崩れた前提
2034年10月13日、金曜日。
午後五時。
西田は、机の向こうの田村を見ていた。
十一月末で退職したい。
そう言った田村は、視線をそらさなかった。
「……次は、決まっとるんか」
「条件は、確認しました」
田村は膝の上で手を重ねた。
「開発チームを見る仕事です。管理だけやなくて、設計のレビューや、技術の判断もしてほしいそうです」
「……そうか」
「今の仕事が嫌になったわけではないんです」
そこまで言って、田村は口を閉じた。
西田は続きを待った。
「最近、開発に入る時間が増えたでしょう。若い子と考えるのも、おもしろかったんです。もう少しやりたいと思ってました」
「うん」
「せやけど、家で先の話になったときに。今月は払える、来月も何とかなる。それより先のことを、自分も言えなかったんです」
会議室の外で、椅子を引く音がした。
「会社が何もしてへんとは思ってません。金目さんが走り回ってたのも知ってます」
「……うん」
「それでも、別の選択肢があるうちに、考えとかなあかんと思いました」
西田は、机に置いていたペンを持った。
何かを書こうとして、また置いた。
「残ってほしい。それは、正直ある」
田村が小さくうなずいた。
「上田も、これからやしな」
「……すみません」
「いや」
西田は首を振った。
「上田のことを理由に、お前に残れとは言えんわ」
田村は、重ねた手を少しほどいた。
「十一月末までは、今の仕事をちゃんと整理したいと思っています」
「頼む。何を渡せるか、月曜に一緒に見よう」
「わかりました」
「金目には、俺から話してええか」
「はい。高瀬さんにも、手続きのお話をしないと」
「一課には、そのあとで相談しよう。上田にも、先に伝えといた方がええと思う」
田村はうなずいた。
西田は予定表を開き、月曜日の午後に田村の名前を入れた。
今朝まで、その時間は来月の人員配置を考えるために空けていた。
*
十月十六日、月曜日。
午前中、西田は金目に田村の話を伝えた。
金目はしばらく黙っていた。
「……十一月末か」
「うん」
「本人は、もう決めとるんやな」
「そうやと思う。条件も確認しとる」
金目は机の端にあった組織表を手元へ寄せた。
開発一課長、田村洋介。
開発二課長の欄は、今月から上田の名前になっている。
「一課は、どうする?」
「午後から仕事を洗い出す。今すぐ、次はこいつやとは言えん」
「……上田君に、両方というわけにはいかんやろな」
「二課を持ったばっかりや。そっちが回り始めたところで、また動かしたくない」
「せやな」
金目は組織表を置いた。
「田村の仕事を、全部そのまま誰か一人に渡すんか?」
西田は、顔を上げた。
「それも含めて、見直すつもりや」
「今の課の分け方もか」
「人数が変わっとるからな。ただ、課をまとめたら、それで管理が減るわけでもない」
金目はうなずいた。
「名前を埋める前に、何を持つ席なんか見ようか」
「……そうする」
部屋へ戻った西田は、組織表の田村の名前を消さなかった。
その横に、十一月末、と鉛筆で書いた。
*
午後二時。
田村が持ってきた一覧には、案件名と担当者、それぞれの進捗が並んでいた。
「日々の進行は、これで見えると思います」
西田は画面を追った。
「この顧客への説明は、誰がやっとる?」
「今は自分がやっています。担当も同席してますけど、変更の相談はこちらに来ます」
「理由は?」
「最初の見積もりで、どこまで含めるか話しましたので。途中で担当が代わっているところもあります」
西田は、一覧の右に列を一つ追加した。
顧客との合意。
「議事録は残っとるか」
「あります。ただ、これだけ読んでも、何でその範囲にしたかはわからないと思います」
「そこも頼む」
田村が手元のノートを開いた。
「全部、詳しい資料にする時間はないと思います」
「せやな。後で判断に困りそうなところからでええ」
二人は、予定どおり進んでいる案件より、途中で条件が変わった案件を先に拾った。
顧客が急いでいる理由。
今回は見送った機能。
担当者だけでは決めず、田村へ相談している事項。
一覧の行は増えなかった。横に並ぶ欄が増えていった。
「技術の方は、岩田が見とるところもあるな」
西田が言った。
「はい。設計で迷ったときは、入ってもらっています。上條も、担当案件と若手のレビューを見ていますし」
「二人の意向も聞かなあかんな」
「課長の話ですか」
「それも含めてや。ただ、レビューができるから課長も、とは言えん」
田村はうなずいた。
「上條も、今の仕事を持ったままなら、何を増やせるかという話になりますね」
「先に決めてから頼むんは、やめとく」
西田は別の欄に、評価面談、と書いた。
案件表には載っていなかった仕事だった。
