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カナメ -君はどう考える?-  作者: 旭月
第五章 守りたいもの
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ここだけの話

 一月四日、木曜日。


 上田は、机に置いた鞄から手帳を出した。

 休みに入る前に書いた付箋が、表紙の内側に残っている。


 一月十九日の引渡し。

 新しい案件の初回確認。

 二課の担当予定。


 順に予定表と照らし合わせていると、年末年始の監視について、申し送りの連絡が入った。

 休みの間も対応していた担当者から、確認した内容と、引き続き見ておく箇所が共有されている。


 上田は該当する記録を開き、必要な予定を足した。

 それから、業務部が更新した在籍の一覧を見る。


 二十五名。


 年末まで在籍していた三人の名前が、現在の一覧から外れていた。

 十二月のうちに聞いていたことだった。それでも、実際に更新されたものを見ると、一度手が止まった。


「上田君、おはよう」


 顔を上げると、西田が立っていた。


「おはようございます。今年もよろしくお願いします」


「こちらこそ。休めた?」


「はい。……最後の二日は、ちょっと予定を見てましたけど」


「俺も似たようなもんや」


 西田は笑った。

 上田も少し笑って、画面を予定表へ戻した。


「今日、少し時間もらえるかな。一課のことで、話したい」


「はい」


 上田は、西田が示した時間へ印を入れた。


     *


「二課長は続けてもらったうえで、一課長も兼ねてもらいたいと思ってる」


 小さな打ち合わせ机で、西田が言った。


 上田は、手元の紙へ目を落とした。

 両課の主な仕事と、それぞれの担当が載っている。


「金目とも、そういう方向で話はしてる。ただ、上田君がどう考えるかと、今の仕事をどう渡すかを、先に聞きたい」


「いつから、というのは」


「準備を見て決めたい。一月中に全部、という話にはせえへん」


 上田はうなずいた。

 一課側の欄を、指で追う。


 二課の予定なら、誰に何を聞けばよいかがわかる。

 ほかの仕事が重なったとき、どこを動かせるかも、前より見えるようになった。

 一課も一緒に見るとなれば、その範囲が広がる。


 紙の端に、自分が今持っている設計の仕事を書き足した。

 その下へ、確認の予定も並べる。


「難しそうか」


 西田に聞かれ、上田は顔を上げた。


「やってみたいです」


 口にしてから、もう一度、自分の書いたものを見た。


「ただ、今持っている実作業は、渡すところを決めたいです。これを全部持ったままやと、どっちも待たせると思うので」


「うん。そこは決めよう」


「あと、一課の仕事で、自分だけでは判断できないところもあると思います」


「案件の技術的な判断を、全部一人で持つ必要はない。誰に確かめるかは、今の担当と合わせていけばええ」


 西田は、上田が書き足した欄を見た。


「まず、ここやな。誰に、どこまで渡せそうか」


 上田は、紙を少し手前へ引いた。


「本人の今の予定も、見てみます」


     *


 翌日、上田は岡元と中野に時間を取ってもらった。

 画面には、新しい大型案件の初期検討に使う資料を開いている。


「ここから、ここまでの受け取り方を、岡元さんに考えてもらえへんかなと思ってます」


 拠点から届く表を受け取り、確認した結果を返す部分だった。

 全体の要件は、これから顧客と合わせていく。そのために、先に案を持っておきたい箇所がある。


「設計の方を、ということですか」


「うん。まだ決まってへん条件もあるから、それは分けて書いてほしい。そこも含めて、一度考えてみてもらいたい」


 岡元が、資料へ少し顔を近づけた。


「やりたいです。ただ、今持ってる修正が、来週の前半まであります」


「それ、今の見込みを聞いてもええ?」


 上田は、担当予定の方を開いた。

 岡元の話を聞き、確認する日を動かす。空いているところへ、そのまま新しい作業を詰めることはしなかった。


