社長の営業
2030年1月。
株式会社カナメに、新しい営業担当が入社した。
松井慎吾。
38歳。
中堅の業務システム会社で、約12年間、法人営業を担当してきた人物だった。
主な仕事は、中小企業の既存顧客への追加提案や契約更新。
新しい顧客を次々と開拓するよりも、一度取引を始めた顧客との関係を大切にし、長く仕事を続けていくことを得意としていた。
*
入社初日。
大阪・本町にある株式会社カナメの事業所には、金目と三宅、高瀬が集まっていた。
「松井さん、本日からよろしくお願いします」
金目が挨拶した。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
松井は、穏やかな表情で頭を下げた。
「まだ御社の仕事についてはわからないことも多いと思いますが、早くお役に立てるようにしたいと思っています」
「ありがとうございます」
金目は、少し笑った。
「うちは、まだ営業部というものがないんですよ」
「そう伺っています」
「今までは、基本的に俺が営業してたんです」
「社長ご自身がですか?」
「そうです。まあ、営業担当がおらんかったんで」
松井は、少し笑った。
「では、これからは私の仕事ですね」
「そうなってもらわな困ります(笑)」
四人は、少し笑った。
高瀬が口を開いた。
「当面は、社長直属の営業担当という形になります」
「承知しています」
「契約や請求については業務部で対応しますので、必要なところは連携して進めていきましょう」
「よろしくお願いします」
三宅も続けた。
「既存顧客の契約情報や、これまでの取引履歴は整理してあります」
「ありがとうございます。後ほど確認させてください」
金目は、松井に尋ねた。
「そういえば、前の会社では管理職のお話もあったんですよね?」
「はい。ありがたいことに、打診はいただきました」
「でも、断られたんですか?」
「そうですね」
松井は、少し考えた。
「私は、顧客を担当する仕事が好きなんです」
「なるほど」
「もちろん、管理職も大切な仕事だと思っています。ただ、自分としては、もう少し現場でお客様と向き合っていたいと思いまして」
金目はうなずいた。
「ええと思いますよ」
「ありがとうございます」
「うちも、無理に管理職になってもらうつもりはありませんから」
松井は、少し安心したように笑った。
「それは、ありがたいです」
金目は続けた。
「ただ、ちゃんと売ってくださいね」
「もちろんです」
松井は、落ち着いた声で答えた。
「そこは、私の仕事ですから」
*
その日の午後。
金目は、松井にこれまでの営業資料を説明していた。
2029年10月。
岡元が提案した画面改善案件を、80万円で受注したときの資料だった。
顧客の課題。
改善内容。
期待できる効果。
見積もり。
そして、価格交渉の経緯。
松井は、資料を確認しながらメモを取っていた。
「……なるほど。よく整理されていますね」
「ありがとうございます」
「特に、値引きの相談に対して、改修範囲を分けて提案されたところは参考になります」
「そうですか?」
「はい。同じ内容を安くするのではなく、価格に応じた選択肢を示す。理にかなっていると思います」
金目は、少し笑った。
「まあ、1円でも高く売りたいですからね」
松井も笑った。
「それは、営業としても大切だと思います」
「そうでしょう?」
「ただ、少し確認してもよろしいですか?」
「はい」
「この案件は、最初の提案から受注まで、どのくらいの期間がかかったんでしょう?」
金目は、少し考えた。
「……そうですね。最初の改善提案は8月でしたから、2か月くらいですかね」
「なるほど」
「正式な見積もりを出したのは10月です」
「ありがとうございます」
松井は、資料の次のページを開いた。
「先方の決裁者は、最初から商談に参加されていたんですか?」
「いや、最初は担当者の方だけでしたね」
「なるほど」
「正式な見積もりのときに、上司の方にも参加していただきました」
松井はうなずいた。
「その方が、最終的な決裁者だったんでしょうか?」
金目は、少し考えた。
「……そこまでは確認してへんな」
「そうでしたか」
松井は、特に驚いた様子も見せなかった。
「では、今後は決裁の流れも確認できるようにしておきたいですね」
「そうですね」
金目は、少し笑った。
「……こういうところ、抜けてるんですよね」
「いえ。今回の案件は、結果として受注できていますから」
「まあ、そうなんですけど」
「ただ、同じやり方で案件を増やしていくなら、確認する項目は揃えておいた方がいいと思います」
「なるほど」
金目はうなずいた。
これまでは、自分の経験や感覚で商談を進めてきた。
顧客の困りごとを聞き、改善できそうなところを見つける。
