期待の値段
2030年4月。
株式会社カナメの本町事業所では、少し珍しい光景が見られた。
普段はフルリモートで働いている社員たちが、日を分けて事業所を訪れている。
目的は、年に一度の年俸査定結果の通知だった。
3月には、各部署のマネージャーが年次評価面談を行っている。
その結果をもとに、会社として来年度の役割と報酬を検討し、4月からの年俸を決定した。
そして、その結果を本人へ伝える。
今回は、金目が直接担当することになっていた。
*
「……しかし、全員と話すんか」
西田が、会議室の予定表を眺めながら言った。
「そうやで」
金目は、資料を確認していた。
「オンラインでもええんちゃう?」
「まあ、できるんやけどな」
「ほな、なんでわざわざ?」
金目は、少し考えた。
「給料の話やで。できれば顔見て話したいやん」
西田は、少し笑った。
「……なるほどな」
「それに、今の規模やったら俺が直接話せるしな」
「まあ、そうやな」
「これからもっと人増えたら、マネージャーに任せることになると思うけど」
金目は、少し笑った。
「今は、俺がちゃんと説明したいねん」
西田はうなずいた。
「了解。ほな、頑張ってな」
「……なんか他人事やな」
「俺は評価面談やったからな」
「……せやったな」
二人は笑った。
*
査定結果の通知は、複数日に分けて行われた。
三宅が、社員それぞれの予定を確認し、来社する時間を調整している。
会議室には、金目と面談を受ける社員だけが入る。
机の上には、本人用の査定結果通知書。
そこには、4月から適用される新しい年俸と、その判断の根拠が記されていた。
金目は、最初の資料を開いた。
社員の仕事を評価する。
そして、報酬を決める。
どちらも、経営者として避けて通れない仕事だった。
*
「失礼します」
上田が、会議室に入ってきた。
「お疲れさん。どうぞ、座って」
「ありがとうございます」
上田は、少し緊張した様子だった。
金目は、資料を確認した。
「ほな、今年の査定結果を伝えますね」
「はい」
「今回、年俸を上げることになりました」
上田は、少し驚いた。
「……ありがとうございます」
金目は、通知書を差し出した。
「去年、中野君の育成とか、手順書の改善とか、いろいろやってくれたやろ?」
「はい」
「そこは、ちゃんと評価しとるで」
「ありがとうございます」
金目は、少し考えた。
「ただな、今回の金額は、去年頑張ってくれたからのご褒美、いうだけちゃうねん」
上田が顔を上げた。
「……といいますと?」
「今の上田君やったら、もうちょっと大きな仕事を任せられると思っとるんよ」
「なるほど」
「これからは、自分で技術的な判断をする場面も増やしてほしい」
「はい」
「もちろん、全部一人で決めろって話ちゃうで。困ったら西田さんや岩田さんに相談したらええ」
「わかりました」
「それと、小川君のことも頼むな」
上田は、少し笑った。
「はい。中野君と一緒に見ています」
「助かるわ」
金目はうなずいた。
「俺な、給与って今のその人への期待値やと思っとるんよ」
「期待値、ですか?」
「せや。今どんな仕事を任せられるか、どれくらいの責任を持ってもらうか。それを考えて決めとる」
上田は、通知書を見直した。
「……なるほど」
「せやから、今回の金額には、これからの上田君への期待も入っとる」
上田は、少し考えてから頭を下げた。
「ありがとうございます。頑張ります」
金目は、少し笑った。
「期待しとるで」
*
その後も、面談は続いた。
岡元には、顧客の業務を理解し、改善提案を形にする力への期待を伝えた。
80万円で受注した画面改善案件についても触れたが、金目は売上だけを評価したわけではなかった。
「岡元さんの強みは、使う人の立場で考えられるところやと思っとるんよ」
「ありがとうございます」
「そこは、これからも伸ばしてほしいな」
「はい」
井上には、安定した保守・運用を支える仕事について話した。
「問題が起きへんようにしとる仕事って、なかなか目立たへんやろ?」
「そうですね」
「でも、そこがちゃんと回っとるから、新しい仕事もできるんよ」