 中野には、受け取りをやり直すときや、途中で止まったときに、何を確かめる必要があるかを出してもらう。


「設計案を見てから、試験の条件を考える形でもいいですか」


「もちろん。案を作る途中でも、気になったところは話してもらってええです」


 上田は、最初に確認する範囲へ線を引いた。


「全部できてからやなくて、ここまでで一度見せてください」


 二人が戻ったあと、上田は自分の原案を開いた。

 まだ途中だったが、次にどうつなぐかは、頭の中にあった。

 今から手を入れれば、形にはできる。


 少し見てから、ファイルを閉じた。

 岡元へ渡した資料の方に、確認の予定を書き足した。


     *


 一月九日、火曜日。


 岡元が持ってきた案には、上田の原案にはなかった並びがあった。

 受け取った表の内容と、読み取った結果を、同じ画面で見比べられるようにしている。


 上田は、紙を手元へ寄せた。

 自分は、それぞれを別に開く形で考えていた。

 そちらの方が、画面をすっきりさせやすい。


「ここ、一緒に出すんやね」


「はい。読み取りで止まったときに、元の表のどこを見るか、探し直さなくて済むようにしたくて」


 岡元が、横へ置いた例を指した。


「先方に聞かないとわからない項目も、ありましたよね。そのときに、こちらで読み替えた結果だけやと、元がどう入ってたかをまた開くので」


 上田は、二枚を見比べた。

 確かに、確認する場所を行き来することになる。


「画面が狭いときは、どうするつもり?」


「そこは、まだ詰められてません。縦に並べるか、表示を切り替えるかで考えてます」


「切り替えたときに、見てた行がわからんようにならへんかも、見たいな」


「はい」


 岡元が書き込む横で、中野も自分の紙を出した。


「やり直したときに、前の結果と混ざらないかを確かめたいです。それと、まだ確認してないものが、確認済みに見えないか」


 上田は、一覧の状態表示を見た。


「ここは、もう少し分けようか。読み取れたことと、内容を確かめたことは、別に見えた方がええ」


「わかりました」


 岡元が線を引き直す。

 上田は、元の構成へ戻す説明をしようとしていた自分に気づいた。


 自分の案なら、次に何を作るかもわかっている。

 その方が、話は早い。

 けれど、岡元が出してきた案にも、ここで困る人を考えた理由があった。


「ここは、この形にしたい理由があるんやな」


「はい。確認して直したところも、自分で追えるようにしたいです」


 上田は、もう一度、資料の最初から目を通した。


「わかった。この案で進めて。表示が狭いときのところと、確認の状態を足したら、次に見せてもらえる?」


「はい」


 岡元は、紙を自分の方へ戻した。

 中野と、どの例を使って確かめるかを話しながら席へ帰っていく。


 上田の手元には、確認したことを書いた紙が残った。

 自分の原案を開き直そうとして、やめた。

 次に見る日を、予定へ入れる。


 自分で作っていたら、もう少し先まで進んでいたかもしれない。

 その続きが気にならないわけでもなかった。


 上田は、紙の端へ書いてあった自分の作業予定を消し、岡元へ確認する日を書いた。


     *


 一月十二日の午前、上田は西田と金目へ、移管の予定を説明した。


 誰に何を渡すか。

 今の担当を終える時期と、途中で確かめる箇所。

 一課側で、先に把握しておきたい仕事。


 金目は、両課の予定が並んだところを見ていた。


「二月一日から、ということで、上田さんはどうですか」


「はい。そのつもりで、進めたいです」


「ありがとうございます。担当の方にも、この予定で伝えていきましょう」


 西田が、一月中の打ち合わせについて付け加えた。


「今月の一課長は、俺が続ける。上田君には、まず両課で人が重なるところと、確認の順番を一緒に見てもらいたい」


「わかりました」


 一課と二課の予定を見比べ、上田は一件、確認する順番の変更を提案した。

 二課側で先に出せる資料を使えば、一課側の確認を待つ時間が短くなる。


 西田が現在の担当へ確かめ、変更することになった。

 上田は、その予定も書き入れた。


 席へ戻ると、岡元から連絡が来ていた。

