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カナメ -君はどう考える?-  作者: 旭月
第三章 任せた先にあるもの
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47/130

社長の営業

 2030年1月。


 株式会社カナメに、新しい営業担当が入社した。


 松井慎吾。


 38歳。


 中堅の業務システム会社で、約12年間、法人営業を担当してきた人物だった。


 主な仕事は、中小企業の既存顧客への追加提案や契約更新。


 新しい顧客を次々と開拓するよりも、一度取引を始めた顧客との関係を大切にし、長く仕事を続けていくことを得意としていた。


     *


 入社初日。


 大阪・本町にある株式会社カナメの事業所には、金目と三宅、高瀬が集まっていた。


「松井さん、本日からよろしくお願いします」


 金目が挨拶した。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 松井は、穏やかな表情で頭を下げた。


「まだ御社の仕事についてはわからないことも多いと思いますが、早くお役に立てるようにしたいと思っています」


「ありがとうございます」


 金目は、少し笑った。


「うちは、まだ営業部というものがないんですよ」


「そう伺っています」


「今までは、基本的に俺が営業してたんです」


「社長ご自身がですか?」


「そうです。まあ、営業担当がおらんかったんで」


 松井は、少し笑った。


「では、これからは私の仕事ですね」


「そうなってもらわな困ります(笑)」


 四人は、少し笑った。


 高瀬が口を開いた。


「当面は、社長直属の営業担当という形になります」


「承知しています」


「契約や請求については業務部で対応しますので、必要なところは連携して進めていきましょう」


「よろしくお願いします」


 三宅も続けた。


「既存顧客の契約情報や、これまでの取引履歴は整理してあります」


「ありがとうございます。後ほど確認させてください」


 金目は、松井に尋ねた。


「そういえば、前の会社では管理職のお話もあったんですよね?」


「はい。ありがたいことに、打診はいただきました」


「でも、断られたんですか?」


「そうですね」


 松井は、少し考えた。


「私は、顧客を担当する仕事が好きなんです」


「なるほど」


「もちろん、管理職も大切な仕事だと思っています。ただ、自分としては、もう少し現場でお客様と向き合っていたいと思いまして」


 金目はうなずいた。


「ええと思いますよ」


「ありがとうございます」


「うちも、無理に管理職になってもらうつもりはありませんから」


 松井は、少し安心したように笑った。


「それは、ありがたいです」


 金目は続けた。


「ただ、ちゃんと売ってくださいね」


「もちろんです」


 松井は、落ち着いた声で答えた。


「そこは、私の仕事ですから」


     *


 その日の午後。


 金目は、松井にこれまでの営業資料を説明していた。


 2029年10月。


 岡元が提案した画面改善案件を、80万円で受注したときの資料だった。


 顧客の課題。


 改善内容。


 期待できる効果。


 見積もり。


 そして、価格交渉の経緯。


 松井は、資料を確認しながらメモを取っていた。


「……なるほど。よく整理されていますね」


「ありがとうございます」


「特に、値引きの相談に対して、改修範囲を分けて提案されたところは参考になります」


「そうですか?」


「はい。同じ内容を安くするのではなく、価格に応じた選択肢を示す。理にかなっていると思います」


 金目は、少し笑った。


「まあ、1円でも高く売りたいですからね」


 松井も笑った。


「それは、営業としても大切だと思います」


「そうでしょう?」


「ただ、少し確認してもよろしいですか?」


「はい」


「この案件は、最初の提案から受注まで、どのくらいの期間がかかったんでしょう?」


 金目は、少し考えた。


「……そうですね。最初の改善提案は8月でしたから、2か月くらいですかね」


「なるほど」


「正式な見積もりを出したのは10月です」


「ありがとうございます」


 松井は、資料の次のページを開いた。


「先方の決裁者は、最初から商談に参加されていたんですか?」


「いや、最初は担当者の方だけでしたね」


「なるほど」


「正式な見積もりのときに、上司の方にも参加していただきました」


 松井はうなずいた。


「その方が、最終的な決裁者だったんでしょうか?」


 金目は、少し考えた。


「……そこまでは確認してへんな」


「そうでしたか」


 松井は、特に驚いた様子も見せなかった。


「では、今後は決裁の流れも確認できるようにしておきたいですね」


「そうですね」


 金目は、少し笑った。


「……こういうところ、抜けてるんですよね」


「いえ。今回の案件は、結果として受注できていますから」


「まあ、そうなんですけど」


「ただ、同じやり方で案件を増やしていくなら、確認する項目は揃えておいた方がいいと思います」


「なるほど」


 金目はうなずいた。


 これまでは、自分の経験や感覚で商談を進めてきた。


 顧客の困りごとを聞き、改善できそうなところを見つける。


 そして、必要な人に相談して提案をまとめる。


 それで仕事は取れていた。


 しかし、営業担当を増やしていくなら、案件ごとの進み具合を誰でも確認できるようにする必要がある。


「……松井さん、そういうの得意そうですね」


「そうですね。どちらかといえば、そういう仕事の方が得意です」


 松井は、少し笑った。


「逆に、何も決まっていないところから新しい提案を考えるのは、あまり得意ではありません」


「そうなんですか?」


「はい。どうしても、予算や導入時期が見えてから考えたくなるんです」


 金目は、少し考えた。


「……なるほど。俺とは逆かもしれませんね」


「そうかもしれません」


「俺は、困っとること聞いたら、とりあえず何かできへんかなって考えてしまうんで」


 松井は笑った。


「その後の条件整理は、私に任せていただければと思います」


「……それ、ええですね」


 二人は、少し笑った。


     *


 入社から一週間ほど経った頃。


 松井は、金目と一緒に既存顧客とのオンライン商談へ参加していた。


 相手は、以前からカナメのシステムを利用している企業だった。


 今回は、保守契約の更新について確認する予定だった。


「本日はよろしくお願いします」


 金目が挨拶した。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


「今日は、うちの新しい営業担当も同席させていただいています」


 金目は、松井を紹介した。


「松井と申します。今後、営業窓口としてお世話になることもあると思いますので、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 商談は、穏やかに始まった。


