最後の出勤
金目がノートを開いたのは、10月に入って最初の週末だった。
机の上には、東京への異動条件と、三宅がまとめた資金計画が並んでいる。
金目は、ノートに書かれた2つの選択肢を見た。
『東京へ異動して本業を続ける』
『株式会社カナメに専念する』
東京へ移る条件は悪くない。カナメに専念する場合の数字も、仕事が減る場合まで見た。
どちらを選んでも、確かめきれないことは残る。
金目は、資料を閉じた。
もう、判断するための材料は揃っている。
あとは、自分がどうしたいかだった。
*
その日の夜。
金目は妻と、もう一度話をした。
「東京の件なんやけど」
「うん」
「そろそろ返事せなあかんねん」
妻はうなずいた。
「どうするつもりなん?」
「大阪に残ろうと思ってる」
「カナメの方?」
「うん」
金目は、妻の方へ向き直った。
「会社の方で、やっていけると思うん?」
妻が尋ねた。
金目は少し考えた。
「絶対とは言えへん」
「うん」
「でも、今の仕事が続く前提なら、やっていける見込みはある。仕事が減った場合も、一応考えた」
「そうなんや」
「三宅さんにも数字見てもらったし、西田さんとも話した」
妻はうなずいた。
「じゃあ、何も考えずに決めたわけではないんやな」
「そらそうやろ」
「たまに勢いで決めるやん」
「……そんなことある?」
「あるで」
金目は苦笑した。
「まあ、今回はちゃんと考えたつもりや」
妻は少し笑った。
「ほな、ええんちゃう?」
「ほんまに?」
「うん。東京行くのが嫌やからってだけなら、もうちょっと考えた方がええと思うけど」
「そうやな」
「会社の方をちゃんとやってみたいんやろ?」
金目は、少し黙った。
今まで、カナメを大きくしようと考えていたわけではない。
目の前の仕事を引き受けていたら、少しずつ仕事が増えた。
会社を作ったのも、その仕事を続けるためだった。
しかし、今は違う。
三宅がいる。
西田がいる。
来年には上田が入ってくる。
会社として、これからのことを考える必要がある。
「……そうやな。ちゃんとやってみたいんやと思う」
金目は、そう答えた。
妻はうなずいた。
「ほな、それでええと思う」
「ありがとう」
「ただ、生活できへんようになったら困るで」
「それは、ほんまにそう」
二人は笑った。
金目は、ノートを開いた。
『株式会社カナメに専念する』
その横に、小さく印をつけた。
ようやく、自分の答えが決まった。
*
翌週。
金目は、上司に時間をもらった。
「ちょっと、お話ししたいことがありまして」
「おう。東京の件か?」
「はい」
二人は、空いている会議室に入った。
金目は、用意していた資料を机に置いた。
「東京異動の件なんですけど、今回は辞退しようと思います」
上司は、少し残念そうな顔をした。
「そうか」
「いろいろ条件も考えていただいたんですけど」
「いや、そこは気にせんでええ。金目なりに考えたんやろ」
「はい」
上司は少し考えた。
「転職するんか?」
「いえ、株式会社カナメの方に専念しようと思いまして」
「ああ、副業で作った会社か」
「はい」
「……それで生活できるんか?」
金目は、少し笑った。
「一応、やっていける見込みはあります」
「そうなんか」
上司は、少し不思議そうな顔をした。
「ちなみに、今どれくらい仕事あるん?」
「大口のお客さんとの継続契約がありまして。複数の拠点に展開してるところです」
「へえ」
「ほかにも、いくつか継続してお仕事いただいてます」
「なるほどな」
金目は続けた。
「今は僕のほかに、取締役が1人と、経理・総務の社員が1人います」
「前に聞いた社員が、今も実務を支えてるんやな」
「はい」
「取締役も?」
「はい。開発全体を見てもらってます」
上司は、少し黙った。
「……ちょっと待て」
「はい?」
「お前、副業で会社作ったって言うてたよな?」
「そうですね」
「それ、もう普通に会社やん」
金目は少し考えた。
「……株式会社ですからね」
「そういう意味ちゃうわ」
二人は笑った。
上司は、もう一度尋ねた。
「ほかにも人おるんか?」
「業務委託で3人ほど手伝ってもらってます」
「……そんな規模になっとったんか?」
「まあ、少しずつ増えまして」
金目にとっては、いつもの仕事の延長だった。
上司に説明してみると、その仕事をもう一人で抱えていないことが、改めてわかった。
上司は、少し呆れたように笑った。
「そら、東京行くか悩むわな」
「そうですね」
「いや、もっと早く言うてくれたらよかったのに」
「聞かれませんでしたし」
「……それはそうやけど」
上司は笑った。
金目も、つられて笑った。
*
少しして、上司が口を開いた。
「正直、残ってほしかったんやけどな」
「ありがとうございます」
「東京でも、金目にはやってもらいたい仕事があったし」
「そう言っていただけるのは、ありがたいです」
金目は、素直にそう答えた。
本業の仕事が嫌になったわけではない。
長く続けてきた仕事だ。
学んだことも多い。
助けてもらったこともあった。