井上は、少し笑った。
「ありがとうございます」
岩田には、技術レビューと若手育成への貢献を伝えた。
「岩田さんがおるから、若手も安心して仕事できとると思うで」
「そう言ってもらえると、ありがたいです」
「これからも、品質のところは頼りにしとるで」
「任せてください」
それぞれ、担当する仕事も、得意なことも違う。
金目は、同じ言葉を繰り返すのではなく、一人ひとりに期待する役割を伝えていった。
*
面談の合間。
金目は、少し休憩していた。
会議室の窓から、本町の街並みが見える。
机の上には、まだ何人分かの資料が残っていた。
「……なかなか大変やな」
金目は、少し笑った。
評価資料を読むことと、本人へ伝えることは違う。
同じ金額でも、受け止め方は人によって異なる。
うれしそうにする人もいれば、静かに話を聞く人もいる。
もちろん、全員が満足するとは限らない。
金目は、次の資料を開いた。
田村洋介。
創業期から会社を支えてきた、古くからの仲間だった。
開発。
顧客対応。
案件の調整。
さまざまな仕事を担当してきた。
金目は、資料を眺めながら、少し考えた。
「……田村さんか」
会議室の扉が、軽くノックされた。
「おーい、金目君。入ってええ?」
「どうぞー」
田村が、いつもの調子で顔を出した。
「お疲れさん」
「お疲れさんです」
金目は、少し笑った。
「ほな、始めましょうか」
田村は、向かいの席に座った。
いつもと変わらない、穏やかな表情だった。
*
「ほな、今年の査定結果を伝えるで」
金目は、田村の前に通知書を置いた。
「おう」
田村は、資料に目を落とした。
4月からの年俸。
その改定額。
そして、今回の判断理由。
しばらく、何も言わずに読んでいた。
「……なるほどな」
田村は、通知書を机に置いた。
「どうや?」
金目が尋ねた。
「まあ、悪くはないと思うで」
「そうか」
「うん」
田村は、少し考えた。
「ただな、金目君」
「ん?」
「ちょっと聞いてもええ?」
「もちろん」
田村は、通知書を指した。
「俺の仕事って、何なんやろな」
金目は、少し首をかしげた。
「……どういうこと?」
「いや、開発もするし、お客さんとも話すし、案件の調整もするやろ?」
「せやな」
「今は松井さんも入ってきたし、営業の仕事は少しずつ引き継いどる」
「そうやね」
「開発の方は、西田さんが全体を見とるやろ?」
「うん」
田村は、少し笑った。
「ほな、俺は何をする人なんやろなって」
金目は、少し考えた。
「……田村さんには、いろんなところで助けてもろとるで」
「それはわかっとる」
「お客さんとの調整もしてくれとるし、開発部の案件も見てくれとる」
「うん」
「ほんま、助かっとる」
田村はうなずいた。
「ありがとうな」
そして、もう一度通知書を見た。
「でもな」
「うん」
「俺の年俸って、何に対する期待値なん?」
金目は、すぐには答えられなかった。
*
会議室の外から、かすかに人の話し声が聞こえた。
田村は、黙って金目の返事を待っている。
金目は、評価資料を見直した。
顧客対応。
案件調整。
開発支援。
部門間の連携。
どれも、田村が実際に担っている仕事だった。
しかし、それらをまとめて、今年度どんな役割を期待しているのか。
その説明は、十分に整理できていなかった。
「……確かに、そこは整理しきれてへんな」
金目は、正直に答えた。
田村は、少し笑った。
「せやろ?」
「うん」
「別に、今の仕事が嫌やいうわけちゃうねん」
「そうやろな」
「お客さんと話すんも、開発の調整するんも、嫌いちゃうし」
「うん」
「ただ、会社が大きくなって、みんなの役割が決まっていくやろ?」
「せやな」
「その中で、俺だけ何となく、いろんなことやっとる気がしてな」
金目はうなずいた。
「……なるほどな」
田村は続けた。
「それが必要な仕事なんは、わかっとるで」
「うん」
「でも、必要やからやっとる仕事と、会社から期待されとる仕事って、同じなんかなと思って」
金目は、少し考えた。
田村の言っていることは、もっともだった。
会社が小さかった頃は、誰もが必要な仕事を拾っていた。
