約束の範囲
2030年7月。
株式会社カナメの営業担当、松井慎吾のもとに、一通のメールが届いた。
差出人は、先月、データ出力機能の改善を提案した顧客だった。
件名は『データ出力改善の発注について』。
松井は、メールを開いた。
『社内で検討した結果、今回の改善を正式にお願いしたいと考えております』
「……よし」
松井は、小さくうなずいた。
先月の提案から、顧客側で利用部門と情報システム部門の確認が進められていた。
予算も確保できたらしい。
あとは、発注内容を確認して手続きを進めるだけだった。
松井は、添付されていた発注書を開いた。
そして、少し手を止めた。
『対応内容:データ出力形式の統一、および部署別集計表の作成』
「……集計表?」
松井は、もう一度読み直した。
カナメが提案していたのは、データ出力形式の改善だった。
部署ごとに異なっていた出力形式を揃え、Excelでの加工作業を減らす。
集計表そのものを自動作成する機能は、将来の拡張案として整理していたはずだった。
しかし、発注書には、その両方が記載されている。
松井は、提案資料を開いた。
そして、商談記録と照らし合わせた。
「……確認が必要ですね」
松井は、顧客へ連絡した。
*
「本日はありがとうございます」
オンライン会議で、松井が挨拶した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
画面の向こうには、情報システム部門の担当者がいた。
「まず、今回の発注について、ありがとうございます」
「いえ。社内でも、ぜひ進めたいという話になりまして」
「ありがとうございます」
松井は、資料を共有した。
「一点だけ、発注内容について確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい」
「こちらに『部署別集計表の作成』と記載いただいているのですが」
「ああ、はい」
「今回のご提案では、データ出力形式の統一までを対象としておりまして、集計表の自動作成は含めていない認識でした」
担当者は、少し驚いた表情を見せた。
「……そうなんですか?」
「はい」
「てっきり、そこまで含まれていると思っていました」
松井は、少し考えた。
「なるほど。こちらの説明が十分ではなかったかもしれません」
「そうですね……」
担当者は、提案資料を開いた。
「この図を見ると、改善後は集計表までできるように見えたんですが」
松井も、同じページを確認した。
改善前。
部署ごとにデータを出力し、形式を揃えてから集計する。
改善後。
統一された形式でデータを出力し、集計する。
図の右端には、完成した集計表が描かれていた。
松井は、少し考えた。
文章では、出力形式の改善までと記載している。
しかし、図だけを見ると、集計表まで自動作成されるようにも見える。
「……確かに、こちらの図は誤解を招く表現になっていますね」
「そうですよね」
「申し訳ありません。改めて対応範囲を整理させていただけますでしょうか」
担当者は、少し考えた。
「わかりました」
「ありがとうございます」
「ただ、こちらも集計表まで作っていただける前提で社内に説明してしまっていまして」
「承知しました」
松井は、すぐに回答しなかった。
ここで無償対応を約束すれば、開発部の負担が増える。
一方、提案資料に誤解を招く表現があったことも事実だった。
「一度、社内で確認したうえで、対応方法をご相談させてください」
「お願いします」
「いつまでに回答できるかも含めて、改めてご連絡いたします」
松井は、必要な事項を確認して会議を終えた。
*
その日の午後。
松井は、田村と岡元を交えてオンライン会議を開いた。
「先方から正式発注のご連絡をいただきました」
「おお、よかったな」
田村が笑った。
「ありがとうございます」
岡元も、少しうれしそうだった。
「よかったです!」
しかし、松井は続けた。
「ただ、一点、確認が必要なことがありまして」
「ん?」
「発注書に、集計表の作成まで含まれているんです」
田村が、少し首をかしげた。
「……集計表?」
「はい」
「それ、今回の範囲ちゃうやろ?」
「そうですね」
松井は、提案資料を共有した。
「先方は、こちらの図を見て、集計表まで自動作成できると理解されていたようです」
岡元は、画面を確認した。
そして、少し黙った。
「……あ」
田村が尋ねた。
「どうしたん?」
「この図、確かにそう見えますね」
「……ほんまやな」
田村も、資料を見直した。
改善前と改善後の作業フロー。
矢印でつながれた処理。
そして、最後に表示されている集計表。
文章では、対応範囲が明確に書かれている。