「これ、いつまで進んどる?」
「今月の面談は、予定を入れています。十一月以降は、まだです」
「そこは俺も入る。途中から見て、最後だけ評価する形にはしたくない」
田村は予定表を開いた。
面談の日を確認しながら、西田も自分の予定を動かした。
空いていた時間が、一つずつ埋まっていく。
西田は、一覧の上へ戻った。
「この定例は、毎週要るんか」
田村は、会議名を見た。
「進捗の確認だけなら、担当同士で済む週もあります。ただ、止まったときに相談する場がなくなると困るんで」
「ほな、毎週全員を集めるんやなくて、判断が要るものを先に出してもらおうか」
「それなら、今週から試せます」
田村は予定を消さず、議題の出し方を変えると書き添えた。
引継ぎだからといって、残っている予定を全部守る必要はなかった。
ただ、消したあとの仕事が誰かの机へ隠れてしまえば、同じことだった。
「顧客との打ち合わせは、次から担当にも説明してもらいます。自分は横で補足する形にします」
「頼む。引継ぎのための会議を別に増やすより、その方がええ」
田村はうなずき、顧客へ連絡する事項をノートに書いた。
画面の一覧だけでは、まだ担当者を代えられない。
それでも、次の打ち合わせで何を変えるかは決まった。
「西田さん、これ全部入れたら、ご自分の仕事はいつやるんですか」
「……せやな」
西田は、追加しかけた予定を一つ戻した。
「まず、同席が要るものを絞ろう」
*
十月十七日、火曜日。
午後、西田は上田を会議室へ呼んだ。
田村の退職予定を聞くと、上田は開きかけたノートから手を離した。
「……田村さんも、辞められるんですか」
「十一月末の予定や。本人と話して、先にお前には伝えとこうとな」
「そうですか」
上田は机の上を見た。
課長になることを引き受けたとき、困ったら相談すればいいと言ってくれた人だった。
「……一課は、どうなるんでしょうか」
「まだ決まってへん。俺が当面見る方向で、仕事を整理しとる」
「僕の方でも、何か」
そこまで言って、上田は止まった。
ノートには、今週の二課の予定が書かれていた。
顧客への確認。納品前のレビュー。岡元と中野に任せた作業の確認。
どれも、終わった仕事ではなかった。
西田はそのノートを見て、言った。
「二課が回っとるのは、お前がちゃんと見てくれとるからや。その土台まで動かすつもりはない」
「……はい」
「今の仕事を見たうえで、協力できることがあったら相談してほしい」
上田は少し考え、ノートをめくった。
「二課で使っている、レビュー前の確認項目があります」
「うん」
「案件によって違いますけど、共通するところは一課でも使えるかもしれません。田村さんに、一度見てもらってもいいですか」
「ええと思う。ただ、資料を直すのにどれだけ時間が要るか、先に見てな」
「わかりました。まず、今あるものを共有します」
上田は予定表へ新しい会議を入れる代わりに、資料の保存先をメモした。
*
十月十八日、水曜日。
午前中、開発一課の社員たちが会議室に集まった。
田村は、十一月末で退職する予定を伝えた。
説明が終わっても、すぐには質問が出なかった。
西田は、並んだ顔を見ていた。
「……次の課長は、どなたになるんですか」
一人が尋ねた。
田村が西田を見た。
「そこは、まだ決まってへん」
西田が答えた。
「当面の管理責任は俺が持つ方向で考えとる。今の担当と仕事を確認して、体制は改めて説明する」
「案件で判断が必要なときも、西田さんへ相談するということですか」
「相談先が宙に浮くことはないようにする。ただ、全部を俺一人に集める形にはしたくない。田村がおる間に、案件ごとに決める」
別の社員が手を上げた。
「評価の面談は、どうなりますか」
「田村と予定を確認しとる。途中の話が切れんように引き継ぐ。今、相談したいことがある人は、予定どおり田村に話してほしい」
田村もうなずいた。
「十一月末までは、おるからな。先の担当が決まってへんからって、今の相談を止めんでええ」
上條が手元の資料から顔を上げた。
「引継ぎのために、今の担当を動かす可能性もありますか」
「ある。ただ、仕事だけ増やすつもりはない。今持っとるものと、これから何をしたいかも聞かせてほしい」
「わかりました」
西田は、個別に話す時間を取ると伝えた。
会議が終わり、社員たちは席へ戻った。
田村の周りに二人が残った。
話していたのは、今日中に顧客へ返す資料のことだった。
退職予定を伝えたあとも、田村の返事を待つ仕事があった。
*
午後、金目、西田、小坂、高瀬は、受注予定の一覧を開いていた。
小坂が、一つの行を示した。
「こちらは、来週までに着手時期の回答を求められています」
「今の見積もりには、誰が入っとる?」
西田が尋ねた。