担当が決まっていない仕事も、気づいた人が進めていた。
田村は、そういう仕事を長く担ってきた。
しかし、部署ができ、役割が整理され始めた今、同じやり方を続けることが本人にとってよいとは限らない。
「……田村さん」
「ん?」
「一回、西田さんとも相談して、役割を整理させてもらってええ?」
田村は、少し考えた。
「ええよ」
「今やってもらっとる仕事も含めて、これから何を任せたいんか、ちゃんと考えたいねん」
「うん」
「そのうえで、田村さんがどうしたいかも聞かせてほしい」
田村は、少し笑った。
「……頼むわ」
「了解」
二人は、少し笑った。
*
金目は、もう一度通知書を見た。
「ただ、今回の年俸については、この金額で決めさせてもらいたい」
「うん。そこはわかっとる」
「もちろん、今回の評価で何か見落としがあったら、確認するで」
「いや、評価そのものに文句があるわけちゃうねん」
田村は、少し考えた。
「……まあ、もうちょっと上がったらうれしかったけどな」
金目が笑った。
「そら、そうやろな」
「金目君も、1円でも高く売りたいんやろ?」
「せやで」
「俺も、1円でも高く買ってほしいわ」
金目は、思わず吹き出した。
「……うまいこと言うなあ」
田村も笑った。
「そら、長いこと一緒に仕事しとるからな」
少しだけ、いつもの空気に戻った。
金目は、資料を閉じた。
「俺な、給与って今のその人への期待値やと思っとるんよ」
「うん」
「ほんで、実際に出してくれた成果は、できれば賞与で還元したいと思っとる」
「前に聞いたな」
「せやな」
「でも、今は賞与ないやろ?」
「……そこなんよな」
金目は、少し苦笑した。
「今の制度やと、成果に対して十分に報いきれてへん部分もあると思う」
「なるほどな」
「せやから、賞与制度も検討しとる。ただ、すぐに導入できるかは、まだわからへん」
「まあ、そらそうやろな」
「続けられへん制度作っても、意味ないからな」
田村はうなずいた。
「そこは、ちゃんと考えてくれたらええよ」
「ありがとう」
金目は、少し考えた。
「ただ、田村さんの話は、賞与だけの問題ちゃうな」
「……せやな」
「そこは、俺もちゃんと考えるわ」
田村は、少し笑った。
「頼むで、社長」
「……急に社長呼びせんといて(笑)」
「たまにはええやろ」
二人は笑った。
*
田村が会議室を出たあと。
金目は、しばらく席に座っていた。
机の上には、田村の評価資料が残っている。
大きな不満をぶつけられたわけではなかった。
年俸の金額についても、一定の理解は示してくれた。
しかし、金目には少し引っかかるものがあった。
「……何に対する期待値、か」
自分で言い始めた言葉だった。
給与は期待値。
賞与は結果。
その考え方には、今も変わりがない。
しかし、期待する役割を説明できなければ、期待値という言葉だけでは足りない。
金目は、田村の資料にメモを残した。
『今年度の役割・責任範囲の整理』
『西田と協議』
『本人の希望を確認』
そして、次の面談の準備を始めた。
*
4月の下旬。
予定していた査定結果の通知が、すべて終了した。
金目は、高瀬と本町事業所の会議室で振り返りを行っていた。
「お疲れさまでした」
高瀬が言った。
「いやあ、なかなか大変でしたね」
「そうですね。全員と直接お話しされたので」
「まあ、今の規模やったら、まだできるからな」
金目は、少し笑った。
「でも、来年も同じようにできるかは、わからんな」
「今後の人数によっては、各マネージャーに通知をお願いする形も考えられますね」
「せやな」
高瀬は、面談結果の記録を確認した。
「今回、何か気になったことはありましたか?」
金目は、少し考えた。
「……全員に満足してもらうんは、難しいな」
「そうですね」
「でも、それ自体は仕方ないと思っとるんよ」
「はい」
「会社にも事情があるし、社員にも生活がある。全員の希望どおりにはできへん」
高瀬がうなずいた。
「そのとおりですね」
「ただな」
金目は、少し真面目な顔になった。
「説明できへん査定は、俺も嫌やわ」
「……なるほど」
「何でこの金額なんか。何を評価して、これから何を期待しとるんか」