 中野と確かめた例を、次の確認で見てほしいという。


 上田は返事を打った。

 添付された案は、最初に自分が考えていたものとは違う形へ進んでいる。


 確認する時間を返し、その画面を閉じた。

 次に開いたのは、西田から共有された、一課側の確認事項だった。


     *


 その二日前、一月十日の午後。


 大本は、会議室の時計を見た。

 打ち合わせの終わりまで、あと十分ほどだった。


「先に使う二拠点の方からは、なるべく早く、という声も出ています」


 顧客の担当者が言った。

 大本は、手元の議題へ目を落とす。


 十二月に、本部で見る実績は処理を終えた分とし、承認した数とは分けることを確認していた。


 ただ、その数え方で揃えられるか、まだ回答のない拠点が残っている。


 今日合わせたいのは、その確認先と、回答をもらえる日だった。


「ありがとうございます。早く使い始めたいというご希望は、こちらでも共有します。そのうえで、今日、もう一点だけ確認させてください」


 大本は、先方からもらった表の例を開いた。


「まだお返事をいただいていない拠点には、本部のご担当者から確認を回していただく形でよいでしょうか。回答を取りまとめる方も、決めておきたいです」


 顧客の担当者が、本部側で回答を取りまとめる人を挙げた。

 開発側からも、先に答えが必要な範囲が説明される。


 大本は、誰へ何を送り、いつ返答をもらうかを読み上げた。

 早く使いたいという話を、そのまま納期の約束には変えなかった。


「では、その一覧をいただいたら、こちらで回します」


「はい。打ち合わせの記録と一緒に、お送りします」


 終了の挨拶へ移る前に、顧客の担当者が画面の向こうから聞いた。


「今後、こういう確認は、大本さんへご相談すればいいですか」


「はい、私へお願いします」


 大本は答えた。


「開発側への確認も、こちらで合わせてお返しします」


「わかりました。よろしくお願いします」


 接続が切れ、会議室が静かになった。

 隣で、小坂が資料を閉じた。


「今日の残ったところ、送る前に一度見せてもらえる?」


「はい」


「日程に関わりそうな返事が来たら、そこは早めに合わせよう」


「わかりました」


 大本は、記録の該当箇所へ印を付けた。

 営業窓口を任せると聞いたときから、何を持つのかは話していた。

 それでも、顧客が自分の名前を確かめた瞬間には、背中が少し伸びた。


 次の返事は、自分へ届く。

 開いている記録の宛先を、もう一度確かめた。


     *


 会議室を片付けていると、金目が残った資料を持って戻ってきた。


「大本さん、先方へ送るもの、小坂さんと合わせてもらえますか」


「はい。今から見てもらいます」


「ありがとうございます」


 金目は、机の端へ寄っていた椅子を戻した。

 大本は手元の紙をそろえながら、声をかけた。


「社長、さっきの、早く使いたいという話なんですけど」


「はい」


「残っている確認の回答日を決めたいと言うたら、その分待ってもらう話に聞こえるやろなと思って。ちょっと、言い方を迷いました」


 金目が、大本の方を向いた。


「どうしようと思ったんです?」


「今日のうちに取りまとめる方と回答日を決めた方が、拠点ごとに聞き直すよりは早いと思いました。先方にも、次に進むまでに何が要るか見えるので」


「うん。次に何を待ってるかが、両方でわかる方がええですね」


「ただ、早く始めたいとおっしゃってるのに、こちらから止めるようにも聞こえたかなと」


 金目は、少し考えていた。


「僕も、取れたら早う進めたくなりますよ」


「社長もですか」


「なります。十二月の発注の返事、何回も見ましたし」


 大本は笑った。

 自分も同じだった。見たはずの返事を、帰る前にもう一度開いた。


「でも、今日聞けたことがあるんやったら、次に進むための話にはなってると思います。送るとき、その理由も添えてみましょうか」


「はい。そこも小坂さんに見てもらいます」


 話が終わり、金目が資料を持ち直した。

 大本は、椅子の背へ置いていた手を離した。


「社長」


「はい」


「今度、二人で飲みに行きませんか」