「田村さんに確認していただいた案です。担当の人数は、こちらです」
西田は、人数の欄から工程へ視線を動かした。
「この確認、十二月にもあるな」
「はい。顧客側の担当者と、仕様を詰める予定です」
「田村が抜けたあとの担当が、まだ置けてへん」
小坂は資料に印を付けた。
「作業担当が空いていても、このまま日付は返せないということですね」
「そうやな。判断する人も要る」
金目が、西田の方を見た。
「残っとる仕事を、残る人でどう続けるかやな。人数だけやなくて、誰が何を判断できるかも見よう」
高瀬は、外注候補の費用欄を開いた。
「外へお願いする場合も、確認するのは社内です。受入れや顧客との調整まで、なくなるわけではありません」
「支払いは?」
「こちらの案では、顧客からの入金より先になる部分があります」
金目は、金額と日付を見比べた。
「それも入れて比べましょう。頼めるから頼む、だけでは決められませんね」
「はい」
小坂は顧客への回答期限を一覧に足した。
「では、着手日を約束する前に、必要な判断と担当者を西田さんに確認します。回答まで時間が要るものは、こちらからお客様へ連絡します」
「頼む。期限ぎりぎりに持ってこられると、確認が間に合わんこともある」
「最初の相談の段階で、入れるようにします」
既に約束している仕事は、別の欄へ分けた。
そちらは、会社の都合で予定を消すことはできなかった。
変更が必要なら、何を伝え、いつ合意を得るかから考えなければならない。
西田は、次の行へ進んだ。
そこには、既存顧客からの小さな追加依頼があった。
以前なら、担当者の予定を見て、その場で受けられると答えていたかもしれない。
「これも、同じ確認に載せますか」
小坂が尋ねた。
西田は内容を読んだ。
「毎回俺を通す形にはしたくないな。この範囲なら今の担当で判断できる、という線を決めよう」
「その線が決まるまでは?」
「迷うものだけ、一度上げてもらう。全部止めんように、先にそこを整理する」
小坂は、一覧の上に確認事項を足した。
新しい手順を一つ作ると、別の場所で待つ時間も生まれる。
金目は、その欄を指した。
「西田の返事待ちが何件あるかも、見えるようにしよう。詰まったら、そこから変えなあかん」
西田は苦笑して、うなずいた。
「俺の机で止めたら、何のために分けたかわからんな」
高瀬が確認日を入れた。
決めた方法を、そのまま年末まで続ける予定にはしなかった。
*
十月十九日、木曜日。
午後、岩田が会議室へ入ってきた。
西田は、担当案件とレビューの一覧を机に置いていた。
「今、どこに時間を使っとるか、一緒に見たいんやけど」
「はい」
岩田は座ったが、資料へは手を伸ばさなかった。
「その前に、お話ししておきたいことがあります」
西田は顔を上げた。
「……うん」
「十一月末で、退職したいと考えています」
西田の指が、一覧の端で止まった。
「……十一月末か」
「はい」
岩田は静かに答えた。
西田は椅子へ座り直した。
「前から、考えとったんか」
「社外の仕事を調べ始めたのは、少し前です。田村さんのお話を聞いて決めたわけではありません」
「……そうか」
「家でも相談しました。この先、どう働くかを考えて、別の場所へ進もうと思っています」
岩田の声は、普段レビューで説明するときと同じだった。
西田は何度か口を開きかけた。
残ってほしい。
田村と同じ時期に抜けられると困る。
どちらも、本当だった。
「意思は、固いんやな」
「はい」
西田はうなずいた。
「……わかった。手続きも含めて、高瀬さんと相談しよう。金目にも、俺から伝えてええか」
「お願いします」
「一課へ伝える時期は、別に相談させてほしい」
「はい」
西田は、机の上の一覧へ目を落とした。
設計確認。改修方針のレビュー。既存の処理への影響確認。
違う案件の欄に、同じ名前が並んでいる。
岩田健太。
「……ここ、後任に資料を読んでもらうだけで判断できるか」
岩田は一覧を手に取った。
「この案件は、難しいと思います」
すぐに一つを指した。
「今の実装だけを見ると、直した方がよく見える部分があります。ただ、以前の変更で残した理由があるので」
「それ、記録は?」
「当時のものはあります。判断に必要なところを探すのに、時間はかかります」
西田は、引継ぎ欄に印を付けた。
「ここから頼めるか。資料だけやなくて、次に見る人と一緒に確認してほしい」
「わかりました。今の担当者も入れた方がいいです」
「そうやな」
「それと、私が見なくても担当者同士で確認できるものもあります。そこは分けます」
岩田はペンを取り、一覧へ小さく印を付け始めた。
西田は、その手元を見ていた。
難しいところを岩田へ渡す。
これまでは、それで次へ進めた。