 保守契約の更新条件。


 現在の運用状況。


 問い合わせ対応。


 特に大きな問題はなかった。


 松井は、契約更新の時期や必要な手続きを確認していた。


 金目は、顧客の話を聞きながら、ふと尋ねた。


「そういえば、最近、業務の方はどうですか?」


 顧客担当者が、少し考えた。


「そうですね。特に大きな問題はないんですけど」


「はい」


「最近、別の部署からもシステムを使いたいという話が出ていまして」


「へえ、そうなんですね」


「ただ、今の仕組みだと、部署ごとに管理を分けるのが少し面倒で」


 金目は、少し身を乗り出した。


「それ、もうちょっと詳しく聞かせてもらってもええですか?」


「はい」


 顧客担当者は、現在の運用について説明し始めた。


 部署ごとに異なる管理方法。


 権限の設定。


 データの共有。


 そして、管理担当者の負担。


 金目は、話を聞きながら質問を重ねた。


「なるほど。ほな、部署ごとに権限を分けられたら、もうちょっと楽になるかもしれませんね」


「そうですね。それができれば助かります」


「一回、うちで考えてみましょうか」


「お願いできますか?」


「もちろんです」


 松井は、そのやり取りを静かに聞いていた。


 保守契約の更新確認だったはずの商談が、いつの間にか追加開発の相談になっている。


 しかも、顧客は自然な流れで相談を始めていた。


 松井は、少し感心していた。


 金目の営業は、資料を使って何かを売り込むというより、顧客の話から仕事の種を見つけるものだった。


     *


 商談が終わった。


 金目と松井は、オンライン会議に残っていた。


「……いやあ、ええ話聞けましたね」


 金目が言った。


「そうですね」


「追加開発につながるかもしれません」


「はい。ただ、一つ確認してもよろしいですか?」


「何でしょう?」


「先方は、いつまでに判断される予定なんでしょうか?」


 金目は、少し考えた。


「……あ」


 松井が、少し笑った。


「確認されていませんでした?」


「……聞いてへんわ」


「そうでしたか」


「いやあ、またやってもうたな」


 金目は、苦笑した。


 松井は、手元のメモを確認した。


「では、私から確認しておきますね」


「お願いします」


「それと、今回の追加開発について、予算の確保状況と、決裁される方も確認しておきたいと思います」


「なるほど」


「技術的な検討を進めても、先方の導入時期や予算が合わなければ、すぐには案件になりませんので」


「確かに」


 金目は、少し笑った。


「……松井さん、頼もしいですね」


「ありがとうございます」


「俺、そういうの結構抜けるんですよ」


「社長は、お客様から新しい相談を引き出すのがお上手ですね」


「そうですか?」


「はい。私は、ああいう曖昧なお話から、すぐに改善案を考えるのは得意ではありません」


 金目は、少し考えた。


「……ほな、ちょうどええかもしれませんね」


「そうですね」


「俺が話を広げて、松井さんがちゃんと仕事にしてくれる」


 松井は、少し笑った。


「受注できるかどうかは、これからですけどね」


「……そこは慎重やなあ」


「安請け合いはできませんから」


 金目は笑った。


「それも大事ですね」


     *


 その日の午後。


 松井は、顧客との商談内容を整理していた。


 保守契約の更新。


 追加開発の相談。


 顧客の課題。


 確認が必要な事項。


 そして、次回の連絡予定。


 松井は、案件管理表に情報を入力した。


『顧客課題:部署ごとの権限管理』


『提案候補:既存システムの権限制御拡張』


『予算:未確認』


『決裁者:未確認』


『導入希望時期:未確認』


『次回アクション:顧客へ確認』


 未確認の項目は、未確認のまま記録した。


 推測で埋めることはしない。


 松井は、顧客へ確認の連絡を送った。


 そして、次の商談予定を確認した。


 営業の仕事は、商談で終わるわけではない。


 話した内容を整理し、約束したことを実行し、次の判断へつなげる。


 その積み重ねが、顧客との関係を作っていく。


 松井にとっては、特別なことではなかった。


 これまで十二年間、続けてきた仕事だった。


     *


 数日後。


 松井のもとに、先日問い合わせた顧客から返事が届いた。


 部署ごとの権限管理について、追加開発を検討したいという相談。


 その導入時期と予算について確認していたものだった。


 松井は、メールを読み進めた。


 導入希望時期は、2030年4月。


 予算は、まだ正式には確保されていない。


 ただし、次年度の予算申請に向けて、概算費用を把握したいという。


 決裁者は、情報システム部門の責任者。


 実際にシステムを利用する部署の責任者にも、確認が必要だった。


「……なるほど」


 松井は、内容を案件管理表に記録した。


 そして、金目へ共有する。


『先日の追加開発の件、先方から回答がありました』


『4月導入希望で、現在は予算申請前とのことです』


『概算見積もりが必要な段階なので、まず要件を整理したいと思います』


 しばらくして、金目から返事が届いた。


『ありがとうございます!』


『ほな、開発部に相談しましょうか』


 松井は、少し考えてから返信した。


『その前に、利用部門の責任者にも確認したいと思っています』


『なるほど』


『現時点では、何をどこまで変更する必要があるのか、まだ明確ではありませんので』


『確かにそうですね』


『一度、私の方でヒアリングを設定します』


『お願いします!』


 松井は、日程調整を始めた。


 商談の中で生まれた相談を、そのまま開発部へ渡すことはしない。


 顧客が何を求めているのか。


 誰が使うのか。


 いつまでに必要なのか。


 そして、誰が判断するのか。


 それらを確認してから、社内へ相談する。


 松井にとっては、いつもの仕事の進め方だった。


     *


 翌週。


 松井は、顧客とのオンライン打ち合わせに参加していた。


 今回は、金目の姿はない。


 画面の向こうには、情報システム部門の担当者と、利用部門の責任者がいる。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


