上田くん
金目が本町の事業所に着いたのは、予定より30分ほど早い時間だった。
2028年4月。
株式会社カナメは、この日から大阪・本町に小さな事業所を構えることになっていた。
ビルの入口で案内を確認し、エレベーターに乗る。
まだ慣れない階で降り、鍵を開けた。
中には、机と椅子。
小さな打ち合わせ用のテーブル。
壁際には収納棚があり、窓の近くにはモニターが置かれている。
必要なものだけを揃えた、簡素な事業所だった。
「……ほんまに事務所できたな」
金目は、室内を見渡した。
少し前まで、株式会社カナメには人が集まる場所がなかった。
自宅の机で仕事をし、オンラインで打ち合わせをする。
それで十分に仕事は進んでいた。
しかし、今日は違う。
初めての新卒社員を迎える日だった。
金目が鞄を置いていると、入口の方から声がした。
「おはようございます」
三宅だった。
「あ、おはようございます」
「早いですね」
「なんか、目が覚めてしまいまして」
三宅は少し笑った。
「私も、準備がありますので」
彼女は持ってきた箱を、打ち合わせ用のテーブルに置いた。
中には、小さなケースが4つ入っていた。
「三宅さん、これ何です?」
「社員証です。今日お渡ししようと思いまして」
「……俺の分もあるんですか?」
「もちろんです」
「社長も?」
「社長もです」
金目は、少し笑った。
「……なんか、ほんまに会社っぽくなったな」
「会社ですからね」
三宅は、いつものように答えた。
*
しばらくすると、西田が到着した。
「おはようさん」
「おはようございます」
金目が答えると、西田は事業所を見渡した。
「……思ったより小さいな」
「まあ、必要なときに集まるだけやし」
「せやな。毎日出社するわけちゃうんやろ?」
「そのつもりやで」
西田は、机の上に置かれたモニターを確認した。
「ネットは?」
「開通してるで。昨日確認した」
「ほな、大丈夫そうやな」
続いて、田村、岩田、尾崎も顔を出した。
普段はオンラインでやり取りしているメンバーだった。
こうして同じ場所に集まるのは、久しぶりだった。
「……ちょっと狭かったかな」
金目が言うと、西田が笑った。
「毎日集まるわけちゃうんやろ?」
「せやな」
田村も、室内を見渡した。
「まあ、打ち合わせするには十分ちゃう?」
「そうやね」
岩田は、通信環境について西田と話している。
尾崎は、打ち合わせ用のテーブルに置かれた資料を揃えていた。
金目は、その様子を眺めた。
少し前まで、画面の向こうにいた人たちが、今日は同じ部屋にいる。
それだけで、少し不思議な感じがした。
*
予定の時間より少し早く、入口の呼び鈴が鳴った。
三宅が応対する。
扉の向こうに立っていたのは、上田拓海だった。
紺色のスーツに、まだ少し硬そうな革靴。
手には、新しい鞄を持っている。
「おはようございます。本日からお世話になります、上田拓海です!」
上田は、深く頭を下げた。
「おはようございます。三宅です。どうぞ、お入りください」
上田は、少し緊張した様子で中に入った。
金目が声をかける。
「上田君、おはよう」
「あ、金目社長! おはようございます!」
「……社長って呼ばれると、なんか落ち着かんな」
西田が横から笑った。
「社長やろ」
「そうなんやけど」
金目は、上田に向き直った。
「今日はよろしくお願いします」
「はい! よろしくお願いします!」
「そんな固くならんでもええで」
「はい!」
返事だけは、相変わらず元気だった。
金目は、少し笑った。
上田にとっては、今日が初めての社会人生活だった。
緊張するのも、無理はなかった。
*
全員が揃うと、金目は打ち合わせ用のテーブルの前に立った。
三宅が用意した簡単な進行表には、こう書かれている。
『株式会社カナメ 本町事業所開設・新入社員入社式』
金目は、それを見て少し考えた。
「……入社式って、何話したらええんやろ」
西田が笑った。
「今さらかいな」
「いや、こういうの初めてやねん」
「社長の挨拶やろ。何か考えてきたんちゃうん?」
「一応、考えてきたんやけどな」
金目は、手元のメモを見た。
それから、上田に向き直った。
「えー……本日は、株式会社カナメの……」
少し間が空いた。
「……入社式、ということで」
西田が小さく笑った。
「社長、そこからかいな」
「いや、ちょっと待って」
金目は苦笑した。
何人かが笑う。
金目は、もう一度メモを見た。
