カナメ事務所
ノートに名前を書いた翌日。
金目は、最初のページを開いていた。
『カナメ事務所』
一晩置いて眺めても、少し立派すぎる名前だった。
机が一つ。椅子が一脚。パソコンが一台。
事務所と呼べそうなものは、それくらいしかない。
名前の下は、白いままだった。
「……事務所より先に、仕事が要るんちゃうか?」
声に出してみたが、もっともな話だった。
店主の「仕事にしたらええんちゃう」という言葉は、まだ頭に残っている。
けれど、名前を書いたところで、誰かが仕事を持ってきてくれるわけではない。
金目はパソコンを開き、検索欄に「個人事業 開業」と入力した。
開業届。
確定申告。
帳簿。
請求書。
「うわ、面倒くさ」
説明を少し読むだけで、確認したいことが増えた。
金をもらうなら、こういうことも自分でせなあかんのか。
金目はノートへ目をやった。
名前は、もう書いてしまった。
しばらく考えてから、開いていた説明の続きを読んだ。
*
翌日、金目は例の居酒屋を訪ねた。
「おう、金目ちゃん。今日は何や?」
「ちょっと相談がありまして」
「なんや、借金か?」
「なんでそうなるんですか」
店主は笑い、カウンターの端を顎で示した。
金目は腰を下ろした。
「この前の仕事、あれって本当に金払う価値あります?」
店主の手が止まった。
「……お前、まだそんなこと言うとんのか」
「いや、気になりまして」
「ほな聞くけどな」
店主は布巾を置いた。
「お前、毎晩一時間、ここに来て帳簿つけてくれるか?」
「嫌です」
「即答やな」
「毎日は無理ですよ」
「そやろ。けど、あれ作ってくれたおかげで、その一時間が要らんようになったんや」
金目は、カウンターの奥を見た。
あの晩、伝票とノートが広がっていた場所には、今は皿が重なっている。
「それに金払うんが、そんなにおかしいか?」
「……おかしないですね」
「せやろ」
自分が何時間かけて作ったかとは、少し違う話らしい。
金目が黙っていると、店主は皿を持ち上げた。
「この前の分も払おか?」
「いや、あれはええです」
「ほな、次からな」
「次があればですけど」
「作ったらええやん」
「簡単に言いますね」
「お前も、この前そんな感じやったで」
金目は笑った。
確かに、そうだったかもしれない。
「それで、名前は決めたんか?」
「一応」
「なんて?」
「カナメ事務所です」
「……そのまんまやな」
「覚えやすいでしょ」
「まあ、忘れようがないわな」
店主は少し考え、にやりとした。
「金目事務所やったら、カネ目当てみたいやもんな」
「やめてくださいよ」
「カネメ事務所」
「読み方変わってますやん」
二人で笑った。
金目は水を一口飲み、ノートを取り出した。
「ただ、何する仕事なんか、どう説明したらええかわからんのです」
「この前みたいなんやろ?」
「まあ、そうなんですけど。パソコン使う仕事、いうだけでもないですし」
「仕事を楽にするんやろ?」
「はい」
「ほな、それでええやん」
「いや、もうちょっと何か……」
「難しく言うたら客が来るんか?」
金目は口を閉じた。
店主は、何でもない顔で皿を並べている。
「……面倒な仕事を楽にする、でええんかな」
「ええんちゃうか」
「適当ですね」
「お前が聞いたんやろ」
金目は笑いながら、ペンを持った。
*
家に帰って、ノートを開いた。
『カナメ事務所』
その下に、一行を書き加える。
『面倒な仕事を、楽にする』
店で書き留めた言葉を、もう一度眺めた。
今のところ、これ以上の説明は思いつかなかった。
続けて、三つの項目を書く。
『困っていることを聞く』
『今のやり方を見せてもらう』
『自分で使える形にする』
最後の一つに、線を引いた。
作るたびに呼ばれて、代わりに操作するのは困る。
できれば、相手が自分で使い続けられる方がいい。
「その方が楽やしな」
金目はペンを置き、開業の準備に戻った。
仕事用の連絡先を整える。
請求書のひな型を作る。
必要な手続きを、一つずつ確認する。
初めは、そのたびに同じ内容を入力していた。
名前。住所。連絡先。
何度目かで、手が止まった。
「これ、また書くんか」
結局、必要な情報をまとめ、使い回せるようにした。
ひな型も直した。
気がつくと、予定していたより時間がかかっていた。
「……何やってんねやろ、俺」
画面の向こうで、自分の名前がきれいに収まっている。
次からは、少し早く済みそうだった。
*
数日後、開業の手続きを済ませた。
書類に記した屋号は、もちろん『カナメ事務所』だった。
帰り道、金目はスマートフォンを取り出した。
連絡先も、請求書も、ひとまず用意できた。
仕事を受ける準備は整った。
「……で、客は?」
立ち止まった。
営業。
広告。
知らない人に、自分の仕事を説明する。
店主には、あれでええと言われた。
しかし、知らない相手に同じように言って、通じるだろうか。
「面倒やなあ……」
しばらく画面を眺めてから、例の店主とのやり取りを開いた。
『この前みたいな面倒な仕事で困ってる店、ほかに知りません?』
送ってみる。
数分後、返信が来た。
『あるで』
続けて、もう一通。
『知り合いの料理屋が予約の管理で困っとるらしい。紹介したろか?』
金目は足を止めたまま、画面を読んだ。
『お願いします』
返事を送ると、ほどなくして通知が鳴った。
『話しといたで。明日、顔出したり』
「……早っ」
値段も決めていない。
名刺も作っていない。
そもそも、予約の管理の何に困っているのかも、まだ知らない。
金目はスマートフォンを握ったまま、少し考えた。
それから、予定表を開いた。
明日の欄に、料理屋の名前を書き込む。
「開業した途端、仕事増えたやん……」
ため息をついた。
けれど、口元は少しだけ緩んでいた。
カナメ事務所。
社員ゼロ人。
事務所は自宅。
そして、明日の予定が一件。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
名前だけだったカナメ事務所に、明日の予定が一件入りました。
値段も名刺も、まだこれから。それでも金目は、自分から紹介を頼んでみました。
面倒な仕事を楽にするために、まず自分が動くことになる。
そんな第一章の始まりです。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