そして、必要な人に相談して提案をまとめる。
それで仕事は取れていた。
しかし、営業担当を増やしていくなら、案件ごとの進み具合を誰でも確認できるようにする必要がある。
「……松井さん、そういうの得意そうですね」
「そうですね。どちらかといえば、そういう仕事の方が得意です」
松井は、少し笑った。
「逆に、何も決まっていないところから新しい提案を考えるのは、あまり得意ではありません」
「そうなんですか?」
「はい。どうしても、予算や導入時期が見えてから考えたくなるんです」
金目は、少し考えた。
「……なるほど。俺とは逆かもしれませんね」
「そうかもしれません」
「俺は、困っとること聞いたら、とりあえず何かできへんかなって考えてしまうんで」
松井は笑った。
「その後の条件整理は、私に任せていただければと思います」
「……それ、ええですね」
二人は、少し笑った。
*
入社から一週間ほど経った頃。
松井は、金目と一緒に既存顧客とのオンライン商談へ参加していた。
相手は、以前からカナメのシステムを利用している企業だった。
今回は、保守契約の更新について確認する予定だった。
「本日はよろしくお願いします」
金目が挨拶した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「今日は、うちの新しい営業担当も同席させていただいています」
金目は、松井を紹介した。
「松井と申します。今後、営業窓口としてお世話になることもあると思いますので、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
商談は、穏やかに始まった。
保守契約の更新条件。
現在の運用状況。
問い合わせ対応。
特に大きな問題はなかった。
松井は、契約更新の時期や必要な手続きを確認していた。
金目は、顧客の話を聞きながら、ふと尋ねた。
「そういえば、最近、業務の方はどうですか?」
顧客担当者が、少し考えた。
「そうですね。特に大きな問題はないんですけど」
「はい」
「最近、別の部署からもシステムを使いたいという話が出ていまして」
「へえ、そうなんですね」
「ただ、今の仕組みだと、部署ごとに管理を分けるのが少し面倒で」
金目は、少し身を乗り出した。
「それ、もうちょっと詳しく聞かせてもらってもええですか?」
「はい」
顧客担当者は、現在の運用について説明し始めた。
部署ごとに異なる管理方法。
権限の設定。
データの共有。
そして、管理担当者の負担。
金目は、話を聞きながら質問を重ねた。
「なるほど。ほな、部署ごとに権限を分けられたら、もうちょっと楽になるかもしれませんね」
「そうですね。それができれば助かります」
「一回、うちで考えてみましょうか」
「お願いできますか?」
「もちろんです」
松井は、そのやり取りを静かに聞いていた。
保守契約の更新確認だったはずの商談が、いつの間にか追加開発の相談になっている。
しかも、顧客は自然な流れで相談を始めていた。
松井は、少し感心していた。
金目の営業は、資料を使って何かを売り込むというより、顧客の話から仕事の種を見つけるものだった。
*
商談が終わった。
金目と松井は、オンライン会議に残っていた。
「……いやあ、ええ話聞けましたね」
金目が言った。
「そうですね」
「追加開発につながるかもしれません」
「はい。ただ、一つ確認してもよろしいですか?」
「何でしょう?」
「先方は、いつまでに判断される予定なんでしょうか?」
金目は、少し考えた。
「……あ」
松井が、少し笑った。
「確認されていませんでした?」
「……聞いてへんわ」
「そうでしたか」
「いやあ、またやってもうたな」
金目は、苦笑した。
松井は、手元のメモを確認した。
「では、私から確認しておきますね」
「お願いします」
「それと、今回の追加開発について、予算の確保状況と、決裁される方も確認しておきたいと思います」
「なるほど」
「技術的な検討を進めても、先方の導入時期や予算が合わなければ、すぐには案件になりませんので」
「確かに」
金目は、少し笑った。
「……松井さん、頼もしいですね」
「ありがとうございます」
「俺、そういうの結構抜けるんですよ」
「社長は、お客様から新しい相談を引き出すのがお上手ですね」
「そうですか?」
「はい。私は、ああいう曖昧なお話から、すぐに改善案を考えるのは得意ではありません」
金目は、少し考えた。
「……ほな、ちょうどええかもしれませんね」
「そうですね」
「俺が話を広げて、松井さんがちゃんと仕事にしてくれる」
松井は、少し笑った。
「受注できるかどうかは、これからですけどね」
「……そこは慎重やなあ」
「安請け合いはできませんから」
金目は笑った。
