、4月からの基本給と、その判断理由を伝えていった。
最初の数日は、比較的穏やかに進んだ。
そして、上田の面談の日がやってきた。
「失礼します」
「お疲れさん。どうぞ」
上田が、会議室に入ってきた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
金目は、通知書を開いた。
「ほな、今年の査定結果を伝えますね」
「はい」
「今回、基本給を上げることになりました」
上田は、少し表情を緩めた。
「ありがとうございます」
金目は、通知書を差し出した。
「去年、もうちょっと大きな仕事を任せたいって話したやろ?」
「はい。覚えています」
「この一年、どうやった?」
上田は、少し考えた。
「そうですね。小川君の育成もありましたし、技術的な判断を任されることも増えました」
「せやな」
「ただ、まだ岩田さんに相談することも多いです」
金目は、少し笑った。
「それは別にええんちゃう?」
「そうですか?」
「全部一人で決める必要はないと思っとるで」
上田は、少し考えた。
「なるほど」
「大事なんは、何を自分で判断して、何を相談するかやと思うねん」
「はい」
金目は、評価資料を確認した。
「西田さんからも、技術的な判断を任せられる場面が増えたって聞いとる」
「ありがとうございます」
「小川君の育成も、ちゃんと進めてくれとるしな」
「はい」
「そこは、今年の成果として評価しとるで」
上田は、少し頭を下げた。
「ありがとうございます」
金目は続けた。
「それに、今年度はもうちょっと広い範囲を任せたいと思っとる」
「……広い範囲、ですか?」
「うん。自分の担当だけやなくて、周りの仕事も見ながら判断できるようになってほしいねん」
上田は、少し考えた。
「……なるほど」
「もちろん、いきなり全部任せるわけちゃうで」
金目は笑った。
「そこは西田さんと相談しながら、少しずつやな」
「わかりました」
「期待しとるで」
上田は、しっかりとうなずいた。
「ありがとうございます。頑張ります」
*
別の日。
三宅が、会議室に入ってきた。
「失礼します」
「お疲れさんです。どうぞ」
「ありがとうございます」
金目は、査定資料を開いた。
「三宅さん、今年もいろいろありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
「特に、福原さんへの採用業務の引き継ぎ、助かりました」
三宅は、少し笑った。
「ありがとうございます。まだ完全に引き継げたわけではありませんけど」
「そうなんですね」
「はい。ただ、日程調整や応募者対応については、かなり任せられるようになりました」
「それはありがたいですね」
金目は、通知書を差し出した。
「今回、基本給を上げることになりました」
「……ありがとうございます」
三宅は、少し驚いたようだった。
「ただ、今回の評価について、一つ伝えたいことがあるんです」
「はい」
「三宅さんが直接やる仕事、以前より減った部分もあると思うんですよ」
「そうですね」
「でも、それって仕事してへんようになったわけちゃうやろ?」
三宅は、少し考えた。
「……そうですね」
「福原さんができるようになったんは、三宅さんが教えてくれたからやと思っとるんよ」
「ありがとうございます」
「それに、引き継いだ分、ほかの業務にも時間を使えるようになったんやろ?」
「はい。契約関係の確認や、社内手続きの整理に時間を使えるようになりました」
「ええやん」
金目は、少し笑った。
「俺な、仕事を抱え込む人だけが評価される会社にはしたくないねん」
三宅が顔を上げた。
「……なるほど」
「ほかの人が仕事できるようにするんも、立派な成果やと思うで」
三宅は、少し考えてから、うなずいた。
「ありがとうございます」
金目は続けた。
「今年度は、もうちょっと業務全体の整理もお願いしたいと思っとる」
「承知しました」
「もちろん、高瀬さんとも相談しながらやけどな」
「はい」
三宅は、少し笑った。
「福原さんにも、もっと任せられるようにしていきたいと思います」
「よろしくお願いします」
金目は、少し笑った。
「期待しとるで」
*
三宅が会議室を出たあと。
金目は、資料を整理していた。
上田には、技術的な判断と育成への期待。
三宅には、業務を人へ任せ、組織として回せるようにする力への期待。
それぞれ、違う強みだった。
金目は、少し考えた。
仕事ができる人。
人を育てられる人。
周囲の仕事を進めやすくできる人。
そのどれもが、会社に必要な力だった。
ただ、評価の仕方は同じではない。
金目は、次の資料を開いた。
中野。
昨年から着実に成長している若手社員だった。
評価資料には、成長した部分がいくつも書かれている。
しかし、今回の基本給改定額は、比較的小さなものになっていた。
金目は、しばらく資料を眺めた。
「……さて、どう伝えようかな」
会議室の外から、足音が近づいてきた。
*
「失礼します」
会議室の扉が開いた。
「お疲れさん。どうぞ」
金目が声をかけると、中野は軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。まあ、座って」
中野は、向かいの席に腰を下ろした。
普段はオンラインで話すことが多い二人だったが、今日は少し違う。
机の上には、基本給改定の通知書が置かれていた。
「ほな、今年の査定結果を伝えますね」
「はい」