今は、岩田へ渡していたものを、一つずつ戻して見ていた。
「これまで、どこまで聞かれとった?」
西田が尋ねた。
「変更していいか、という聞かれ方が多いですね」
「理由を聞く前に、答えを求められるんか」
「時間がないと、そうなります。ただ、こちらから理由を聞けば、担当者が自分で気付くこともあります」
岩田は別の行を指した。
「これは、そのやり方で進められそうです。今も、最後の確認だけ私が入っています」
「ほな、同じ扱いにはせん方がええな」
「はい。全部を難しい案件として渡すと、受け取る方も困ると思います」
西田は印の意味を欄外に書いた。
引継ぎに立ち会う必要があるもの。
担当者へ確認の仕方を渡せば進むもの。
その区別を付けることも、岩田が普段からしていた仕事だった。
「十一月末までに、全部済むとは言えません」
岩田が言った。
「わかっとる。終わらんものを、終わったことにはせんでええ」
「途中のものも、どこまで確認したかは残します」
「頼む」
岩田は一覧をそろえた。
西田は、引き止める言葉を探す代わりに、次に二人で見る日を決めた。
*
十月二十日、金曜日。
午後の会議で、岩田の意向を聞いた金目は、手元の紙を置いた。
「……岩田さんもか」
西田はうなずいた。
高瀬が、人数の見通しを更新した。
「十一月末の退職希望は、これで三名になります」
十月十日に申し出た社員。
田村。
岩田。
三宅が、それぞれの手続きの進捗を確認した。
「退職希望日と、最終出勤日の予定は別に確認します。引継ぎのために使える日数も、部署へ伝えます」
「お願いします」
高瀬は別の表を示した。
「十月末は三十二名の見込みです。現在の申し出を反映すると、十一月末は二十九名となります」
金目は、その数字を見た。
三十人を切る。
少し前まで、四十人の会社だった。
「西田、一課の方は」
「暫定で俺が見る方向は、変わらん。ただ、それで技術の判断まで全部持つんは無理や」
西田は二枚の資料を並べた。
一枚は、田村と整理している仕事。
もう一枚は、岩田と確認を始めたレビューの一覧だった。
「田村の方は、顧客と何を約束したか、何を調整しとるか。岩田の方は、どこで判断が要るか、その理由まで残してもらう」
「渡す相手は?」
「来週、今の担当と負荷を確認して決める。まだ決められへんものも、分けて出す」
金目は二枚の資料を見た。
「部長の仕事を減らさずに、全部足すことにはせんでな」
「……わかっとる」
西田は、一課の後任欄を指した。
「ここに誰かの名前を書けたら終わりやと思いかけとった。でも、それだけでは足らん」
三宅は、退職手続きの表を閉じた。
「面談や引継ぎの日程が決まったら、こちらでも確認できるようにしてください。手続きの日と重ならないようにします」
「助かる」
高瀬は、外注費の見通しを西田へ渡した。
「水曜に確認した案件も、こちらの条件と合わせて確認しましょう」
金目がうなずいた。
「来週、割り当てを見て、受け方を変えなあかん仕事を決めよう」
「うん」
会議が終わる頃、窓の外の光は弱くなっていた。
席へ戻った西田は、二課の予定を確認した。
上田から、今週の報告が届いている。
顧客への回答と、次の確認事項。担当者の名前。
予定どおり進んでいた。
西田は短く返事を送り、その画面を閉じた。
一課の資料へ戻る。
課長の後任欄は、まだ空いている。
技術レビューの担当欄にも、空白が増えることになる。
西田は、空いている欄に自分の名前を並べる代わりに、隣へ列を作った。
引継ぎ前に、一緒に確認すること。
岩田が最初に指した案件名を、一行目へ写した。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、田村と岩田の退職の申し出を受け、開発部の体制を考え直す西田の姿をお届けしました。
上田への引き継ぎは、予定どおり進みました。
二課の仕事も、きちんと回っています。
それでも、その体制を支えてくれるはずだった人が去るとなれば、考え直さなければならないことが出てきます。
田村が顧客と交わしてきた約束。
岩田が技術的な判断をするときに確かめていたこと。
担当表に名前を一つ書くだけでは、渡しきれないものがあります。
一方で、辞める人にも、それぞれの生活と、この先の仕事があります。
残ってほしいという気持ちと、その選択を尊重したいという気持ちは、簡単には整理できません。
西田も、まだ一課の後任を決められていません。
今回は、空いた欄を自分の名前で埋める前に、何を引き継ぐ必要があるのか、もう一度見直すところで区切りました。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