 松井が挨拶した。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


「先日ご相談いただいた権限管理について、まずは現在の運用を確認させてください」


 松井は、事前に用意した資料を共有した。


 現在の管理方法。


 新たに利用を希望している部署。


 想定される利用人数。


 そして、権限を分ける必要がある業務。


「今回、別の部署でもシステムを利用されたいとのことですが、現在の部署と同じ機能を使われる予定でしょうか?」


 利用部門の責任者が答えた。


「いえ。すべての機能が必要というわけではありません」


「なるほど」


「情報の閲覧はしたいんですが、編集できる人は限られています」


「承知しました」


 松井は、資料に記録した。


「では、閲覧できる範囲と、編集できる範囲を分ける必要がありそうですね」


「そうですね」


「ちなみに、部署ごとに閲覧できる情報も異なりますか?」


「はい。一部は共通ですが、部署内だけで管理したい情報もあります」


「ありがとうございます」


 松井は、少し考えた。


 単純に利用者を追加するだけでは済まないかもしれない。


 閲覧権限。


 編集権限。


 部署間で共有する情報。


 部署ごとに管理する情報。


 技術的な実現方法は、開発部へ確認する必要がある。


 しかし、少なくとも顧客が何を実現したいのかは、少しずつ明確になってきた。


「今回の内容を整理して、技術的に対応できる範囲を確認したいと思います」


「お願いします」


「そのうえで、概算費用とスケジュールをご提示します」


 情報システム部門の担当者がうなずいた。


「助かります」


 松井は、最後に確認した。


「一点だけ、導入希望時期について確認させてください」


「はい」


「4月から利用を開始したいとのことですが、事前の確認や操作説明の期間も必要になると思います」


「そうですね」


「そのため、4月のどの時点から利用したいのか、改めて確認させていただけますか?」


 利用部門の責任者は、少し考えた。


「できれば、4月の中旬頃からですね」


「承知しました」


「ただ、年度初めは忙しいので、事前の確認は3月中にできるとありがたいです」


「なるほど」


 松井はうなずいた。


「では、その条件も含めて開発部へ相談します」


 打ち合わせは、予定していた時間内に終了した。


     *


 その日の午後。


 松井は、開発部の田村へ連絡した。


「田村さん、少しご相談してもよろしいでしょうか?」


「はい、どうしました?」


「既存顧客から、権限管理の追加開発についてご相談をいただいています」


「ああ、金目君が話しとった件やな」


「はい」


 松井は、整理した資料を共有した。


 顧客の課題。


 利用部門。


 権限の要件。


 希望する導入時期。


 予算申請の状況。


 決裁者。


 そして、未確認事項。


 田村は、資料を確認した。


「……おお、結構整理されとるな」


「ありがとうございます」


「これなら、開発側でも検討しやすいわ」


「そう言っていただけると助かります」


 田村は、資料を読み進めた。


「ただ、権限のところは、ちょっと技術的な確認が必要やな」


「そうですね」


「西田さんにも相談してみるわ」


「お願いします」


 松井は、少し考えた。


「それと、現時点ではまだ正式な予算がありません」


「そうなんや」


「はい。ですので、まずは概算見積もりを提示する段階だと考えています」


「了解」


「詳細な設計に入る前に、先方の予算感を確認したいと思っています」


 田村はうなずいた。


「それは助かるな。見積もりのために、あんまり工数かけすぎるわけにもいかんし」


「そうですね」


 松井は、少し笑った。


「受注できるかどうかわからない段階ですので、そこは慎重に進めたいと思っています」


「ええと思うで」


 田村は、もう一度資料を見た。