「それも大事ですね」
*
その日の午後。
松井は、顧客との商談内容を整理していた。
保守契約の更新。
追加開発の相談。
顧客の課題。
確認が必要な事項。
そして、次回の連絡予定。
松井は、案件管理表に情報を入力した。
『顧客課題:部署ごとの権限管理』
『提案候補:既存システムの権限制御拡張』
『予算:未確認』
『決裁者:未確認』
『導入希望時期:未確認』
『次回アクション:顧客へ確認』
未確認の項目は、未確認のまま記録した。
推測で埋めることはしない。
松井は、顧客へ確認の連絡を送った。
そして、次の商談予定を確認した。
営業の仕事は、商談で終わるわけではない。
話した内容を整理し、約束したことを実行し、次の判断へつなげる。
その積み重ねが、顧客との関係を作っていく。
松井にとっては、特別なことではなかった。
これまで十二年間、続けてきた仕事だった。
*
数日後。
松井のもとに、先日問い合わせた顧客から返事が届いた。
部署ごとの権限管理について、追加開発を検討したいという相談。
その導入時期と予算について確認していたものだった。
松井は、メールを読み進めた。
導入希望時期は、2030年4月。
予算は、まだ正式には確保されていない。
ただし、次年度の予算申請に向けて、概算費用を把握したいという。
決裁者は、情報システム部門の責任者。
実際にシステムを利用する部署の責任者にも、確認が必要だった。
「……なるほど」
松井は、内容を案件管理表に記録した。
そして、金目へ共有する。
『先日の追加開発の件、先方から回答がありました』
『4月導入希望で、現在は予算申請前とのことです』
『概算見積もりが必要な段階なので、まず要件を整理したいと思います』
しばらくして、金目から返事が届いた。
『ありがとうございます!』
『ほな、開発部に相談しましょうか』
松井は、少し考えてから返信した。
『その前に、利用部門の責任者にも確認したいと思っています』
『なるほど』
『現時点では、何をどこまで変更する必要があるのか、まだ明確ではありませんので』
『確かにそうですね』
『一度、私の方でヒアリングを設定します』
『お願いします!』
松井は、日程調整を始めた。
商談の中で生まれた相談を、そのまま開発部へ渡すことはしない。
顧客が何を求めているのか。
誰が使うのか。
いつまでに必要なのか。
そして、誰が判断するのか。
それらを確認してから、社内へ相談する。
松井にとっては、いつもの仕事の進め方だった。
*
翌週。
松井は、顧客とのオンライン打ち合わせに参加していた。
今回は、金目の姿はない。
画面の向こうには、情報システム部門の担当者と、利用部門の責任者がいる。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
松井が挨拶した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「先日ご相談いただいた権限管理について、まずは現在の運用を確認させてください」
松井は、事前に用意した資料を共有した。
現在の管理方法。
新たに利用を希望している部署。
想定される利用人数。
そして、権限を分ける必要がある業務。
「今回、別の部署でもシステムを利用されたいとのことですが、現在の部署と同じ機能を使われる予定でしょうか?」
利用部門の責任者が答えた。
「いえ。すべての機能が必要というわけではありません」
「なるほど」
「情報の閲覧はしたいんですが、編集できる人は限られています」
「承知しました」
松井は、資料に記録した。
「では、閲覧できる範囲と、編集できる範囲を分ける必要がありそうですね」
「そうですね」
「ちなみに、部署ごとに閲覧できる情報も異なりますか?」
「はい。一部は共通ですが、部署内だけで管理したい情報もあります」
「ありがとうございます」
松井は、少し考えた。
単純に利用者を追加するだけでは済まないかもしれない。
閲覧権限。
編集権限。
部署間で共有する情報。
部署ごとに管理する情報。
技術的な実現方法は、開発部へ確認する必要がある。
しかし、少なくとも顧客が何を実現したいのかは、少しずつ明確になってきた。
「今回の内容を整理して、技術的に対応できる範囲を確認したいと思います」
「お願いします」
「そのうえで、概算費用とスケジュールをご提示します」
情報システム部門の担当者がうなずいた。
「助かります」
松井は、最後に確認した。
「一点だけ、導入希望時期について確認させてください」
「はい」
「4月から利用を開始したいとのことですが、事前の確認や操作説明の期間も必要になると思います」
「そうですね」
「そのため、4月のどの時点から利用したいのか、改めて確認させていただけますか?」