しかし、図には、どこまでがシステムの処理で、どこからが人の作業なのかが示されていなかった。
「……なるほどな」
田村がつぶやいた。
「文章では範囲を書いとるけどな」
「はい」
松井がうなずいた。
「ただ、お客様は、この図を見て判断されたのかもしれません」
岡元は、少し考えた。
「……すみません。私が作った図です」
田村が首を振った。
「いや、俺も確認しとるからな」
「そうですね」
松井も続けた。
「私も、この資料を使ってご説明しています。確認が足りませんでした」
三人は、少し黙った。
誰か一人の問題ではなかった。
資料を作った人。
内容を確認した人。
顧客へ説明した人。
それぞれが、もう少し注意していれば防げたかもしれない。
田村が口を開いた。
「……まあ、起きてもたもんはしゃあないな」
「そうですね」
「ほな、どうするか考えようか」
*
田村は、二つの案について確認した。
当初の提案どおり、データ出力形式だけを改善する場合。
そして、集計表の自動作成まで対応する場合。
「集計表まで作るんやったら、やっぱり工数は増えるで」
田村が言った。
「そうですよね」
岡元がうなずいた。
「部署ごとに集計条件が違いますし、例外処理も必要になると思います」
「せやな」
松井が尋ねた。
「追加で対応する場合、どの程度の工数が必要になりそうでしょうか?」
田村は、少し考えた。
「今の段階では、まだ正確には出せへんな」
「なるほど」
「集計条件を全部確認せなあかんし、テストも増える」
「そうですね」
「少なくとも、今回の予算の中で無償対応するんは厳しいと思うで」
松井はうなずいた。
「承知しました」
岡元が口を開いた。
「ただ、こちらの資料にも問題があったので……」
「せやな」
田村は、少し考えた。
「そこは、ちゃんと認めなあかんと思う」
松井も答えた。
「私もそう思います」
「でも、説明が悪かったから全部タダで作る、いうのも違うやろ?」
「そうですね」
岡元は、少し考えた。
「……では、改めて二つの案を整理しましょうか」
田村がうなずいた。
「それがええな」
松井は、顧客へ回答するための資料を整理し始めた。
当初の対応範囲。
追加対応が必要な部分。
それぞれの費用。
そして、導入時期への影響。
まずは、事実を明確にする。
そのうえで、会社としてどう対応するかを判断する必要があった。
*
翌日。
松井は、金目へ今回の件を報告した。
「……なるほど」
金目は、資料を確認していた。
「先方は、集計表まで作ってもらえると思っとったんやな」
「はい」
「ほんで、うちの提案資料にも、そう見えるところがあったと」
「そのとおりです」
金目は、少し考えた。
「……今回、うちの説明にも問題あったんやろ?」
「はい。誤解を招く表現がありました」
「ほな、そこはちゃんと認めなあかんな」
松井がうなずいた。
「そうですね」
田村も、会議に参加していた。
「ただ、集計機能まで無償で作るんは厳しいで」
「せやな」
金目は、資料を見直した。
「そこは別の話や」
「うん」
「説明が足らんかったことと、追加の仕事をタダで引き受けることは、同じちゃうからな」
松井が尋ねた。
「では、どのように進めましょうか?」
金目は、少し考えた。
「まず、うちの説明不足については、ちゃんと謝ろう」
「はい」
「そのうえで、当初の提案範囲と、追加で必要な部分を整理する」
「承知しました」
「追加の説明や確認は、うちで負担したらええと思う」
田村がうなずいた。
「それなら、問題ないと思うで」
「ただ、集計機能そのものは別見積もりやな」
「そうですね」
金目は、少し笑った。
「俺な、お客さんとの関係は大事にしたいねん」
「はい」
「でも、一回の商売のために、開発部に無理させるんも違うと思っとる」
田村がうなずいた。
「そこは助かるわ」
「そらそうやろ」
金目は続けた。
「ちゃんと利益出して、社員に給料払わなあかんのやから」
松井は、少し笑った。
「承知しました」
「ほな、二つの案を整理して、先方に選んでもらおうか」
「はい」
金目は、資料を閉じた。
「……まあ、できれば当初の案で進めてもらいたいけどな」
田村が笑った。
「そら、もう一回説明せなあかんしな」
「せやで」
金目も笑った。
「商売って、なかなか思いどおりにいかへんなあ」
*
週が明けた月曜日。
松井は、顧客へ提示する資料の最終確認を進めていた。
今回の認識違いを踏まえ、提案内容を二つに分けている。
一つ目は、当初の提案どおり、データ出力形式を統一する案。
二つ目は、それに加えて、部署別の集計表を自動作成する案。
どちらも、対応範囲と費用、導入までの流れを整理した。