 必要な情報が、きちんと揃っている。


 もちろん、まだ確認することはある。


 しかし、どこまでわかっていて、何がわかっていないのかが明確だった。


 これなら、開発部も判断しやすい。


「……松井さん、こういうの得意なんやな」


 田村が言うと、松井は少し笑った。


「そうですね。長くやってきた仕事ですので」


「頼もしいわ」


「ありがとうございます」


     *


 数日後。


 金目は、営業案件の管理表を確認していた。


 そこには、松井が担当する案件の情報が追加されている。


 顧客名。


 相談内容。


 予算。


 決裁者。


 導入時期。


 現在の状況。


 そして、次のアクション。


 金目は、少し感心した。


「……めっちゃわかりやすいな」


 以前も案件管理表は存在していた。


 しかし、今は商談の進み具合だけでなく、受注に必要な条件が揃っているかどうかまで確認できる。


 金目は、松井に連絡した。


『案件管理表、確認しました』


『ありがとうございます』


『めちゃくちゃわかりやすいですね』


『そう言っていただけるとありがたいです』


『ちなみに、次の商談も松井さんが担当されます?』


『はい。そのつもりです』


『了解です。よろしくお願いします』


 松井から、少し間を置いて返事が届いた。


『社長、一つお願いしてもよろしいでしょうか』


『はい。何でしょう?』


『今後、既存顧客からの保守更新や追加開発のご相談について、私を窓口にしていただけないでしょうか』


 金目は、少し考えた。


 これまでは、顧客からの相談が直接自分に届くことも多かった。


 しかし、松井が窓口を担当するのであれば、商談の状況を一元的に管理できる。


 金目は、返信した。


『ええですよ。お願いします』


『ありがとうございます』


『ただ、重要な案件や大きな金額の判断は、相談してくださいね』


『もちろんです』


『あと、開発部への相談も、田村さんたちと連携して進めてください』


『承知しました』


 金目は、少し笑った。


 営業担当を採用した。


 それは、単に自分の仕事を減らすためではない。


 顧客との関係を、会社として維持していくためでもあった。


     *


 1月の下旬。


 金目と松井は、オンラインで短い打ち合わせをしていた。


「松井さん、最近どうですか?」


 金目が尋ねた。


「そうですね。少しずつ、既存のお客様との関係も作れてきたと思います」


「それはよかったです」


「ただ、まだ御社のサービスについて理解しきれていないところもありますので」


「そこは、ぼちぼちでええですよ」


 金目は、少し笑った。


「最初から全部わかるわけないですから」


「ありがとうございます」


 松井は、少し考えてから続けた。


「社長、少しお伺いしてもよろしいでしょうか?」


「はい」


「今後、新しいお客様への営業も担当することになると思うのですが」


「そうですね」


「どのような案件を優先していきたいとお考えですか?」


 金目は、少し考えた。


「……そうですね」


 今までの営業は、顧客からの相談を受けて、できることを考える形が多かった。


 しかし、営業担当が加わったことで、会社としてどんな仕事を取りにいくのかを明確にする必要がある。


「まずは、うちがちゃんと価値を出せる仕事ですね」


「なるほど」


「それと、無理な納期や採算の合わない仕事は、無理して取らんでええです」


「承知しました」


「もちろん、売上は欲しいですけどね」


 松井は、少し笑った。


「そこは、よく理解しています」


「ほんまですか?」


「はい。営業としても、売上は大切ですから」


「そうですよね」


 金目は、少し考えた。


「ただ、俺は曖昧な相談から仕事を考えるのが好きなんですよ」


「そうですね。先日の商談でも感じました」


「でも、松井さんは、そういうの苦手って言うてましたよね」


「はい。正直、あまり得意ではありません」


「ほな、そこは俺がやりましょうか」