「えーと、上田君。入社おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「うちは、最初から大きな会社やったわけではなくて……まあ、今も小さいんですけど」
また、少し笑いが起きた。
「最初は、僕が面倒やなと思った仕事を、少し楽にしたかっただけなんです」
金目は、少し言葉を探した。
「それが、お客さんの仕事になって、西田さんに手伝ってもらうようになって、三宅さんが入ってくれて……」
金目は、周囲を見た。
「田村さんや岩田さん、尾崎さんにも手伝ってもらって、気がついたら会社になってまして」
「……説明が雑やなあ」
西田が小さくつぶやいた。
「聞こえてるで」
また笑いが起きた。
金目は、少し笑ってから続けた。
「まあ、何が言いたいかというと……最初から何でもできる必要はないです」
上田は、真剣な顔で聞いていた。
「わからんことは、ちゃんと考えて、それでもわからんかったら聞いてください」
「はい」
「僕らも、新卒の人を迎えるのは初めてなんで、教える方も慣れてへんところがあると思います」
金目は、少し考えた。
「……一緒に覚えていきましょう」
上田は、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
金目は、少し照れくさそうに笑った。
「……以上です」
西田が拍手した。
続いて、三宅やほかのメンバーも拍手する。
小さな事業所に、拍手の音が響いた。
*
挨拶が終わると、三宅がテーブルの上に4つのケースを並べた。
「それでは、社員証をお渡ししますね」
金目が少し首をかしげた。
「……全員分ですか?」
「はい。今回、まとめて作りましたので」
三宅は、最初のケースを金目に渡した。
中には、株式会社カナメの名前と、金目の氏名が記されたカードが入っていた。
『1 金目修平 代表取締役』
金目は、しばらく眺めた。
「……俺、社員番号1なんやな」
西田が笑った。
「そら、社長やからな」
「いや、改めて見ると、なんか不思議やなと思って」
三宅は、次のケースを開いた。
『2 三宅彩 経理・総務』
続いて、西田へ。
『3 西田浩司 取締役』
最後に、上田へケースを渡した。
『4 上田拓海 開発担当』
上田は、両手で受け取った。
「ありがとうございます!」
ケースを開き、カードを取り出す。
自分の名前。
株式会社カナメ。
そして、社員番号4。
上田は、しばらくその文字を見つめていた。
金目が尋ねた。
「どうや?」
「……なんか、本当に社会人になったんだなって思います」
金目は、少し笑った。
「そら、今日から社会人やからな」
「はい!」
上田は、もう一度カードを見た。
三宅が説明する。
「本町事業所の入退室にも使えるようにしています。なくさないようにしてくださいね」
「はい。わかりました」
金目は、自分のカードを裏返した。
「……これ、どこで使うん?」
「今、説明したところですよ」
「ああ、そうか」
西田が笑った。
「社長が一番先になくしそうやな」
「……それはないと思うで」
「ほんまか?」
「たぶん」
また笑いが起きた。
*
入社式が終わると、西田が上田の研修を始めた。
まずは、会社の仕事について。
どんな顧客がいるのか。
どんな仕組みを作っているのか。
誰が何を担当しているのか。
そして、情報の取り扱いについて。
上田は、ノートを開いて一生懸命メモを取っていた。
「……そんな全部書かんでもええで」
西田が言うと、上田は顔を上げた。
「え、そうなんですか?」
「資料は後で共有するからな」
「あ、はい」
「大事なんは、何のためにやってるかを理解することや」
「わかりました」
西田は、次に開発環境の説明を始めた。
上田は、用意されたパソコンを開いた。
アカウントを確認し、必要な設定を進める。
しばらくは順調だった。
しかし、途中で手が止まった。
「……あれ?」
上田は、画面を見つめた。
もう一度、手順を確認する。
同じ操作を試す。
しかし、うまくいかない。
上田は、しばらく自分で調べていた。
西田が声をかける。
「どうや?」
「あの、ここでエラーが出てしまって」
「どこまで確認した?」
「手順書のここまでは進めました。あと、エラーの内容も調べたんですけど……」
上田は、画面を見せた。
西田は、少しうなずいた。
「なるほど。ほな、まず何が原因か一緒に見てみよか」
「はい!」
金目は、少し離れたところからその様子を眺めていた。
すぐに答えを教えるのではなく、どこまで考えたのかを確認する。
