新しい課長
2034年10月2日、月曜日。
大阪・本町。
株式会社カナメの開発部では、週明けの案件確認が始まろうとしていた。
壁の組織表には、新しい名前が載っている。
開発二課長、上田拓海。
九月末で退職した尾崎に代わり、十月一日付で正式に就任した。もっとも、八月から引き継ぎを始め、九月中旬には日常業務の移管を終えている。
十月一日は日曜日だった。
今日が、新体制で最初の営業日になる。
*
「……上田、今日から正式に課長やな」
西田が声をかけた。
「はい。よろしくお願いします」
田村が横から笑った。
「何や、昨日までと変わらへんな」
上田も、笑った。
「それが目標でしたから」
「せやったな」
井上も、短くうなずいた。
「運用側で必要なことがあったら、遠慮せず言うてな」
「ありがとうございます」
西田は、上田の机に置かれた案件一覧へ目を向けた。
「ほな、いつもどおり頼むで」
「はい」
特別な就任式はなかった。
上田は会議室へ向かい、岡元と中野を迎えた。
*
「……まず、先週からの変更点を確認します」
上田が画面を共有した。
岡元が設計上の確認事項を説明し、中野がテストの進捗を報告する。
上田は問題のある項目を拾い、担当と期限を決めた。
「……こちら、顧客確認が必要ですね」
「はい。今日中に問い合わせます」
「ありがとうございます。回答が来るまでは、別の作業を進めましょう」
会議は予定の時間内に終わった。
「……上田さん、今日から課長なんですよね」
中野が言った。
「そうやで」
「何か、あんまり変わらないですね」
「そう言われるんが、一番ありがたいわ(笑)」
岡元も笑った。
「でも、今度から上田さんが最終判断することも増えますよね」
「せやな。そこは変わる」
上田は二人を見た。
「わからんことは相談する。でも、俺が決めるべきことは、俺が決めるようにするわ」
口にしてから、その言葉の重さを少し感じた。
*
午後一時。
業務部では、高瀬と三宅が九月末の人員異動を反映していた。
九月末の退職者、四人。
十月初日の在籍社員数、三十六人。
そして、十月末にも四人の退職が予定されている。
「……人数、更新できました」
「ありがとうございます」
高瀬は、十月以降の資金繰り表を開いた。
給与の支払見込みは、以前の試算より減っている。
ただし、退職した社員の担当案件がそのまま売上として残るとは限らない。外注へ移す仕事もあれば、納期を見直す仕事もある。
高瀬は、人件費の減少分と売上・外注費の変動を別々に管理していた。
*
午後二時半。
金目が業務部を訪れた。
「……高瀬さん、今月の見通しはどうですか」
「固定費は下がっています。資金繰りも、前回より少し改善しました」
「……そうですか」
「ただし、開発部の稼働が減る影響は、まだすべて織り込めていません」
「……せやな」
金目は資料を見た。
「人件費が減ったからいうて、安心はできへんな」
「はい」
「西田とも、受けられる仕事を確認します」
高瀬がうなずいた。
金目は、社員数の欄へ目を向けた。
三十六人。
七月には四十人いた。
減った四人分の給与は、もう支払わなくてよい。
けれど、その四人が持っていた経験も、会社からなくなっていた。
*
2034年10月3日、火曜日。
午後二時。
開発二課に、顧客から納期前倒しの相談が届いた。
上田は、岡元と中野を集めて影響を確認した。
「……二週間、早めたいそうです」
岡元が言った。
「二週間か」
上田は工程表を開いた。
「実装だけなら、何とかなるかもしれません」
中野が答えた。
「ただ、テストの時間が足りなくなります」
「……せやな」
上田は、しばらく考えた。
「ほな、そのまま受けるんは難しいな」
「……そうですね」
「先方には、前倒しできる範囲と、品質確認に必要な期間を説明しよう」
岡元がうなずいた。
「代替案も用意しますか?」
「うん。機能を分けて段階的に納品する案も考えよう」
*
上田は、西田へ対応方針を報告した。
「……納期を二週間早めたいという相談です」
「うん」
「ただ、今の体制ではテスト期間が不足します。段階的な納品を提案したいと思っています」
西田は、資料を確認した。
「……ええと思うで」
「ありがとうございます」