自分が誰かを助けたことも、きっとあったと思う。
「会社に不満があるわけではないんです」
「うん」
「東京の条件も、ほんまにありがたいと思ってます」
「そうか」
「ただ、家族のこともありますし、カナメの方も一回ちゃんとやってみたいなと思いまして」
上司は、しばらく考えた。
「……まあ、そこまで考えてるんやったら、無理には言えへんな」
「ありがとうございます」
「退職は、いつを考えてる?」
「年末でお願いできればと思ってます」
「わかった。人事とも確認するわ」
「お願いします」
上司は、少し笑った。
「しかし、会社まで作っとったとはなあ」
「前に報告しましたやん」
「法人化するとは聞いたけど、そんな規模とは思ってへんかったわ」
「……まあ、僕も最初は思ってませんでしたけど」
二人は笑った。
金目は、頭を下げた。
「年末まで、よろしくお願いします」
「こちらこそ。最後まで頼むで」
「もちろんです」
会議室を出た金目は、自分の席へ戻った。
午後には、いつもの仕事が待っていた。
退職すると決めても、今日の仕事がなくなるわけではなかった。
*
11月になると、金目は少しずつ引き継ぎを始めた。
担当していた案件。
関係する部署。
進行中の仕事。
これまでに決めたことと、その理由。
金目は、それらを一つずつ資料にまとめていった。
事業所の閉鎖は翌年2月。
金目が退職したあとも、しばらく仕事は続く。
だからこそ、途中で困らないようにしておく必要があった。
ある日、後任の担当者から質問が届いた。
「金目さん、この部分って、なんでこういう仕様になってるんですか?」
金目は、資料を開いた。
「ああ、そこな。最初は別の案もあったんやけど」
金目は、当時の経緯を説明した。
どんな問題があったのか。
何を優先したのか。
どの案を選ばなかったのか。
そして、なぜ今の形になったのか。
「なるほど。そういう理由だったんですね」
「うん。今の条件が変わるんやったら、見直してもええと思うで」
「わかりました」
「そのときは、ここに書いてる前提を確認してな」
金目は、資料の該当箇所を示した。
答えだけを残しても、条件が変われば使えなくなる。
なぜそう考えたのか。
そこまで残しておけば、次の担当者が自分で判断できる。
金目は、資料を保存した。
自分がいなくなっても、仕事が進むようにする。
それは、本業でもカナメでも変わらない考え方だった。
*
退職に向けた手続きが進む一方で、株式会社カナメの仕事も続いていた。
金目は、三宅と西田に年末退職が決まったことを伝えた。
「というわけで、来年1月からはカナメ一本になります」
三宅は、少し驚いたようだった。
「正式に決まったんですね」
「はい。年末で退職することになりました」
「承知しました。では、必要な手続きを確認しておきますね」
「お願いします」
「役員報酬や社会保険の扱いも、改めて整理しましょう」
「……また手続き増えますね」
「そうですね」
三宅は、いつものように答えた。
金目は苦笑した。
会社を作ったときも、同じようなことを言っていた気がする。
西田にも連絡した。
『年末で本業辞めることになったで』
『そうか。決めたんやな』
『うん。来年からカナメ一本や』
『ほな、昼間も連絡つくようになるんやな』
『そういうことやね』
『それは助かるわ』
金目は少し笑った。
『ただ、開発の方は今までどおり西田さんに任せるつもりやで』
『そらそうやろ』
『一応、確認しとこうと思って』
『専業になったからって、俺の仕事取り上げんといてな』
「……そんなことせえへんわ」
金目は、声に出して笑った。
『せえへんよ。引き続き頼むわ』
『了解』
金目は、共有案件表を開いた。
来年の仕事が、既にいくつも並んでいる。
年明けには、昼間の打ち合わせにも自分で入れる。
金目は、後回しにしていた予定を確かめた。
*
12月。
金目の本業での仕事は、少しずつ減っていった。
担当していた案件の引き継ぎが進み、会議の出席者から名前が外れていく。
今まで毎週参加していた会議も、後任が中心になっていた。
金目は、必要なところだけ補足する。
自分が話さなくても、会議は進んでいく。
「……ちゃんと回るもんやな」
金目は、少し笑った。
それでよかった。
自分がいなくなった途端に困るようでは、引き継ぎができたとは言えない。
残っていた資料を整理し、必要な情報を共有する。
質問があれば答える。
最後まで、いつもの仕事を続けた。
*
最後の出勤日。
金目は、いつもどおりの時間に家を出た。
いつもの電車。
いつもの駅。
いつもの道。
何度も通った場所だった。
会社に着くと、いつものように席へ向かった。
机の上には、もうほとんど物が残っていない。
金目はパソコンを開き、最後の確認を始めた。
引き継ぎ資料。
未完了の手続き。
返却する貸与品。
一つずつ確認し、残っていた作業を終わらせる。
昼過ぎには、ほとんどの仕事が片づいた。
同僚が声をかけてきた。
「金目さん、今日で最後なんですよね」
「そうやね」