金目は、通知書を中野へ差し出した。
「4月からの月額基本給と、その年額換算は、こちらになります」
中野は、資料に目を落とした。
しばらく、何も言わなかった。
「……ありがとうございます」
金目は、その表情を見ていた。
昇給はしている。
しかし、期待していた金額ではなかったのだろう。
「どう? 率直に聞かせてもらってええで」
中野は、少し迷った。
「……正直に言ってもいいですか?」
「もちろん」
「もう少し上がると思っていました」
金目はうなずいた。
「そうか」
「はい」
「どのあたりを評価してもらえると思っとった?」
中野は、少し考えた。
「去年より、一人で対応できる仕事が増えたと思っています」
「うん」
「小川君の環境構築も手伝いましたし、レビューでも以前より指摘されることが減りました」
「そうやな」
「自分なりには、結構成長できた一年だったと思うんです」
金目は、黙って聞いていた。
中野の言うことは、間違っていなかった。
評価資料にも、同じような内容が記されている。
「……せやな。そこはちゃんと評価しとるで」
「ありがとうございます」
「西田さんからも、できることが増えたって聞いとる」
「はい」
金目は、少し考えた。
「ただな、今回の基本給については、もう一つ見とるところがあるねん」
「……何でしょう?」
「今の中野君に、どこまで仕事を任せられるか、いうところや」
*
金目は、評価資料を開いた。
「例えば、今は自分の担当範囲やったら、だいぶ一人で進められるようになったやろ?」
「はい」
「そこは、去年から大きく成長したところやと思う」
「ありがとうございます」
「ただ、設計の判断が必要になったときとか、ほかの機能への影響を考えなあかんときは、まだ上田君や岩田さんに相談することが多いんちゃうかな」
中野は、少し考えた。
「……そうですね」
「もちろん、相談すること自体が悪いわけちゃうで」
「はい」
「俺も、わからんことは人に聞くしな」
金目は、少し笑った。
「むしろ、わからんまま勝手に進められる方が困るわ」
中野も、少し笑った。
「それはそうですね」
「ただ、次は相談するときに、自分なりの判断も持ってきてほしいねん」
「……判断、ですか?」
「せや。例えば、二つの方法があったとして、どっちがええと思うか。その理由も含めて説明できるようになってほしい」
中野は、少し考えた。
「なるほど」
「もちろん、最初から正解せんでもええで」
「はい」
「大事なんは、何を考えて、どう判断したかやと思っとる」
金目は続けた。
「そこができるようになったら、もうちょっと大きな仕事を任せられると思うねん」
中野は、資料を見直した。
「……そういうことなんですね」
「うん」
「じゃあ、今回の評価は、去年より成長したことは認めてもらえているけど、まだ次の段階には届いていない、ということでしょうか」
金目はうなずいた。
「そういう理解でええと思う」
中野は、少し黙った。
金目は、言葉を続けなかった。
中野が考える時間を待った。
「……わかりました」
中野は、少し顔を上げた。
「正直、まだ少し残念ですけど」
「せやろな」
「でも、何を期待されているのかはわかりました」
金目はうなずいた。
「それはよかった」
*
中野は、もう一度通知書を見た。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「今おっしゃったことができるようになれば、来年はもっと上がるんでしょうか?」
金目は、少し考えた。
「……そこは、約束できへんな」
中野は、少し驚いたようだった。
「そうなんですね」
「うん。会社の状況もあるし、来年の役割もあるからな」
「なるほど」
「ただ、次の評価で何を見たいかは、ちゃんと伝えられるで」
金目は、評価資料を指した。
「まずは、担当する仕事について、設計の選択肢を自分で整理できるようになること」
「はい」
「それから、変更したときに、ほかのところへどんな影響があるかを考えられること」
「はい」
「あと、後輩から相談されたときに、答えを教えるだけやなくて、一緒に考えられるようになってほしいな」
中野は、少し考えた。
「……なるほど」
「もちろん、全部いっぺんにできるようにならんでもええで」
金目は、少し笑った。
「西田さんや上田君とも相談しながら、少しずつやっていこうや」
「はい」
中野は、しっかりとうなずいた。
「頑張ります」
「期待しとるで」
*
中野が会議室を出たあと。
金目は、しばらく席に座っていた。
机の上には、中野の評価資料が残っている。
本人が成長したことは、間違いない。
努力してきたことも、十分理解できる。
しかし、評価と報酬は、必ずしも同じように伸びるわけではない。
「……難しいなあ」
金目は、小さくつぶやいた。
昇給を伝えるだけなら、そこまで苦労はしない。
しかし、期待していたほど上がらなかった理由を伝えるときには、言葉を選ぶ。
努力を否定したくはない。
かといって、曖昧な説明で終わらせるわけにもいかない。
金目は、資料を閉じた。
*
4月の下旬。
予定していた査定結果の通知が、すべて終了した。
金目は、西田とオンラインで話していた。
「……今年も、なかなか大変やったわ」
金目が言った。
「お疲れさん」
西田は、少し笑った。
「今年も全員と話したんやろ?」
「せやで」
「ようやるなあ」
「まあ、まだ俺ができる規模やからな」
金目は、少し考えた。
「でも、そろそろ考えなあかんな」
