ひとつ増えた席
三月三十日、金曜日。
上田拓海は、会社で確認を終えた給与改定の通知を開いた。
四月から適用する条件が、本人ごとにまとまっている。
評価面談で確かめた記録とは、別に並べていた。
この春は、据置が中心になった。
昇給できる範囲も限られている。
西田たちと確認した結果を、上田から本人へ伝えていく。
岡元遥との通話がつながった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。四月からの給与について、確認した結果をお伝えします」
上田は、岡元の分を共有した。
適用する月と、今回の条件を示す。
「今回は、据置です」
岡元は画面を見たまま、小さく頷いた。
「はい」
「現在お願いしている役割と、会社の見通しを合わせて確認しました。会社全体でも、今回は大きく上げられる状況ではなく、昇給の範囲は限られています」
上田は、確認した内容を伝えた。
岡元は手元でも通知を開き、いま説明されたところを読んでいた。
「先日の面談で確かめた仕事については、あの内容で記録に残しています」
「はい。そちらは、分かっています」
少し間があった。
岡元が、画面から顔を上げる。
「正直、少しは期待していました」
上田は、すぐに次の説明へ移らなかった。
「はい」
「設計の方も、前より任せていただけるところが増えたので。面談でお話ししたこともあって」
「そうですね。その仕事を進めてもらっていることは、こちらでも確認しています」
岡元は、通知の金額へもう一度目を向けた。
「事情は、分かっているつもりなんですけどね」
「その受け止めも、西田さんへ伝えます。今回の結果は、いまお伝えしたとおりです」
上田は、今後の改定について、まだ決まっていないことを約束しなかった。
岡元が尋ねた適用の時期を、もう一度確かめる。
「四月分から、こちらの条件です」
「分かりました」
賞与については、三月末までの実績と会社業績を合わせ、四月に確認することも伝えた。
その額は、まだ決まっていなかった。
「そちらは、確認が終わってから、またお伝えします」
「はい。お願いします」
通話を終えると、上田は本人へ伝えた内容を記録した。
岡元から聞いた言葉も、残す。
それから、西田へ共有する連絡を開いた。
*
四月二日、月曜日。
瀬川悠真は、本町の事務所の入口で、一度、手元の案内を見直した。
宛先と、訪ねる人の名前。
鞄の持ち手を握り直してから、受付へ進む。
「本日、初出勤の瀬川です」
少し声が大きくなった。
自分で気づいたが、そのあとに続ける言葉が、すぐ出てこなかった。
「瀬川さん、お待ちしていました」
福原奈央が、奥からやって来た。
「おはようございます。こちらへどうぞ」
「おはようございます。よろしくお願いします」
瀬川は頭を下げた。
上げたときには、福原が少し横で待っていた。
「まず、お荷物を置いてください。案内の方は、お持ちいただいていますか」
「はい。こちらに」
紙を出そうとして、鞄の口を開く。
手に持ったまま探しかけると、福原が机を示した。
「置いていただいて、大丈夫ですよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
瀬川は鞄を置いた。
案内を取り出し、福原の示したものと並べる。
入社前に、何度かやり取りしていた文面だった。
「今日は、この順番で進めます。途中で分からないことがあれば、止めて聞いてください」
「はい」
福原の指が、最初の予定へ止まった。
瀬川も、そこを見た。
入社日は、昨日の四月一日だった。
日曜日を挟み、今日が最初の出勤になる。
瀬川悠真。
今年、カナメが迎える新卒社員は、一人だった。
最初の確認を済ませると、福原が、用意された席へ案内した。
資料と、仕事に使うものが置いてある。
瀬川は椅子を引き、机の端へ、自分の案内を置いた。
「このあと、営業部の方にもご挨拶します。小坂さんは、もう来られていますので」
「はい」
瀬川はメモを開いた。
福原の名前の下へ、小坂、と書く。
小さく、営業部長、と添えた。
*
顔合わせの時間になると、画面の向こうからも挨拶が返ってきた。
本町に来ている人と、それぞれの場所から参加している人がいる。
仕事の予定に合わせ、短い時間を取ってもらっていた。
福原が、今日の進め方を伝えた。
瀬川の名前と、営業部へ入ることを紹介する。
「それでは、瀬川さんから、一言お願いします」
瀬川は、座っていた椅子から少し腰を浮かせ、周りを見た。