 金目が、少し目を上げた。


「相談ですか?」


「それもありますけど」


 大本は、言いながら少し照れた。


「もう少し、社長の話を聞いてみたいんです」


「僕の話ですか」


「はい。会議で聞くこと以外にも、いろいろ」


 金目は口元を緩めた。


「ほな、行きましょう。金曜日、どうです?」


「空いてます」


「僕も、予定を確かめて返しますね」


 大本はうなずいた。

 席へ戻る途中で、何から聞こうかと考え始めていた。


     *


 一月十二日、金曜日の夜。


 店の扉を開けると、焼いたものの匂いと、人の声が一緒に出てきた。

 金目が上着を脱ぎ、大本もその隣で鞄を置いた。


 二人用の小さな机だった。

 普段の打ち合わせなら、紙を広げるには少し狭い。

 大本は、鞄から手帳を出しかけて、やめた。


「何にします?」


 金目が飲み物の欄を向けてきた。


「最初、ビールにします」


「僕も、それで」


 食べ物を選ぶ段になると、大本はまた金目の方を見た。


「苦手なものとか、あります?」


「この辺やったら、大丈夫です。大本さん、食べたいもの頼んでください」


「ほな、これと……唐揚げも、いいですか」


「もちろん。僕も食べます」


 注文を済ませると、少しだけ会話が途切れた。

 会社では、向かい合って座れば、どちらかが資料を出す。

 今日は机の真ん中に、取り皿が二枚あるだけだった。


 先に、金目が笑った。


「何か、面接みたいになってますね」


「すみません。誘ったの、僕なんですけど」


「謝らんでええですよ。僕も、何から話したらええんかなと思って」


 飲み物が来た。

 二人でグラスを持つ。


「今年も、よろしくお願いします」


「こちらこそ。お疲れさまです」


 大本は、一口飲んだ。

 冷たいものが喉を通り、肩のあたりが少し緩んだ。


 最初は、今日訪ねた顧客の話になった。

 帰りの乗換えで反対側の階段へ上がってしまい、もう一度降りたことを話すと、金目が笑った。


「ありますね。急いでるときほど、やるんですよ」


「そうなんです。合ってるつもりやから、途中まで気づかなくて」


「着いてから、思ってた出口と違う、というのも」


「それも、今日やりました」


「両方ですか」


 大本も笑った。

 皿が運ばれてきて、机の上が少しずつ埋まる。

 金目は、自分の取り皿へ料理を移してから、箸を持ち直した。


「年明け、忙しいですね」


「はい。でも、今の忙しさは、うれしいです」


 大本は答えた。


「十二月の返事、僕も何回も見ました」


「ああ。やっぱり」


「はい。帰る前にも、開きました」


「一緒ですね」


 金目がグラスを持った。

 大本は、その顔を見てから聞いた。


「社長、あの案件、最後まで、取れると思ってました?」


「取れてほしかったです」


「それは、僕もです」


「そうですよね」


 二人で笑ったあと、金目が続けた。


「取れると思うところと、まだわからんなと思うところを、行ったり来たりしてました」


「最後の条件を合わせたあともですか」


「はい。先方で決めてもらうまでは、わからないので」


 大本はうなずいた。

 自分も、連絡を待つ間は、別の仕事をしていても気になっていた。


「僕、先方が迷ってると、もう少し何か出せへんかなと思うんです」


「条件を、ですか」


「はい。ここまでならできます、って。取れるところまで来てるのに、そこで止まったら、と思って」


 金目は、箸を置いて聞いていた。


「今回も、早く使いたいという話はありましたし。できることを増やしたら、その分、決めてもらいやすくはなると思うんです」


「うん」


「でも、取らんかったら、次の仕事がなくなるんですよね」


 金目は、すぐには答えなかった。

 グラスの外に付いた水を、指で少し拭った。


「そこは、僕も怖いです」


 大本は顔を上げた。


「仕事が欲しいときに、ここまではやります、って言いたくなる。僕も、ありますよ」


「社長でも、ですか」


「社長やから、余計に言いたくなることもあるんちゃいますか。取れたら、次の予定が埋まるので」


「……はい」