「上田は、どうしたいんや?」
「品質を落としてまで前倒しするのは、避けたいです」
「……せやな」
「その代わり、お客様の優先順位を確認して、先に渡せるものを整理します」
西田はうなずいた。
「ほな、その方針で進めてくれ」
「はい」
*
上田は会議室を出た。
尾崎がいた頃なら、最後に判断してもらっていたかもしれない。
今は、自分が方針を決め、西田へ説明する。
西田は支えてくれる。
しかし、決めたことの責任は、自分にもある。
上田は、顧客への説明資料を開いた。
2034年10月5日、木曜日。
午後三時。
西田は、上田と二課のメンバーの業務負荷を確認していた。
「……岡元は、設計の仕事を増やしたい言うとったな」
「はい」
上田は資料を開いた。
「中野君は、テスト設計にも関わってみたいそうです」
「……ええやん」
「ただ、今の案件もあるので、すぐに全部変えるのは難しいです」
西田はうなずいた。
「そらそうや」
「……全員の希望をかなえるのは、難しいですね」
「せやな。でも、聞かんでええ理由にはならんやろ」
「……はい」
*
「……上田」
西田が言った。
「はい」
「課長になったら、仕事を割り振るだけやなくて、誰にどんな経験を積んでもらうかも考えなあかん」
「……そうですね」
「ただ、育成のためいうて、無理な仕事を任せたらあかんで」
上田は、うなずいた。
「……はい」
「今の案件の中で、少しずつ任せられるところを探そう」
「わかりました」
上田は、岡元と中野の担当表へ目を戻した。
*
2034年10月6日、金曜日。
午後二時。
営業部の小坂が、新しい案件の相談を持ってきた。
会議室には、金目と西田もいた。
「……新規のお客様から、開発のご相談をいただいています」
小坂が資料を開いた。
「内容としては、うちで対応できる範囲だと思います。ただ、納期が少し厳しくて」
西田は、工程表を確認した。
「……今の人数やと、そのまま受けるんは難しいな」
「……そうですか」
「既存案件もあるし、十月末にはさらに人が減る予定やろ」
小坂はうなずいた。
「……はい」
*
「……納期を調整できたら、どうや?」
金目が尋ねた。
「それなら、検討できると思う」
西田が答えた。
「ただ、既存案件の優先順位も確認せなあかん」
「……せやな」
金目は小坂を見た。
「お客様には、納期の相談をしてみましょうか」
「はい」
「無理な条件で受けて、あとから迷惑かける方があかんやろ」
小坂はうなずいた。
「……そうですね」
*
「……ただな」
金目が続けた。
「はい」
「せっかく声をかけていただいたんやから、できる方法は考えたいんよ」
「……はい」
「全部受けるか、全部断るかだけやなくて、段階的に進める方法もあるやろ」
西田がうなずいた。
「……それなら、開発側でも案を考えられるで」
「お願いします」
小坂は、資料へ目を戻した。
仕事を増やすこと。
今いる社員で仕事を続けること。
その両方を考えなければならなかった。
*
2034年10月10日、火曜日。
午前十時。
スポーツの日の連休が明け、業務部では退職手続きの確認が進んでいた。
十月末退職予定の四人。
それぞれの最終出勤日や有給休暇の取得予定が、少しずつ確定している。
三宅は、退職管理表を更新していた。
そこへ、新しい連絡が届いた。
十一月末で退職したいという社員からの申し出だった。
「……高瀬さん」
三宅が声をかけた。
「はい」
「十一月末の退職希望が、一件入りました」
高瀬は、画面を確認した。
「……承知しました」
*
「……また、次の月ですね」
三宅が言った。
「そうですね」
「九月末に四人辞めて、十月末にも四人。ほんで、十一月末も……」
三宅は、言葉を止めた。
高瀬は、少し考えた。
「……まだ、十一月末は一人です」
「……はい」
「ただ、今後も申し出がある可能性はあります」
三宅はうなずいた。
「……そうですね」
*
福原が、必要な書類の確認に加わった。
「……正式な退職手続きに進んだ方の情報は、こちらで確認できます」
福原が言った。
「ありがとうございます」
三宅が答えた。
「相談窓口での内容は、引き続き分けて管理しますね」
「はい。お願いします」
高瀬は、人員見通しの資料を開いた。