「長い間、お疲れさまでした」
「ありがとう。こちらこそ、お世話になりました」
「次は何されるんですか?」
「自分の会社の方をやろうと思ってる」
「そうなんですか。社長じゃないですか」
「一応、そうなるな」
同僚は笑った。
「じゃあ、なんかあったら雇ってくださいね!」
「ええで。仕事できるんやったらな」
「うわ、急に厳しいですね!」
「そら、給料払わなあかんからな」
二人は笑った。
「まあ、冗談抜きで、困ったら声かけてな」
「ありがとうございます。金目さんも頑張ってください」
「ありがとう」
金目は、小さく頭を下げた。
そのあとも、何人かの同僚が声をかけてくれた。
長く一緒に働いてきた人。
最近、同じ仕事をするようになった人。
普段はあまり話す機会のなかった人。
それぞれと、短い言葉を交わした。
午後には貸与品を返却し、残っていた手続きを済ませた。
金目は、自分の席へ戻った。
机の上には、もう何も残っていない。
ここで、いくつもの仕事をしてきた。
うまくいったこともあれば、そうでないこともあった。
何度もやり直した仕事もある。
誰かに助けられたことも、誰かを助けたこともあった。
もう少し続けてみたかった仕事もある。
「……まあ、しゃあないか」
金目は、小さく笑った。
椅子を机の下へ戻す。
そのとき、後ろから声がした。
「金目」
振り返ると、上司が立っていた。
「もう終わりか?」
「はい。引き継ぎも全部終わりました」
「そうか」
上司は、空になった机を見た。
「長いこと、お疲れさん」
「ありがとうございます」
「正直、もうちょっと一緒に仕事したかったんやけどな」
金目は少し笑った。
「僕も、そう思います」
「まあ、決めたことやしな」
「はい」
上司は、少し間を置いた。
「向こうでも頑張れよ」
「ありがとうございます。お世話になりました」
「今度は社長業一本やな」
「そうですね。まあ、やることは今までとあんまり変わらんと思いますけど」
「……そこが金目らしいな」
二人は笑った。
金目は、改めて頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ。元気でな」
金目は鞄を持った。
職場を見渡す。
まだ、いつものように仕事をしている人たちがいる。
電話をしている人。
画面を見ながら相談している人。
会議室へ向かう人。
事業所が閉鎖されるのは、2028年2月。
まだ2か月ほど先だった。
自分だけが、少し早くこの場所を離れる。
金目は、最後にもう一度頭を下げた。
「お先に失礼します」
いつもの挨拶だった。
ただ、ここでそう言うのは、今日が最後だった。
*
会社を出ると、外はすっかり冬の空気になっていた。
金目は、いつもの道を駅へ向かって歩いた。
何度も通った道だった。
明日から、もうここへ来る必要はない。
そう考えると、少し不思議な感じがした。
長い間、当たり前だったことが終わる。
しかし、明日から何もすることがなくなるわけではない。
株式会社カナメの仕事は、既にいくつも予定されている。
金目は、電車に乗った。
いつものように席を探し、スマートフォンを開く。
三宅から連絡が届いていた。
『年明けの確認事項を整理しました。お時間のあるときにご確認ください』
金目は、少し笑った。
「……ほんま、変わらんなあ」
返事を送る。
『ありがとうございます。年明けに確認します』
それから、スマートフォンをしまった。
窓の外には、いつもの景色が流れていた。
*
その日の夜。
金目は、自宅の机で2つの予定表を開いていた。
一つは、本業の予定表。
もう一つは、株式会社カナメの予定表。
少し前まで、どちらにも仕事が並んでいた。
しかし、本業の予定表には、もう新しい仕事は入らない。
金目は、これまでの予定を少し眺めた。
開発会議。
進捗確認。
他部署との打ち合わせ。
いくつもの仕事が、そこに残っている。
金目は、小さくつぶやいた。
「……長いこと、お世話になったな」
そして、本業の予定表を閉じた。
画面には、株式会社カナメの予定表だけが残った。
2028年1月。
大口顧客との打ち合わせも、継続案件の納品もある。
4月には上田が入ってくる。
金目は、一月の予定へ目を戻した。
「……さて、何からやろかな」
金目は少し笑った。
2027年12月。
金目修平は、長く続けてきた会社員生活に区切りをつけた。
年が明ければ、株式会社カナメの仕事だけをする日々が始まる。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、金目が長く続けてきた会社員生活に区切りをつけるお話でした。
選ばなかった仕事にも、一緒に働いてきた人たちにも、心残りはありました。
いつもどおりの「お先に失礼します」が、最後の挨拶になりました。
次回からは、いよいよ専業経営者としての金目が動き始めます。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