ただし、二つ目の案については、まだ詳細な要件が確定していない。
正確な見積もりを出すには、追加の確認が必要だった。
「……これなら、大丈夫そうですね」
松井は、資料を見直した。
今回、特に注意したのは、改善後の業務フローだった。
以前の資料では、システムが処理する部分と、人が作業する部分の境界が曖昧になっていた。
そこで、今回は明確に分けた。
システムが行う処理。
利用者が行う作業。
そして、今回の開発に含まれない部分。
文章だけでなく、図でも区別できるようにした。
松井は、田村と岡元に確認を依頼した。
『修正版の提案資料を共有します。対応範囲について、最終確認をお願いします』
しばらくして、田村から返事が届いた。
『確認したで。開発範囲はこれで問題ないと思う』
岡元からも返信があった。
『改善前後の作業の違いも、わかりやすくなったと思います』
松井は、二人に礼を伝えた。
そして、顧客との打ち合わせに臨んだ。
*
「先日は、こちらの説明が十分でなく、申し訳ありませんでした」
オンライン会議が始まると、松井は最初に頭を下げた。
画面の向こうには、情報システム部門の担当者と、利用部門の責任者がいる。
「いえ、こちらも確認が足りなかったと思いますので」
担当者が答えた。
「ありがとうございます。今回は、対応範囲を改めて整理してまいりました」
松井は、資料を共有した。
「まず、当初ご提案していた内容からご説明します」
画面には、改善前と改善後の業務フローが表示された。
「現在は、部署ごとに出力されたデータを加工し、形式を揃えてから集計されています」
「はい」
「今回の改善では、システムから出力する時点で形式を統一し、この加工作業を減らすことを目的としています」
松井は、図の一部を指した。
「ただし、最終的な集計表の作成は、引き続きExcelで行っていただく想定です」
利用部門の責任者がうなずいた。
「なるほど。そこは残るんですね」
「はい」
「では、毎月の作業が全部なくなるわけではないと」
「そのとおりです」
松井は、少し間を置いた。
「ただ、先日お見せいただいた作業のうち、形式を揃える部分については、かなり負担を減らせると考えています」
「そうですね。そこが一番面倒なので」
「ありがとうございます」
松井は、次の資料を開いた。
「もう一つ、集計表の自動作成まで対応する方法もあります」
こちらは、新たな集計処理や画面の追加が必要になる。
部署ごとに異なる集計条件も確認しなければならない。
そのため、費用と開発期間は増える見込みだった。
「こちらについては、詳細な要件を確認したうえで、別途お見積もりする形になります」
情報システム部門の担当者が尋ねた。
「今の予算では難しいでしょうか?」
「現時点では、難しいと考えています」
松井は答えた。
「ただ、まず出力形式を改善していただき、その後、必要に応じて集計機能を追加することも可能です」
「なるほど」
「その場合、今回の改善を無駄にしないよう、開発部とも設計方針を確認しています」
利用部門の責任者が、少し考えた。
「……そうですね」
そして、情報システム部門の担当者へ目を向けた。
「正直、集計まで全部自動化できたらありがたいんですけど」
「そうですね」
「でも、まずは毎月の加工作業が減るだけでも、だいぶ助かります」
担当者がうなずいた。
「では、今回は当初の範囲で進めましょうか」
「そうですね。それでお願いします」
松井は、確認した。
「ありがとうございます。では、データ出力形式の改善を対象として、進めさせていただきます」
「お願いします」
「対応範囲を修正した書面をお送りしますので、改めてご確認いただけますでしょうか」
「承知しました」
松井は、最後に確認した。
「なお、今回の発注書についても、対応内容を修正いただく必要があります」
「ああ、そうですね」
「お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
「わかりました」
松井は、次の手続きと予定を確認して会議を終えた。
*
数日後。
顧客から、修正された発注書が届いた。
対応内容は、データ出力形式の統一。
集計表の自動作成は、今回の対象には含まれていない。
松井は、提案資料と照合した。
費用。
対応範囲。
納期。
検収条件。
いずれも、合意した内容と一致していた。
「……よし」
松井は、三宅へ契約手続きの確認を依頼した。
三宅は、必要な書類を確認し、手続きを進めた。
そして、田村と岡元にも連絡が届いた。
『修正後の発注書を受領しました。対応範囲も確認済みです』
田村から返事が届いた。
『おお、よかったな』