現在、三十六人。
十月末に四人が退職すれば、三十二人。
十一月末については、まだ一人の退職希望が確認されているだけだった。
高瀬は、確定している数字と、見込みの数字を分けて記録した。
*
午後。
金目は、高瀬からの報告を受けていた。
「……十一月末の退職希望も出始めたんですね」
「はい」
「……そうか」
金目は、少し考えた。
「九月末の四人を送り出したばかりやのにな」
「……そうですね」
「……引き継ぎの方は、どうですか?」
「各部署で調整を進めています。ただ、今後の退職者数によっては、再度見直しが必要になると思います」
金目はうなずいた。
「……わかりました」
金目は、社員数の推移を見た。
四十人。
三十六人。
三十二人。
そして、その先。
まだ、数字は決まっていない。
しかし、会社の人数が減り続けていることだけは、確かだった。
2034年10月11日、水曜日。
午後七時。
田村洋介は、大阪市内の貸会議室にいた。
向かいに座っているのは、以前の知人から紹介された企業の採用担当者だった。
八月に最初の連絡を受けてから、何度かオンラインで話をしてきた。
今日は、具体的な仕事内容と勤務条件を確認するための面談だった。
「……田村さん、改めてありがとうございます」
「こちらこそ、お時間いただいてありがとうございます」
採用担当者は、資料を開いた。
「今回お願いしたいのは、開発チームのマネジメントと、技術面での支援です」
「……なるほど」
「チームの規模は、現在八名です。今後、もう少し増員する計画があります」
田村は、うなずいた。
*
「……管理職としての役割が中心になるんでしょうか」
田村が尋ねた。
「はい。ただし、設計レビューや技術的な意思決定にも関わっていただきたいと考えています」
「……そうなんですね」
「現場の開発から完全に離れる役割ではありません」
田村は、少し考えた。
今のカナメでも、最近は開発に関わる時間が増えている。
若手社員と設計を考え、実装について議論する。
その時間が、田村には面白かった。
ただ、今後の組織体制によっては、管理業務が増える可能性もある。
*
「……勤務条件についても、ご説明します」
採用担当者が続けた。
「はい」
資料には、想定年収、勤務時間、休日、評価制度などが記載されていた。
田村は、一つずつ確認した。
現在の待遇と比べて、大きく不利になる条件ではなかった。
むしろ、家族との生活を考えると、安心できる部分もあった。
「……入社時期については、いつ頃を想定されていますか?」
「可能であれば、十二月からお願いしたいと考えています」
「……十二月ですか」
「はい。もちろん、現在のお仕事の引き継ぎもあると思いますので、調整は可能です」
田村は、うなずいた。
*
面談を終えたあと。
田村は、駅へ向かって歩いていた。
仕事内容。
待遇。
働き方。
いずれも、魅力のある条件だった。
しかし、気になることもあった。
上田。
十月から、開発二課の課長になったばかりだった。
西田も、田村が支援することを前提に体制を考えている。
自分が今辞めれば、開発部の負担は増える。
それは、わかっていた。
*
田村は、立ち止まった。
八月、家族から尋ねられたことを思い出す。
次の給与も、本当に大丈夫なのか。
もし、また同じことが起きたらどうするのか。
あのとき、田村は明確に答えられなかった。
今も、会社の状況は改善している。
しかし、これから先まで保証されているわけではない。
田村は、スマートフォンを取り出した。
採用担当者から届いていた条件資料を、もう一度開いた。
*
2034年10月12日、木曜日。
午後二時。
基盤運用課の小川悠斗は、開発部との合同打ち合わせに参加していた。
議題は、運用中のシステムで確認されていた応答時間の増加についてだった。
開発側からは、上田と中野が参加している。
運用側からは、小川と藤井が出席していた。
「……では、調査結果を共有します」
小川が言った。
画面には、これまでに収集したログと、応答時間の推移が表示されていた。
*
「……この時間帯に、処理時間が増加しています」
小川が説明した。
「ただ、全体の負荷が高いわけではありません」
上田が、資料を確認した。