 松井は、少し驚いた。


「よろしいんですか?」


「ええですよ。全部任せる必要はないですから」


 金目は、少し笑った。


「俺が得意なことまで、無理に手放す必要ないでしょう?」


「なるほど」


「松井さんには、既存のお客さんとの関係をしっかり守ってもらいたいんです」


 松井はうなずいた。


「承知しました」


「そのうえで、営業の仕事を少しずつ広げていきましょう」


「ありがとうございます」


 金目は、少し考えた。


 自分の得意なこと。


 松井の得意なこと。


 それぞれ違う。


 しかし、違うからこそ、一緒に仕事をする意味がある。


     *


 1月末。


 金目は、営業案件の一覧を確認していた。


 そこには、自分が直接参加していない商談が、いくつも記録されている。


 保守契約の更新。


 既存顧客からの追加開発相談。


 次回提案の予定。


 そして、顧客からの回答待ち。


 まだ、松井が担当する案件で正式な受注が決まったものはない。


 しかし、仕事は進んでいた。


 金目が同席しなくても、顧客との打ち合わせが行われている。


 必要な情報が整理され、次のアクションが決まっている。


 金目は、少し笑った。


「……ええ感じやな」


 そこへ、高瀬から連絡が届いた。


『営業の引き継ぎ、順調そうですね』


『そうですね。松井さん、かなりしっかりしてます』


『それはよかったです』


『俺が聞き忘れるようなことも、ちゃんと確認してくれるんですよ』


『それは心強いですね』


 金目は、少し考えてから返信した。


『ただ、自分でやった方が早いと思うことも、まだありますね』


『そうでしょうね』


『でも、それやったら人を採った意味ないですから』


『そのとおりだと思います』


 金目は、案件管理表をもう一度見た。


 自分とは違うやり方で、顧客との関係が作られ始めている。


 しかも、それは金目が不得意としていた部分を補っていた。


 金目は、少し笑った。


「……これで、もうちょっと商売増やせるかな」


 そして、次の資料を開いた。


 まだ、やるべきことはたくさんある。


 しかし、これまで自分一人で担っていた営業の仕事が、少しずつ会社の仕事へ変わり始めていた。


 株式会社カナメの2030年が、静かに動き始めていた。

お読みいただきありがとうございます。旭月です。


いよいよ第三章が始まりました。


今回は、新しく営業担当として入社した松井慎吾のお話です。


これまで金目が一人で担ってきた営業の仕事に、ようやく専門家が加わりました。


金目は、お客様との何気ない会話から困りごとを見つけ、新しい仕事につなげることが得意です。


一方、松井は予算や決裁者、導入時期などを確認し、商談を着実に前へ進めることを得意としています。


どちらが優秀というわけではなく、得意なことが違うんですね。


そして今回、金目は見事に確認を忘れていました。


「先方は、いつまでに判断される予定なんでしょうか?」


「……聞いてへんわ」


……社長、そこは聞いておきましょうよ(笑)。


もっとも、こうした小さな抜けがあるからこそ、松井の存在が生きてきます。


会社が大きくなるということは、何でもできる人を集めることではないのだと思います。


それぞれの得意なことを持ち寄り、苦手なところを補い合う。


その結果、一人ではできなかった仕事ができるようになる。


今回の金目も、営業をすべて手放したわけではありません。


自分が得意な仕事は続けながら、松井が得意な仕事を任せる。


それも、一つの権限委譲の形なのでしょう。


さて、松井が加わったことで、カナメの営業は少しずつ変わり始めました。


とはいえ、まだ本人が担当した案件の受注は決まっていません。


これからどんな仕事を積み重ねていくのか、楽しみにしていただければと思います。


引き続き、お付き合いいただければ幸いです。

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