岡元も続けた。
『ありがとうございます!』
『開発着手について、改めて日程を調整させてください』
松井が返信すると、田村が答えた。
『了解。西田さんとも確認しとくわ』
こうして、案件は正式に動き始めた。
*
翌週。
岡元は、田村と今回の提案資料を振り返っていた。
「……今回の件、勉強になりました」
岡元が言った。
「そうやな」
「文章では対応範囲を書いていたんですが、図で誤解されるとは思っていませんでした」
田村は、少し笑った。
「まあ、資料って難しいな」
「そうですね」
「作っとる側は、何を伝えたいかわかっとるからな」
「はい」
「でも、見る側はそうとは限らん」
岡元は、資料を開いた。
「次からは、図にも対応範囲を明記するようにします」
「ええと思うで」
「それと、利用者が何をするのかも、ちゃんと書いておいた方がいいですね」
「せやな」
田村は、少し考えた。
「……しかし、俺も見落としとったな」
「そうですね。私もです」
「松井さんもやろ?」
「はい。三人ともですね」
田村が笑った。
「ほな、次から三人でちゃんと確認しようや」
岡元も笑った。
「そうですね」
そこへ、松井から連絡が入った。
『今回の資料について、次の提案でも使えるように整理しておきたいと思っています』
田村が返信した。
『ちょうどその話しとったところやで』
『そうでしたか(笑)』
岡元も続けた。
『改善前後の業務フローと、対応範囲を分けたテンプレートを作ってみます』
『ありがとうございます。営業側でも確認項目を整理します』
三人は、それぞれの役割で改善を進めることにした。
大きな制度を作るわけではない。
今回、困ったところを次に困らないようにする。
ただ、それだけだった。
*
その日の午後。
金目は、営業案件の管理表を確認していた。
データ出力改善案件。
状態は、正式受注。
対応範囲の確認も完了している。
金目は、少し笑った。
「……よかったな」
今回、金目が直接顧客と話すことはなかった。
松井が顧客との認識を整理し、田村と岡元が開発範囲を確認した。
そして、顧客が納得できる形で契約をまとめた。
もちろん、最初からすべてが順調だったわけではない。
提案資料に曖昧な部分があり、顧客との認識にズレが生まれた。
しかし、社員たちはその問題を隠さず、必要な確認を行い、対応を進めた。
金目は、少し考えた。
「……仕事取るんも大事やけど、約束守るんはもっと大事やな」
金目は、案件管理表を閉じた。
株式会社カナメの7月は、少しずつ進んでいた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、お客様との認識違いから始まったお話でした。
無事に受注できたと思ったら、発注書には想定していなかった作業が含まれている。
……なかなか胃の痛くなる展開ですね(笑)。
もっとも、今回のお客様に悪意があったわけではありません。
カナメの提案資料にも、誤解を招く表現がありました。
文章では対応範囲を明記していたのに、図ではその境界が曖昧になっていたんですね。
「ちゃんと書いてあるのに」
そう言いたくなる気持ちも、わからなくはありません。
でも、伝えたつもりになっていることと、相手に正しく伝わっていることは、必ずしも同じではありません。
特に、専門的な内容を説明するときほど、その違いは大きくなるものです。
さて、今回の金目は、説明不足についてはきちんと認める一方で、追加開発を無償で引き受けることはしませんでした。
お客様との信頼関係は大切です。
しかし、そのために何でも引き受けてしまえば、開発する社員たちに負担がかかります。
そして、会社として利益を残せなければ、長くサービスを提供し続けることも難しくなります。
誠実であることと、安請け合いをすることは違う。
このあたりは、金目らしい判断だったのではないでしょうか。
もう一つ、今回描きたかったのは、失敗を誰か一人の責任にしなかったことです。
資料を作った岡元。
内容を確認した田村。
お客様に説明した松井。
それぞれが、自分にも確認できたことがあったと認めています。
そして、次から同じことが起きないよう、資料や確認方法を見直しました。
誰かを責めて終わるより、次に同じ問題が起きない仕組みを作る。
そんな小さな積み重ねが、組織を少しずつ強くしていくのだと思います。
さて、カナメの中途採用も、引き続き進んでいます。
新しい仲間を迎えるまで、もう少し。
その前に、今いる社員たちの仕事にも、まだまだ見せ場がありそうです。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




