社長は、まだ会社員
金目が会社に着いたのは、午前九時少し前だった。
いつもの席に座り、パソコンを開く。
午前中は開発会議。
午後には、別の部署との打ち合わせが入っている。
金目は予定表を確認し、今日の仕事を始めた。
2026年の春。
株式会社カナメを設立してから、数か月が経っていた。
代表取締役。
そう名乗るようにはなったが、金目の平日は相変わらず会社員として始まる。
午前中の会議を終え、昼休みにスマートフォンを開くと、カナメからの連絡がいくつか届いていた。
三宅からは、契約書類の確認。
田村からは、進行中の案件についての報告。
西田からは、制作物の確認依頼。
どれも急ぎではない。
ただ、金目の返事を待っているものもあった。
「……昼休み、短いなあ」
金目は小さくつぶやいた。
食事を済ませ、必要な連絡だけ確認する。
判断に時間がかかりそうなものは、夜に対応することにした。
午後の会議が始まる。
金目はスマートフォンをしまい、本業の資料を開いた。
株式会社カナメの社長であっても、今ここでやるべき仕事は変わらなかった。
*
その日の夜。
金目は自宅の机で、三宅から届いた資料を確認していた。
支払い予定。
請求書の発行状況。
契約書類の確認事項。
どれも、三宅がきちんと整理してくれている。
ただ、気になることがあった。
細かい確認が、思った以上に多い。
振込先の確認。
定型的な書類の送付。
いつもの支払いの処理。
そのたびに、三宅から金目へ連絡が来ていた。
「……これ、毎回僕が見る必要あるんかな」
金目は、三宅にメッセージを送った。
『ちょっと相談なんですけど、今度お時間もらえます?』
返事は、しばらくして届いた。
『大丈夫ですよ。明日の夜でしたら空いています』
翌日の夜。
二人はオンラインで話していた。
「三宅さん、いつもありがとうございます」
「いえ。どうされました?」
「最近、確認してもらってることが増えてきたじゃないですか」
「そうですね」
「その中で、僕が毎回判断せんでもええものって、結構ある気がするんです」
三宅は少し考えた。
「ありますね」
「ですよね」
「ただ、どこまで私の判断で進めていいのか、まだ決まっていませんので」
「ああ、そうか」
金目はうなずいた。
これまでは、三宅が必要なことを整理し、金目が確認する形だった。
しかし、会社になり、三宅が正式に社員になった。
それなら、毎回同じ確認をする必要はないかもしれない。
「三宅さんやったら、どこまで任せられると思います?」
三宅は少し考えた。
「定型的な支払い処理や書類の管理は、決めた範囲で進められると思います」
「なるほど」
「ただ、契約条件が変わるものや、大きな支払いは確認していただきたいですね」
「それはそうですね」
「あと、判断に迷うものは、無理に進めずに確認します」
金目はうなずいた。
「ほな、その形にしましょうか」
「よろしいんですか?」
「はい。三宅さんが判断できるところまで、毎回僕が確認する必要ないでしょう」
三宅は少し笑った。
「では、どこまで進めてよいか、一覧にしておきますね」
「お願いします」
「金目さんが確認するものも、分けておきます」
「助かります」
金目は、少し肩の力を抜いた。
自分が判断することを減らす。
それは、何も考えなくてよくなるということではない。
誰が何を決めるのかを、先に決めておくということだった。
*
数日後。
三宅から、新しい管理表が共有された。
定型的な支払い。
書類の送付。
請求書の発行。
契約内容の変更。
一定額を超える支払い。
それぞれに、担当者と確認の要否が記されている。
金目は内容を見直した。
日常的な事務処理は、三宅が進める。
重要な契約や大きな支払いは、金目が確認する。
判断に迷うものは、いったん保留する。
簡単なルールだった。
しかし、それだけで仕事の進め方は少し変わった。
金目が本業の会議に出ている間にも、三宅は請求書を発行し、支払い予定を確認し、必要な書類を整理していた。
田村は、大口顧客との継続案件の進行状況を更新する。
西田と岩田は、拠点ごとに異なるデータの扱いを確認する。
尾崎は、納品資料と説明書を揃える。
全員が同じ時間に働いているわけではない。
それでも、少しずつ仕事が進んでいた。
ある日の夜。
金目が共有案件表を開くと、いくつもの項目に完了の印がついていた。
「……結構進んどるな」
金目は、三宅から届いた報告を確認した。
『本日の定型処理は完了しました。代表者確認が必要なものは、別にまとめています』
添付された一覧には、確認事項が二つだけ残っていた。
以前なら、十件近い連絡を一つずつ確認していたかもしれない。
金目は、少し笑った。