「そのままで、大丈夫です」
福原が言った。
瀬川は座り直し、画面の方へ向き直る。
「瀬川悠真と申します。本日から、お世話になります」
準備してきた挨拶を話す。
途中で少し早くなり、一度、息を継いだ。
「まだ分からないことばかりですが、一つずつ覚えていきたいと思っています。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」
いくつかの声が返った。
画面の中でも、頷いている人がいた。
金目修平が、瀬川の方を向いた。
「来てくれて、ありがとうございます。これから、よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
瀬川は、もう一度、頭を下げた。
金目が少し笑い、隣の小坂へ言葉を渡す。
「営業部の小坂です。最初は、私と松井さん、大本君で、仕事を見てもらいながら進めます」
小坂千尋が、二人を紹介した。
松井慎吾が挨拶をし、大本恭平も、よろしく、と声をかけた。
瀬川は、それぞれの顔と名前を見た。
メモを取ろうとすると、次の人が挨拶をする。
途中からは、まず顔を見ることにした。
短い顔合わせが終わり、画面の向こうの人たちが仕事へ戻っていった。
福原が高瀬と、残る手続きを確かめる。
入社前から連絡を取り、準備してきたものが、今日の予定へ順に移っていた。
小坂は、営業部の予定を開いた。
三人で合わせていたところへ、瀬川の名前が入っている。
四月一日の入社で、カナメは二十六人になっていた。
役員を含めた二十五人に、新しく一人を迎えた春だった。
*
「最初の一週間は、こちらの予定で進めます」
小坂が、瀬川へ資料を渡した。
会社で使う連絡先と、仕事の案内。
営業の仕事を見る時間と、練習する時間が分かれている。
「今日は、松井さんと大本君の仕事を、少しずつ見てもらいます。分からない言葉が出てきたら、書いておいてください。その場でも聞いていただいて大丈夫です」
「はい」
「手続きのことは福原さんへ、営業の仕事のことは、まず私たちへ。すぐに返事ができないときは、話す時間を合わせます」
瀬川は頷き、聞いた名前の横へ、相談する内容を書いた。
松井が、見せるために用意した社内資料を開いた。
「先方へお話を聞きに行く前に、分かっていることと、当日聞きたいことを合わせています」
会社の事業と、窓口へ連絡したときの話。
そのあとに、聞きたいことが短く並んでいる。
「これを、先に全部聞くんでしょうか」
瀬川が尋ねた。
「話の流れで変わることもあります。先に答えていただけたら、同じことをもう一回聞く必要はないので」
「ああ、はい」
瀬川は、書きかけた文字の横へ、小さく足した。
松井は、その手が止まるのを待ってから、次へ移った。
大本は、顧客から届いた回答を、社内でどう共有するかを見せた。
「聞いたことの返事が来たら、次に作業する方へ渡します。この場合は、開発の方で確認するところがあったので」
見せてよい範囲を開き、回答と、その後の連絡を並べる。
「そのまま送るんですか」
「元の回答も付けます。ただ、どの確認への返事かは、こちらでも分かるようにしておきます」
瀬川が、メモの新しい行へ書いた。
大本は、次に開く資料へ手を動かした。
「こちらだと、そのあとに――」
「続きは、午後でもええんちゃいますか」
松井が言った。
大本が、瀬川の手元を見る。
まだ、さっきの説明を書いているところだった。
「あ、すみません。少し続けすぎました」
「いえ、大丈夫です」
瀬川が、急いで顔を上げる。
「いったん、ここまでにしましょうか」
小坂が言った。
「午前中に見たところも、あとで聞けますので」
「はい。ありがとうございます」
瀬川は、書きかけの一行を終えた。
ペンを置いてから、ようやく肩の力を少し抜いた。
*
昼は、営業部の四人で近くの店へ入った。
小坂が瀬川へ席を示し、松井がメニューを回す。
「こちら、どうぞ」
「ありがとうございます」
瀬川は受け取ったものを開いた。
昼の定食が、いくつか並んでいる。
小坂たちが注文を決める間にも、もう一度、上から読んでいた。
「ゆっくり決めて、大丈夫ですよ」
松井が言った。
「あ、はい。では、こちらで」
注文が済むと、大本が水を一口飲んだ。
「午前中だけでも、結構、名前が出てきましたね」
「はい。書いてたんですけど、途中から、追いつかなくなって」
「僕も、最初、どなたの話をしてるか分からないことがありました」