「何を?」
「査定結果の通知も、マネージャーに任せることや」
西田は、少し考えた。
「まあ、今でも評価面談はやっとるしな」
「せやねん」
「ほな、通知も任せたらええんちゃう?」
金目は、少し笑った。
「そう簡単でもないと思うねん」
「なんで?」
「評価するんと、給料の話するんは、また違うやろ?」
西田は、少し考えた。
「……それはそうやな」
「評価は現場で見てもらっとる。でも、最終的な基本給は会社全体の原資も考えて決めとるやろ?」
「せやな」
「せやから、マネージャーに通知を任せるんやったら、ちゃんと説明できるようにせなあかん」
西田がうなずいた。
「なるほどな」
「本人から質問されたときに、何でこの金額なんか説明できへんかったら困るしな」
「そらそうや」
金目は、少し考えた。
「それに、マネージャー自身が決められる範囲も整理せなあかんな」
「……決裁権限か」
「せや」
「今は、評価資料を作って、最後は金目君が決めとるもんな」
「うん」
金目は、少し笑った。
「まず、誰が何を決めて、誰が説明するんか、ちゃんと整理しようや」
「了解」
「高瀬さんとも相談して、来年に向けて考えよう」
「ええと思うで」
*
会議が終わったあと。
金目は、今年の査定通知の記録を確認していた。
上田には、技術的な判断と育成への期待を伝えた。
三宅には、業務を人へ任せ、組織として回せるようにする力を評価した。
中野には、成長を認めたうえで、次に何を目指してほしいかを説明した。
それぞれ、伝える内容は違った。
そして、受け止め方も違った。
金目は、少し考えた。
評価を決めること。
報酬を決めること。
そして、その結果を本人に伝えること。
どれも大切な仕事だ。
しかし、それらを一人で抱え続ける必要はないのかもしれない。
必要なのは、誰が担当しても、会社として説明できる仕組みを作ること。
そのためには、評価基準だけでなく、判断する権限と責任も整理しなければならない。
「……任せる準備するんも、仕事なんやな」
金目は、少し笑った。
そこへ、西田からチャットが届いた。
『高瀬さんとの打ち合わせ、来週でええ?』
『ええで。お願いします』
金目は、少し考えてから、もう一通送った。
『しかし、仕事減らすために任せようと思っとるのに、仕事増えとるな(笑)』
すぐに返事が届いた。
『そら、社長やからな(笑)』
「……またそれかい」
金目は、思わず笑った。
株式会社カナメの4月が、静かに終わろうとしていた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、年に一度の査定結果通知のお話でした。
昨年に続き、金目が社員一人ひとりと直接顔を合わせ、基本給改定の結果を伝えています。
もっとも、今回の面談では、それぞれ違った話がありました。
上田には、昨年伝えた期待に応えてくれたこと。
三宅には、自分の仕事をほかの人へ任せられるようにしたこと。
そして中野には、着実な成長を認めながらも、期待していたほどの昇給には至らなかった理由を伝えました。
さて、人事評価というのは、何度経験しても難しいものです。
以前の後書きでも触れましたが、昇給を伝えるだけなら、そこまで苦労はしません。
難しいのは、本人の期待に届かない結果を伝えるときです。
本人が頑張ってきたことは知っている。
成長していることも理解している。
それでも、報酬という形では、必ずしも本人の希望に応えられるとは限りません。
そんなとき、どのような言葉で伝えるべきなのか。
筆者自身、マネジメントの仕事をする中で、いつも悩むところだったりします。
そして今回、もう一つ描きたかったのが、三宅の評価です。
自分でたくさんの仕事をこなす人は、成果が見えやすいものです。
一方で、自分が担当していた仕事を誰かに教え、任せられるようにする。
その結果、自分が直接担当する仕事は減っていく。
これも、組織にとっては大切な成果だと思っています。
むしろ、特定の誰かがいなければ回らない仕事を減らすことは、会社を強くすることにつながるのでしょう。
さて、今回の金目は、査定通知そのものを将来的にマネージャーへ任せることも考え始めました。
しかし、これも簡単ではありません。
現場の仕事を評価すること。
会社全体の報酬原資を踏まえて、基本給を決めること。
そして、その判断を本人へ説明すること。
この三つは、似ているようで、それぞれ異なる責任を伴います。
評価資料を作ることができても、なぜその基本給になったのかを説明できるとは限りません。
かといって、決定権のない人に説明だけを任せるのも、なかなか難しいものです。
誰が判断し、誰が責任を持ち、誰が本人に伝えるのか。
会社が大きくなるほど、そうした仕組みを整える必要が出てくるのでしょう。
金目は、少しずつ仕事を任せられるようになりました。
けれど、任せるための準備にも、また別の仕事が必要になります。
……楽をするために始めたはずなのに、なかなか楽にはなりませんね(笑)。
さて、カナメは2031年の春を迎えました。
新しい仲間も増え、それぞれの専門性を生かしながら仕事を進めています。
金目が直接判断する仕事は、これからさらに減っていくのかもしれません。
その代わり、経営者として考えなければならないことは、ますます増えていきそうです。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