「ただ、そこで増やしたことを、僕が全部作るわけやないでしょう」


 金目は、机の空いているところへ片手を置いた。


「誰かに頼むことになる。その人が今やってる仕事も、あるんですよね」


 大本は、水曜日の打ち合わせを思い出した。

 早く使いたいと言われたときに、開発側の予定表が頭に浮かんだ。


「一月十九日に渡す方も、動いてますもんね」


「ええ。そちらも、待ってもらってる仕事です」


「じゃあ、追加で何か言われたら、全部持ち帰る方がいいんですか」


「全部そうしたら、大本さん、返事を運ぶだけになってしまいますね」


 金目が言い、大本は少し笑った。


「それも、やりにくいです」


「でしょう。自分で答えられるところは、答えてもらいたいです。ただ、何を動かす話なのか、わからんまま約束はしたくない」


 大本は、取り皿に残っていたものを食べた。

 少し考えてから、箸を置く。


「先方が欲しいものを、もう少し聞く、ですかね」


「どういうことです?」


「早く使いたいって、おっしゃってましたけど。全部の機能を早く、ということなのか、本部へ送る前の確認が早くできたらいいのかで、違うと思うので」


 金目がうなずいた。


「そこは、聞いてみたいですね」


「それやったら、ただ納期を詰める以外にも、案を出せるかもしれません」


「はい。その案で、ほかの仕事がどうなるかも合わせて見たいです」


「小坂さんと、開発の方にも」


「ええ」


 金目は、残っていた料理の皿を大本の方へ少し寄せた。


「先に食べましょうか。冷めてしまう」


「あ、はい」


 大本は箸を取った。

 話すことを考えている間に、唐揚げが一つ残っていた。


「これ、社長、どうぞ」


「大本さんが頼んだんでしょう」


「社長も食べるって、おっしゃってましたし」


「ほな、いただきます」


 金目が取った。

 大本は、空いた皿を机の端へ寄せた。


     *


 三杯目を頼む頃には、金目の頬が少し赤くなっていた。

 上着を脱いだあとも締めていたネクタイを、指で緩めている。


「大本君、今日、よう歩いたんやろ。これも食べといて」


 残っていた料理の皿が、また大本の方へ寄ってきた。


「社長も食べてくださいよ。さっきから、僕の方ばっかりです」


「食べてるよ。唐揚げも、もろたし」


「それ、一つ前の皿です」


「ああ、そうか」


 金目が笑った。

 大本も笑いながら、皿を二人の真ん中へ戻した。


 最初は金目が箸を置くたびに、自分も置いていた。

 今は、話の途中でも料理を取り、飲み物を口へ運んでいる。

 向かいの金目も、店員へ追加を頼んだあと、話していたことを大本へ聞き返した。


「何の話やったっけ」


「十二月の返事、何回も開いたっていう」


「ああ、そうそう。あれは、うれしかったなあ」


 語尾が、会社で聞くときより長かった。

 金目は届いたグラスを持ち、小さく笑ったまま飲んだ。


「僕、七月の給与のときも、明細、何回か開きました」


 大本が言うと、金目の手が止まった。


「ああ……。うん」


「入ってるのはわかってるんですけど。もう一回、見てしまって」


「そうやな。あれは、待ってもろたからな」


 大本は、七月の集会を思い出した。

 金目は、必要な資金を確保したと話した。

 翌日の給与は払う、と。


「あのとき、ほんまに、ほっとしたんです」


「うん。僕も、あの日はなあ……」


 金目はグラスを置き、空いた小皿を端へ重ねた。

 皿の底が取り箸に当たり、少し音がした。


「自分の分も会社へ回して、あれが間に合って。ほんま、やっと……」


 言いながら、取り箸を脇へよける。

 大本は、動いていた金目の手を見た。


「……自分の分、ですか」


「ん?」


 金目が顔を上げた。

 大本は、返事を待った。


「社長のお金を、ということですか」


 金目の手が、小皿の上で止まった。


「あ」


 それだけ言って、大本を見た。

 口を開きかけ、一度閉じる。

 隣の席から、笑い声が上がった。


「……そこまで、言うつもりやなかったんやけど」


 金目は小皿から手を離し、緩めたネクタイへ指をやった。

 少し困ったように笑ってから、大本の方へ顔を寄せる。