利用部門の責任者は、少し考えた。
「できれば、4月の中旬頃からですね」
「承知しました」
「ただ、年度初めは忙しいので、事前の確認は3月中にできるとありがたいです」
「なるほど」
松井はうなずいた。
「では、その条件も含めて開発部へ相談します」
打ち合わせは、予定していた時間内に終了した。
*
その日の午後。
松井は、開発部の田村へ連絡した。
「田村さん、少しご相談してもよろしいでしょうか?」
「はい、どうしました?」
「既存顧客から、権限管理の追加開発についてご相談をいただいています」
「ああ、金目君が話しとった件やな」
「はい」
松井は、整理した資料を共有した。
顧客の課題。
利用部門。
権限の要件。
希望する導入時期。
予算申請の状況。
決裁者。
そして、未確認事項。
田村は、資料を確認した。
「……おお、結構整理されとるな」
「ありがとうございます」
「これなら、開発側でも検討しやすいわ」
「そう言っていただけると助かります」
田村は、資料を読み進めた。
「ただ、権限のところは、ちょっと技術的な確認が必要やな」
「そうですね」
「西田さんにも相談してみるわ」
「お願いします」
松井は、少し考えた。
「それと、現時点ではまだ正式な予算がありません」
「そうなんや」
「はい。ですので、まずは概算見積もりを提示する段階だと考えています」
「了解」
「詳細な設計に入る前に、先方の予算感を確認したいと思っています」
田村はうなずいた。
「それは助かるな。見積もりのために、あんまり工数かけすぎるわけにもいかんし」
「そうですね」
松井は、少し笑った。
「受注できるかどうかわからない段階ですので、そこは慎重に進めたいと思っています」
「ええと思うで」
田村は、もう一度資料を見た。
必要な情報が、きちんと揃っている。
もちろん、まだ確認することはある。
しかし、どこまでわかっていて、何がわかっていないのかが明確だった。
これなら、開発部も判断しやすい。
「……松井さん、こういうの得意なんやな」
田村が言うと、松井は少し笑った。
「そうですね。長くやってきた仕事ですので」
「頼もしいわ」
「ありがとうございます」
*
数日後。
金目は、営業案件の管理表を確認していた。
そこには、松井が担当する案件の情報が追加されている。
顧客名。
相談内容。
予算。
決裁者。
導入時期。
現在の状況。
そして、次のアクション。
金目は、少し感心した。
「……めっちゃわかりやすいな」
以前も案件管理表は存在していた。
しかし、今は商談の進み具合だけでなく、受注に必要な条件が揃っているかどうかまで確認できる。
金目は、松井に連絡した。
『案件管理表、確認しました』
『ありがとうございます』
『めちゃくちゃわかりやすいですね』
『そう言っていただけるとありがたいです』
『ちなみに、次の商談も松井さんが担当されます?』
『はい。そのつもりです』
『了解です。よろしくお願いします』
松井から、少し間を置いて返事が届いた。
『社長、一つお願いしてもよろしいでしょうか』
『はい。何でしょう?』
『今後、既存顧客からの保守更新や追加開発のご相談について、私を窓口にしていただけないでしょうか』
金目は、少し考えた。
これまでは、顧客からの相談が直接自分に届くことも多かった。
しかし、松井が窓口を担当するのであれば、商談の状況を一元的に管理できる。
金目は、返信した。
『ええですよ。お願いします』
『ありがとうございます』
『ただ、重要な案件や大きな金額の判断は、相談してくださいね』
『もちろんです』
『あと、開発部への相談も、田村さんたちと連携して進めてください』
『承知しました』
金目は、少し笑った。
営業担当を採用した。
それは、単に自分の仕事を減らすためではない。
顧客との関係を、会社として維持していくためでもあった。
*
1月の下旬。
金目と松井は、オンラインで短い打ち合わせをしていた。
「松井さん、最近どうですか?」
金目が尋ねた。
「そうですね。少しずつ、既存のお客様との関係も作れてきたと思います」
「それはよかったです」
「ただ、まだ御社のサービスについて理解しきれていないところもありますので」
「そこは、ぼちぼちでええですよ」
金目は、少し笑った。
「最初から全部わかるわけないですから」
「ありがとうございます」
松井は、少し考えてから続けた。
「社長、少しお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「はい」
「今後、新しいお客様への営業も担当することになると思うのですが」
「そうですね」
「どのような案件を優先していきたいとお考えですか?」
金目は、少し考えた。
「……そうですね」