金目は、資料を指した。
「そこをちゃんと説明できるようにしとかなあかん」
高瀬はうなずいた。
「今回の面談で、改善すべき点も見つかりましたね」
「せやな」
「賞与制度の検討も、引き続き進めます」
「お願いします」
金目は、少し考えた。
「それと、役割の整理も必要やな」
「そうですね。部署ができてから、仕事の分担も変わってきていますので」
「うん」
金目は、田村との会話を思い出した。
ただし、その内容を高瀬に詳しく話すことはしなかった。
まずは、西田と相談して、本人の希望も確認する。
それから、必要な範囲で関係者と共有すればいい。
「……まあ、宿題が増えましたね」
金目が笑うと、高瀬も笑った。
「そうですね」
「でも、やらなあかんことやからな」
「はい」
*
その日の夕方。
金目は、会議室を片づけていた。
机の上に残っていた資料を整理し、パソコンを閉じる。
今回の査定通知では、さまざまな反応があった。
素直に喜んでくれた社員。
静かに話を聞いていた社員。
そして、自分の役割について疑問を投げかけてきた社員。
金目は、少し考えた。
全員が同じ仕事をしているわけではない。
得意なことも、苦手なことも違う。
だからこそ、それぞれに期待する役割も違う。
しかし、その期待を本人に伝えなければ、ただ会社の都合で仕事を任せているだけになってしまう。
「……期待するだけやったら、簡単なんやけどな」
金目は、少し笑った。
金目は、会議室の照明を消した。
廊下へ出ると、窓の向こうには夕暮れの本町の街が広がっていた。
株式会社カナメの春は、まだ始まったばかりだった。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、年に一度の査定結果通知のお話でした。
普段はフルリモートで働くカナメですが、今回は金目が社員一人ひとりと直接顔を合わせ、年俸改定の結果を伝えました。
さて、人事評価というのは、なかなか難しいものです。
昇給を伝えるだけなら、そこまで苦労はしません。
本人も喜んでくれますし、こちらとしても、頑張ってくれたことに報いられるのはうれしいものです。
難しいのは、そうではない場合です。
期待していたほど昇給しなかった人。
あるいは、今回は昇給を見送ることになった人。
そうした結果を伝えるときには、ものすごく神経を使います。
実はこれも、筆者が普段のマネジメントで感じていることだったりします。
本人が努力してきたことも知っています。
成果を出してくれたことも理解しています。
それでも、会社の評価基準や報酬原資、今後期待する役割などを踏まえると、必ずしも希望どおりの金額を提示できるとは限りません。
だからこそ、言葉を選びます。
何を評価したのか。
何が足りなかったのか。
これから何を期待しているのか。
そして、なぜ今回の判断になったのか。
伝え方を間違えれば、これまで積み重ねてきた信頼関係にも影響しかねません。
かといって、相手を傷つけたくないからと曖昧な説明をするのも違うと思っています。
納得してもらえるかどうかは、また別の話。
それでも、少なくとも判断の理由は、誠実に説明したいものです。
今回の田村も、決して会社に反発しているわけではありません。
ただ、自分が何を期待され、何を評価されているのか。
そこに、少し疑問を持ち始めました。
金目も、その問いにすぐには答えられませんでした。
評価制度があるからといって、すべての答えが用意されているわけではないんですね。
そして、以前の後書きでも触れた、
「給与は期待値、賞与は結果」
という考え方。
これを実際の制度として成立させることも、まだまだ簡単ではなさそうです。
さて、カナメは新しい春を迎えました。
社員が増え、仕事を任せられる人も増えてきました。
しかし、組織が大きくなるということは、それだけ新しい悩みも増えるということなのかもしれません。
……社長という仕事も、なかなか楽にはなりませんね(笑)。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