「……今の話、ここだけにしといてな(ニッコリ)」


「はい。それは、もちろん」


 大本が答えると、金目は小さくうなずいた。

 何か続けようとしたようだったが、結局、グラスへ手を伸ばした。

 持ち上げる前に少し考え、横にあった水を一口飲む。


 大本も、すぐには次の言葉が出なかった。


 あの日、前に立っていた金目の顔を思い出す。

 資金を確保した。

 給与を払う。

 聞いたのは、その報告だった。


 どこから持ってきたのかまでは、知らなかった。


 大本は、机へ置いたままの自分の手を見た。

 額を聞こうとして、やめた。

 代わりに、顔を上げた。


「怖くなかったんですか」


「怖かったですよ」


 返事は、思っていたより早かった。

 金目は、笑っていなかった。


「これで、もう大丈夫やって思えたわけでもないので」


「払えるようになっても、ですか」


「ええ。その日を越えたら、次がありますから」


 金目は、グラスの位置を少し直した。


「払えたことは、うれしかったです。それは、ほんまに。でも、帰ったら、次はいつまでに何をせなあかんか、また考えてました」


 大本は、黙って聞いた。

 集会のあと、自分は次の仕事へ戻った。

 給与を払うと言ってくれた人も、そのあと同じように机へ戻っていた。


「社長、あのとき、普通に話されてたんで」


「普通に見えてました?」


「はい。僕からは」


「ほな、話すところまでは、何とかなってたんですね」


 金目が少し笑った。

 大本も口元を緩めたが、すぐには声にならなかった。


「ずっと見通しがあって、前に立ってるんやと思ってました」


「見通しを立てようとはしてましたよ。ただ、そのとおりになるかは、また別で」


「……そうですよね」


「僕が不安になったらあかん、ということでもないんでしょうけどね。あのときは、まず、何を話せるかを三宅さんたちと確かめてました」


 大本はうなずいた。

 金目の指が、グラスから離れた。


「大本さんも、あの頃、いろいろ考えたでしょう」


「考えました」


 大本は答えた。

 自分のことも、今の仕事をどうするかも。


 そのことを口にする前に、金目がうなずいた。


「そうですよね」


 続きを急かされなかった。

 大本は、少し息をついた。


「今日聞いたからって、あのとき不安やったのが、悪かったことになるわけではないですよね」


 言ってから、少し強すぎたかと思った。

 けれど、金目は首を振った。


「なりませんよ。給与のことなんですから」


 大本は金目を見た。


「僕が何をしたかとは、別の話です」


「……はい」


 返事をしてから、大本はようやくグラスを持った。

 一口飲んだが、もう最初ほど冷たくはなかった。


     *


「役員報酬も、まだ返上されたままですよね」


 大本が聞くと、金目はうなずいた。


「ええ。そっちも、まだ戻してません」


 年末の報告でも、聞いていたことだった。

 そのときは、会社の支払いと、受注した仕事の話の中で聞いた。

 今は、向かいにいる人の顔を見ている。


「社長、ご自分の方は大丈夫なんですか」


 金目は、すぐに大丈夫とは答えなかった。

 机へ目を落としてから、少し眉を上げた。


「僕も、ちゃんともらえるようにはしたいですよ」


 大本は、顔を上げた。


「働いてるんですからね、そこは僕も」


 金目が、ようやく笑った。

 大本も、今度は声を出して笑った。


「そうですよね」


「はい。そこまで、いらんようになったわけではないです」


「社長、あんまりそういう話されへんので」


「会社で、僕も欲しいですって言うて回るのも、変でしょう」


「それは、まあ」


 二人で笑った。

 金目は水を頼み、大本にもいるかと聞いた。

 大本はうなずいた。


 店員が空いた皿を下げていった。

 机の真ん中に、丸い水滴の跡が残る。


「いつ戻すかは、まだ決めてません」


 金目が言った。


「でも、戻せるようにはしていきたいです。会社の方も、僕らの方も、ずっとこのままでええとは思ってません」


「はい」


 大本は、水の入ったグラスを受け取った。