瀬川が、大本を見た。
「最初は、皆さんに教えていただいたんですね」
「はい。松井さんにも、小坂さんにも」
大本が二人を見る。
松井は、少し笑った。
「今も、合わせてますよ。先方へ何を聞くかとか」
「そうですね」
大本も頷いた。
「名前が分からなければ、それも聞いてください。同じ資料を開いて、どなたのことか確かめられますので」
「はい。お願いします」
瀬川は、ようやく自分の水へ手を伸ばした。
料理が運ばれてくると、机の端へ少し場所を空ける。
「今日、ここの場所は、すぐ分かりましたか」
小坂が尋ねた。
「建物の前までは、来られたんですけど。入る前に、案内をもう一回見ました」
「受付で伝える名前、書いてありましたね」
「はい。そこは、何回か読んでました」
言ってから、瀬川も少し笑った。
大本が、分かるという顔で頷いた。
食べ始めると、しばらく仕事の資料の話は出なかった。
瀬川は、午前中より少しゆっくり、尋ねられたことへ答えていた。
*
翌日、瀬川は、練習用の文面を開いていた。
打ち合わせの日程を合わせる返事を書く。
松井が用意した架空のやり取りだった。
実際の顧客へ送るものではなく、書いた下書きを社内で見てもらう。
相手から、候補の日時が二つ届いていた。
そのほかに、当日、何を用意すればよいかという質問がある。
瀬川は、宛名を書いた。
挨拶を入れ、候補日の一つを選ぶ。
そのあと、準備するものの返事を書こうとして、手を止めた。
渡された資料を、もう一度読む。
日程の条件はあったが、持ってきてもらうものまでは分からなかった。
しばらく考えてから、確認したいところへ印を付ける。
松井へ見てもらう時間まで、書けるところを直していた。
その日は、大本も一緒に下書きを見ることになっていた。
予定の時間になると、瀬川が画面を出した。
「こちらまで、書いています」
松井が読んだ。
「日付と時間は、こちらで合っていますね。ここの準備するものは」
「そこが、分からなくて。資料を見たんですけど、書いてあるところを見つけられませんでした」
「はい。そこは、確認してから返すところです」
瀬川は、松井の顔を見た。
「先に、聞いてもよかったんでしょうか」
「もちろんです。何を見て、何が分からなかったかを、教えていただければ」
大本も、下書きを開いた。
「ここに印があると、止まったところが分かりますね」
「全部、書いてから見ていただく方がいいと思っていたので」
「途中でも、大丈夫です。ただ、すぐに見られないこともあるので、今みたいに、聞きたいところを残しておいてもらえると助かります」
大本が言った。
瀬川は、下書きの横へ書き留めた。
「分からないところは、先に聞いてから書いてもいいんですね」
「はい。この場合なら、用意していただくものを、誰に確かめるかも合わせます」
松井は、練習用の条件を一つ足した。
瀬川がそれを読み、返事へ入れる内容を確かめる。
「そうすると、こちらは、この資料をお願いするんですね」
「はい。日程の返事と合わせて、書いてみてください」
瀬川は、下書きへ戻った。
書けずにいたところへ、短く文を入れる。
相手の質問をもう一度読み、返事が抜けていないかを見た。
大本は、松井と確認する時刻を合わせ、自分の顧客への連絡へ戻った。
瀬川も、次に見てもらう時間を、メモの端へ残した。
*
木曜日は、研修の予定に沿って、自宅から仕事を始めた。
前日、本町で連絡方法を確かめ、今日使う資料も開けるところまで見ていた。
瀬川は、予定の時刻に連絡を入れた。
松井から返事が届く。
『おはようございます。午前はこちらを進めてください。確認は、予定に入れた時間でお願いします』
瀬川は返事を送り、資料を開いた。
隣に座っている人はいなかった。
本町では、誰かが別の人と話す声も聞こえていたが、今日は、自分が操作する音だけがした。
渡された例を読み、別の日程調整の返事を書いてみる。
前に見てもらった下書きも、横へ置いた。
途中で、聞きたいところが出てきた。
相手が挙げた候補と、こちらで使える時間に、一部だけ重なりがある。
どこまでを、返事の中で示せばよいのか。
瀬川は、質問を書いた。
最初は「日程の返事について分からないところがあります」とだけ入れた。
読み直し、そこへ、どの候補のどこで止まったかを足した。
松井へ送る。
画面を見て待っている間に、次の資料を開きかけた。
返事が来た。
『今の確認が終わったら、見ます。少し後で話せますか』
時刻が添えられていた。