「……特定の処理だけが遅くなっとるんやな」
「はい」
「原因の候補は?」
「現時点では、データ取得の処理が一番怪しいと考えています」
中野が、画面を見た。
「……ここ、以前の改修で条件を追加したところですね」
「……そうなんですか?」
小川が尋ねた。
「はい。実装を確認してみます」
*
中野が、該当する処理のコードを開いた。
「……なるほど」
上田が言った。
「取得条件によって、処理の負荷が変わる可能性があるな」
「……はい」
小川は、うなずいた。
「運用側のログだけでは、そこまではわかりませんでした」
「せやな。でも、小川君が条件を絞ってくれたから、確認する場所がわかったんやで」
上田は、少し笑った。
「……ありがとうございます」
*
「……小川君」
藤井が言った。
「はい」
「今後、こういう調査をもう少し増やしていけるといいですね」
「……はい」
小川は、少し考えた。
「実際に開発側と一緒に確認すると、知らないことが多いなと思います」
「……そうですね」
「でも、面白いです」
上田が、うなずいた。
「……ほな、また一緒にやろうか」
「ありがとうございます」
*
打ち合わせを終えたあと。
小川は、自席へ戻っていた。
運用の仕事だけでは見えなかったことが、少しずつ見えてきている。
設計。
実装。
そして、運用。
それぞれが、つながっている。
小川は、今日の調査内容を整理した。
まだ学ぶべきことは多い。
しかし、今の仕事の中にも、新しい経験を積める機会がある。
そのことが、少しうれしかった。
*
2034年10月13日、金曜日。
午後四時半。
西田は、開発部の人員配置表を確認していた。
九月末に尾崎が退職した。
十月からは、上田が開発二課長として業務を進めている。
引き継ぎは予定どおり完了し、日常の案件管理にも問題は出ていない。
田村は開発一課を担当し、井上は基盤運用課を支えている。
上田の管理職としての経験は、まだ浅い。
しかし、必要なときには自分が支援できる。
田村もいる。
今の体制なら、何とかなる。
西田は、そう考えていた。
*
そのとき、社内チャットに通知が届いた。
田村からだった。
『西田さん、今日少しお時間いただけますか。今後のことで、ご相談したいことがあります』
西田は、予定表を確認した。
午後五時。
空いている。
『了解。五時から会議室で話そうか』
返信する。
西田は、人員配置表を保存した。
*
午後五時。
会議室の扉が開いた。
「……お疲れさん」
西田が言った。
「お疲れさまです」
田村は、椅子に座った。
少し、いつもより表情が硬かった。
「……どうしたんや?」
西田が尋ねた。
田村は、一度息を整えた。
「……西田さん」
「うん」
「今日は、ちょっとお話ししたいことがありまして」
「……何や?」
田村は、少し間を置いた。
「……十一月末で、退職させてもらいたいと思っています」
西田は、言葉を止めた。
目の前の田村を見た。
開発一課の課長。
上田を支えると話してくれていた人物。
そして、今の開発部を支える管理職の一人だった。
「…………」
西田は、しばらく黙っていた。
そして、静かにうなずいた。
「……そうか」
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、十月から正式に開発二課長となった上田の姿をお届けしました。
八月から準備を進め、九月中旬には実務の引き継ぎを完了。
その甲斐もあって、課長としての初日も、これまでとほとんど変わらない日常から始まりました。
しかし、役職が変われば、判断する範囲も責任も変わります。
技術的にできることと、会社として引き受けてよいこと。
自分が成長することと、部下が成長できる環境を整えること。
上田は、少しずつ管理職としての経験を積み始めています。
一方、会社では退職の申し出が続いています。
そして今回、田村も自分の将来について、一つの決断をしました。
会社に残る人も、新しい場所へ進む人も、それぞれに考えた末の選択があります。
ただ、その選択が重なったとき、組織には新たな課題が生まれます。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