「……これでええやん」
*
残っていた確認事項の一つは、大口顧客からの追加要望だった。
既に契約している業務とは別に、報告資料の形式を少し変更してほしいという。
金目は、依頼内容を読み直した。
技術的には難しくない。
今の仕組みを少し直せば対応できそうだった。
以前なら、そのまま引き受けていたかもしれない。
しかし、今回は少し考えた。
契約に含まれている仕事なのだろうか。
金目は、田村に相談した。
『この追加要望、どれくらい作業かかりそうです?』
返事は、翌朝に届いた。
『内容だけなら大したことないと思う。ただ、確認とテストまで入れたら、それなりに時間は要るで』
『なるほど』
『あと、今の契約範囲には入ってへんと思う』
金目は、契約書を開いた。
確かに、今回の変更は当初の作業範囲には含まれていない。
三宅にも確認した。
『追加で対応する場合、契約や請求はどうした方がええです?』
『まず、追加作業として範囲と金額を合意した方がよいと思います。必要に応じて書面も整えましょう』
『了解です』
金目は、顧客へ連絡した。
「ご相談いただいた件なんですけど、対応自体はできそうです」
「それは助かります」
「ただ、今の契約には含まれていない内容なので、追加のお見積もりを出させてもらってもええですか?」
担当者は少し考えた。
「そうですね。社内で確認が必要なので、見積もりをいただけますか」
「もちろんです」
「納期も合わせて教えてください」
「承知しました」
金目は電話を切った。
特に難しい交渉ではなかった。
顧客も、無償で対応してもらえると思っていたわけではないらしい。
ただ、こちらから条件を整理しなければ、曖昧なまま仕事が進んでいたかもしれない。
「……作れるからって、全部引き受けたらあかんな」
金目は小さくつぶやいた。
自分一人で作っていた頃なら、少しの修正くらい気にしなかった。
しかし、今は違う。
西田にも、岩田にも、それぞれの時間がある。
仕事を頼めば、報酬も発生する。
会社として仕事を引き受ける以上、その時間と費用を考えなければならない。
金目は、追加見積もりの準備を始めた。
*
その週の金曜日。
金目は本業の職場で、上司に声をかけられた。
「金目、ちょっとええか?」
「はい。どうしました?」
「いや、副業の会社、どうや?」
金目は少し笑った。
「おかげさまで、ぼちぼちです」
「そうか。なんか忙しそうやな」
「まあ、夜は結構やってますね」
「本業の方は大丈夫なんか?」
「はい。そこは分けてます」
金目は、最近の仕事の進め方を簡単に説明した。
株式会社カナメには、事務を担当する社員が一人いること。
日中の事務処理は、その社員に任せていること。
制作についても、必要なときに外部の協力者へ依頼していること。
金目自身は、主に夜や休日に判断と顧客対応をしていること。
「なるほどな。ちゃんと回しとるんやな」
「まあ、まだまだですけどね」
「無理だけはせんようにな」
「ありがとうございます」
上司はうなずいた。
「ほな、午後の件なんやけど」
話題は、すぐに本業の仕事へ戻った。
金目も、いつものように資料を開いた。
午後には、別の部署との打ち合わせがある。
来週の開発計画も確認しなければならない。
株式会社カナメの社長になったからといって、会社員としての仕事がなくなったわけではない。
そして金目自身も、今のところ本業を辞めるつもりはなかった。
*
その日の夜。
金目は、自宅の机で二つの予定表を開いた。
本業の会議と、カナメの商談や納品予定。どちらにも、自分の予定が入っている。
スマートフォンが震えた。
三宅からだった。
『明日の事務処理は、決めた範囲で進めておきます。代表者確認が必要なものは、まとめてお送りしますね』
金目は、短く返信した。
『ありがとうございます。よろしくお願いします』
それから、本業の予定を確かめた。
明日は出勤日だった。午前中には会議があり、午後には開発計画の確認が入っている。
「……社長になっても、明日は普通に出勤か」
金目は小さく笑い、二つの予定表を閉じた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
株式会社カナメの社長になった金目ですが、相変わらず本業では普通の会社員です。
一方、社員番号2の三宅は、少しずつ会社の日常業務を任されるようになりました。
会社を作ることと、会社を回すことは別の話。
金目自身も、ようやくその違いを実感し始めているようです。
もっとも、社長になったからといって、翌日の出勤がなくなるわけではありませんが(笑)
次回もお付き合いいただければ幸いです。