瀬川は予定を見て、その時間で大丈夫だと返した。
それまでに、聞きたいところを画面へ出しておく。
自分が書いた返事と、相手の候補を並べた。
どこまで書いたかも、分かるようにしておいた。
時間になると、通話がつながった。
「お疲れさまです。お待たせしました」
松井の声だった。
瀬川は、少し机へ近づいた。
「お疲れさまです。松井さん、こちらを見ていただいてもいいですか」
「はい。どこまで出来たか、見せてもらえますか」
画面を共有した。
瀬川が示したところを、松井も開く。
「この候補なら、始める時間を変えれば、こちらも空いているんです。ただ、先方が書いてくださった時間とは違うので」
「はい。こちらの都合と、先方へ確認したいことを、分けて書けそうですか」
瀬川は、下書きを読んだ。
「この時間でしたら伺えます、ということと、その時間に変えていただけるか、でしょうか」
「そうですね。先方がその時刻でもよいかは、まだ分かりませんので」
松井が、相手の文面を示した。
瀬川も、そこを見た。
返事へ書くことを、一つずつ確かめる。
「書き直して、もう一度送ります」
「お願いします。午後の確認までに、こちらでも読みます」
通話を終えると、部屋はまた静かになった。
瀬川は、松井へ尋ねたところをメモへ残した。
その横に、返事へ入れる内容を書く。
画面の向こうで見ていた人が、どこを読んでいたかも分かった。
瀬川は、開いたままの下書きへ戻った。
*
六日、金曜日。
小坂は、瀬川と最初の一週間を振り返っていた。
松井と大本から聞いた研修の進み具合と、瀬川自身が残した記録を合わせる。
「分かりにくかったところや、困ったところはありましたか」
「はい。言葉も、まだ覚えられていないものがあります。それから、何を見れば分かるのか、探すのに時間がかかりました」
「どのあたりでしたか」
瀬川が、自分のメモを開いた。
何度も書き足したところがある。
「こちらです。松井さんに教えていただいて、いまは、どこにあるか分かるようになりました」
「はい。ほかには」
「返事を書く前に聞いてもいいと分かってからは、止まったところを残すようにしています。まだ、どこまで自分で考えてから聞けばいいかは、迷いますけど」
小坂は、瀬川が書いた質問を読んだ。
「何を見て、どこで止まったかが分かると、こちらも一緒に見られます。迷ったときは、そのところも伝えてください」
「はい」
瀬川は、来週の研修予定を開いた。
次に見る仕事と、下書きを見てもらう時間が入っていた。
「こちらは、大本さんに見ていただくんですね」
「はい。松井さんも合わせて確認します。変更があれば、こちらから伝えますので」
「分かりました」
瀬川が、予定の横へ名前を書いた。
月曜日、顔を見ながら書き留めようとした名前だった。
通話のあと、小坂は松井、大本と翌週の予定を合わせた。
顧客へ返すものと、瀬川へ見せるもの。
どこで区切り、いつ確認するかを、それぞれの仕事の間へ置いていく。
瀬川は、今週作った下書きを、もう一度開いていた。
最初のものには、途中で付けた印が残っている。
そのあとに書いたものには、確認してから入れた返事がある。
入社前の案内を閉じ、その隣へ一週間のメモを置いた。
福原、小坂、松井、大本。
名前の横には、聞いたことと、その答えが少しずつ増えていた。
瀬川は、来週、確かめたいことを一つ書いた。
その下へ、相談する相手の名前も添える。
仕事を終える連絡を書き、送った。
少し後に、お疲れさまでした、と返事が届いた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、給与改定の話と、新人を迎える一週間を描きました。
岡元の「正直、少しは期待していました」という言葉には、仕事を認めてもらえた嬉しさと、給与にも期待した気持ちが重なっています。会社の事情を理解している人にも、残念さはある。その気持ちも残しておきたいと思いました。
そして、新しく営業部へ加わった瀬川悠真。名前を覚えるところから始まり、少しずつ、自分から相談できる相手が増えていきます。
最初は名前だけだったメモの横に、聞いたことと、その答えが増えている。そんな最初の一週間を書きました。松井や小坂に教わってきた大本が、今度は仕事を見せる側にいることも、嬉しく感じています。
二十六人になったカナメと、新しく働き始めた瀬川を、これからも見守っていただければ幸いです。
引き続き、よろしくお願いいたします。