今までの営業は、顧客からの相談を受けて、できることを考える形が多かった。
しかし、営業担当が加わったことで、会社としてどんな仕事を取りにいくのかを明確にする必要がある。
「まずは、うちがちゃんと価値を出せる仕事ですね」
「なるほど」
「それと、無理な納期や採算の合わない仕事は、無理して取らんでええです」
「承知しました」
「もちろん、売上は欲しいですけどね」
松井は、少し笑った。
「そこは、よく理解しています」
「ほんまですか?」
「はい。営業としても、売上は大切ですから」
「そうですよね」
金目は、少し考えた。
「ただ、俺は曖昧な相談から仕事を考えるのが好きなんですよ」
「そうですね。先日の商談でも感じました」
「でも、松井さんは、そういうの苦手って言うてましたよね」
「はい。正直、あまり得意ではありません」
「ほな、そこは俺がやりましょうか」
松井は、少し驚いた。
「よろしいんですか?」
「ええですよ。全部任せる必要はないですから」
金目は、少し笑った。
「俺が得意なことまで、無理に手放す必要ないでしょう?」
「なるほど」
「松井さんには、既存のお客さんとの関係をしっかり守ってもらいたいんです」
松井はうなずいた。
「承知しました」
「そのうえで、営業の仕事を少しずつ広げていきましょう」
「ありがとうございます」
金目は、少し考えた。
自分の得意なこと。
松井の得意なこと。
それぞれ違う。
しかし、違うからこそ、一緒に仕事をする意味がある。
*
1月末。
金目は、営業案件の一覧を確認していた。
そこには、自分が直接参加していない商談が、いくつも記録されている。
保守契約の更新。
既存顧客からの追加開発相談。
次回提案の予定。
そして、顧客からの回答待ち。
まだ、松井が担当する案件で正式な受注が決まったものはない。
しかし、仕事は進んでいた。
金目が同席しなくても、顧客との打ち合わせが行われている。
必要な情報が整理され、次のアクションが決まっている。
金目は、少し笑った。
「……ええ感じやな」
そこへ、高瀬から連絡が届いた。
『営業の引き継ぎ、順調そうですね』
『そうですね。松井さん、かなりしっかりしてます』
『それはよかったです』
『俺が聞き忘れるようなことも、ちゃんと確認してくれるんですよ』
『それは心強いですね』
金目は、少し考えてから返信した。
『ただ、自分でやった方が早いと思うことも、まだありますね』
『そうでしょうね』
『でも、それやったら人を採った意味ないですから』
『そのとおりだと思います』
金目は、案件管理表をもう一度見た。
自分とは違うやり方で、顧客との関係が作られ始めている。
しかも、それは金目が不得意としていた部分を補っていた。
金目は、少し笑った。
「……これで、もうちょっと商売増やせるかな」
そして、次の資料を開いた。
まだ、やるべきことはたくさんある。
しかし、これまで自分一人で担っていた営業の仕事が、少しずつ会社の仕事へ変わり始めていた。
株式会社カナメの2030年が、静かに動き始めていた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
いよいよ第三章が始まりました。
今回は、新しく営業担当として入社した松井慎吾のお話です。
これまで金目が一人で担ってきた営業の仕事に、ようやく専門家が加わりました。
金目は、お客様との何気ない会話から困りごとを見つけ、新しい仕事につなげることが得意です。
一方、松井は予算や決裁者、導入時期などを確認し、商談を着実に前へ進めることを得意としています。
どちらが優秀というわけではなく、得意なことが違うんですね。
そして今回、金目は見事に確認を忘れていました。
「先方は、いつまでに判断される予定なんでしょうか?」
「……聞いてへんわ」
……社長、そこは聞いておきましょうよ(笑)。
もっとも、こうした小さな抜けがあるからこそ、松井の存在が生きてきます。
会社が大きくなるということは、何でもできる人を集めることではないのだと思います。
それぞれの得意なことを持ち寄り、苦手なところを補い合う。
その結果、一人ではできなかった仕事ができるようになる。
今回の金目も、営業をすべて手放したわけではありません。
自分が得意な仕事は続けながら、松井が得意な仕事を任せる。
それも、一つの権限委譲の形なのでしょう。
さて、松井が加わったことで、カナメの営業は少しずつ変わり始めました。
とはいえ、まだ本人が担当した案件の受注は決まっていません。
これからどんな仕事を積み重ねていくのか、楽しみにしていただければと思います。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