 大きな仕事が取れたら、それで一つ、片が付くように思いたかった。

 実際、十二月の返事をもらったときは、うれしかった。

 それは今も変わらない。


 ただ、その仕事を取った社長は、まだ報酬を戻せていない。

 会社へ回したという金が、今どうなっているのかも、大本は知らない。


 聞けば、また答えてくれるのかもしれなかった。

 けれど、今夜、全部を聞きたいわけではなかった。


「社長」


「はい」


「次の提案のとき、僕、取れたらどうなるかを、もう少し考えてから持っていきたいです」


 金目は、大本を見ていた。


「今も、考えてもらってますよ」


「はい。ただ、金額と予定だけやなくて。先方の確認が遅れたら、どこが止まるかとか、ほかの仕事をどこまで動かすことになるかとか」


「うん。それは、一緒に見たいです」


「もちろん、取る方も、ちゃんとやりますけど」


「そちらも、ぜひお願いします」


 金目が笑った。

 大本も笑って、水を飲んだ。






     *


 時計を見ると、思っていたより時間がたっていた。

 金目が、追加で何か食べるかと聞いた。

 大本は少し迷い、小さなご飯ものを指した。


「まだ、いけます?」


「歩いたので」


「今日は、階段も多かったですしね」


「それ、今言います?」


 大本が言うと、金目が笑った。

 自分でも笑いながら、注文を頼む。


 最後の料理が来るまで、話は仕事から離れたり、戻ったりした。

 途中で、大本は聞こうと思っていたことを一つ思い出した。


「社長、人に任せたあとで、自分でやった方が早かったなって思うこと、あります?」


「ありますよ」


「やっぱり、あるんですね」


「大本君も、ある?」


「あります。説明してる途中で、僕が返事を書いた方が早いなって」


「それで、書いてしまう?」


「書いてしまうときも、あります」


 金目は、少し首を傾けた。


「どんな返事?」


 大本は具体的に説明しようとして、机の上を見た。

 紙も、画面も出していない。

 金目も同じところを見て、笑った。


「また、長くなりそうですね」


「はい。まだ聞きたいこと、あります」


「一晩では終わりませんね」


 料理が運ばれてきた。

 大本は箸を取る前に、顔を上げた。


「また、誘ってもいいですか」


「もちろん」


 返事を聞いてから、手を合わせた。


 店を出ると、冷たい空気が頬に当たった。

 大本は上着の前を閉め、金目と駅へ向かった。


 月曜日には、先方へ返す連絡がある。

 小坂と合わせる提案も、開発へ確かめることもある。

 今日聞いた話を、誰かへ話すつもりはなかった。


「ほな、僕はこっちやから」


 分かれ道で、金目が言った。


「はい。今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ。誘ってくれて、ありがとう」


 金目が軽く手を上げた。

 大本も頭を下げ、歩き出した。


 少し先で、信号が赤になった。

 立ち止まり、駅の方を見る。


 次に一緒に飲むときには、今日の案件がどこまで進んだかも話せるだろう。

 うまくいったことばかりには、ならないかもしれない。

 それでも、自分の考えを持って、また聞いてみようと思った。


 信号が青に変わった。

 大本は鞄を持ち直し、横断歩道へ踏み出した。

お読みいただきありがとうございます。旭月です。


新しい年を迎え、上田は自分の仕事の一部を渡し、大本は自分の名前で相談を受ける立場へ。一人でできることを増やしてきた二人が、それぞれ次の一歩を踏み出しました。


そして、初めて二人で飲んだ夜。

普段なら口にしないことも、お酒が入ると、ついこぼれてしまうことがあります。


社長だからといって、怖くないわけでも、自分の暮らしが気にならないわけでもない。そんな金目の言葉を、大本が少しだけ聞けた夜でした。


全部を話せなくても、少しこぼせる相手がいる。

金目にとっても、そんな時間になっていたらと思います。


次回もよろしくお願いいたします。

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