それは、金目が上田の面談で大切にしたことでもあった。
西田も、同じように考えてくれているらしい。
金目は、少し安心した。
*
午後になると、田村、岩田、尾崎が帰る準備を始めた。
金目は、3人に声をかけた。
「今日はありがとうございました」
「いやいや、こちらこそ」
田村が答えた。
「なかなか、こうやって集まることもなかったしな」
「そうですね」
金目は、少し考えた。
「そういえば、最近仕事も増えてきまして」
「そうやな」
「もしよかったら、今後の働き方について、一回相談させてもらえません?」
田村は、少し首をかしげた。
「働き方?」
「はい。今は業務委託でお願いしてますけど、今後の体制も考えたいなと思ってまして」
岩田と尾崎も、金目の方を見た。
「もちろん、すぐにどうこうという話ではないです」
金目は続けた。
「皆さんにも今のお仕事がありますし、まずは一回お話を聞かせてもらえたらと思ってます」
田村は、少し考えた。
「まあ、話聞くくらいやったらええで」
岩田もうなずいた。
「僕も大丈夫です」
尾崎も答えた。
「よろしくお願いします」
「ありがとうございます。ほな、また日程調整します」
金目は、3人を見送った。
これまで、一緒に仕事をしてきた協力者たち。
その関係も、少しずつ変わっていくのかもしれなかった。
*
夕方。
上田の初日の研修が終わった。
「今日は、ありがとうございました!」
上田が頭を下げた。
西田が答える。
「お疲れさん。最初は覚えること多いけど、焦らんでええからな」
「はい!」
金目も声をかけた。
「上田君、初日どうやった?」
「……思ってたより、わからないことが多かったです」
「そら、初日やからな」
金目は笑った。
「でも、面白かったです」
「それはよかった」
「明日からも、よろしくお願いします!」
「こちらこそ」
上田は、もう一度頭を下げてから事業所を出た。
西田も、少しして帰っていった。
三宅は、最後の書類を整理していた。
「金目さん、今日はお疲れさまでした」
「三宅さんも、お疲れさまでした」
「初めての入社式、無事に終わりましたね」
「そうですね。なんか、思ったより緊張しましたわ」
三宅は少し笑った。
「挨拶、少し困っておられましたね」
「……見てました?」
「皆さん、見ておられましたよ」
「そらそうか」
二人は笑った。
三宅が帰ったあと、金目は事業所に残った。
机と椅子。
打ち合わせ用のテーブル。
壁際の収納棚。
朝と同じ、小さな事業所だった。
ただ、今日はここで初めての入社式を開いた。
上田を迎え、全員に社員証を渡した。
普段はオンラインで仕事をしている仲間たちも集まった。
金目は、上田が使っていた机を見た。
そこには、研修中に使ったノートが置かれていた。
金目は、少し笑った。
「……忘れ物かいな」
ノートを閉じ、机の端に置いた。
明日、本人に伝えればいい。
金目は、室内をもう一度見渡した。
会社を作った頃には、誰かの入社式をするなんて考えていなかった。
それが、今日、初めて新卒社員を迎えた。
そして、これからは、さらに人を増やすことも考えている。
「……明日から、また仕事やな」
金目は、小さく笑った。
事業所の照明を消し、扉の鍵を閉める。
廊下へ出て、もう一度振り返った。
株式会社カナメ。
扉の横には、小さな社名プレートが取り付けられている。
金目は、しばらくそれを眺めた。
最初は、自宅の机一つで始めた仕事だった。
今は、人が集まれる場所がある。
そして、そこで働く人もいる。
「……ほんま、会社になってもうたな」
金目は少し笑い、エレベーターへ向かった。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、株式会社カナメにとって初めての入社式でした。
大阪・本町に小さな事業所ができ、社員番号4の上田拓海が入社しました。
金目にとっても、初めて自分の会社で新卒社員を迎える日。
普段は顧客との打ち合わせもこなす金目ですが、入社式の挨拶は少々ぎこちなかったようです(笑)
そして、初めて配られた社員証。
金目にとっては少し不思議なカードでも、上田にとっては社会人になった証になりました。
一方、仕事が増えてきたカナメでは、既存の協力者たちの働き方についても考え始めています。
次回は、そんな会社の新しい体制づくりを描いていきます。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




