四人の名前
2034年8月24日、木曜日。
大阪・本町。
株式会社カナメの開発部では、西田が開発二課の引き継ぎ状況を確認していた。
会議室には、尾崎達也と上田拓海が座っている。
九月末で退職する尾崎から、十月一日付で課長に就任する上田へ。
その引き継ぎは、予定どおり進んでいた。
「……ほな、進捗を確認しようか」
西田が言った。
「はい」
上田が資料を開いた。
「現在の案件については、進捗確認と日常の判断を少しずつ担当しています」
「うん」
「顧客との打ち合わせも、尾崎さんに同席してもらいながら進めています」
西田は、うなずいた。
*
「……尾崎、どうや?」
西田が尋ねた。
「順調やと思うで」
尾崎は、少し笑った。
「まだ確認が必要なことはあるけど、日常の案件管理はだいぶ任せられるようになってきた」
「……そうか」
「上田も、わからんことをそのままにせんからな」
西田は、上田を見た。
「……ええことやで」
「ありがとうございます」
「ただ、九月中旬には実務を一通り移したいから、引き続き頼むな」
「はい」
*
「……ところで、上田」
尾崎が言った。
「はい?」
「最近、メンバーと話しとるか?」
「……はい。岡元さんと中野君には、今後やってみたい仕事について聞いてみました」
「ほう」
「岡元さんは、設計の仕事をもう少し増やしたいそうです」
「……なるほど」
「中野君は、実装だけじゃなくて、テスト設計にも関わってみたいと」
尾崎は、うなずいた。
「……ええやん」
*
「……ただ」
上田が続けた。
「はい?」
「今の案件との兼ね合いもあるので、すぐに全部希望どおりにはできないと思います」
西田は、少し笑った。
「……それでええんよ」
「……はい」
「希望を聞くことと、全部かなえることは別やからな」
上田は、うなずいた。
「……そうですね」
「でも、知らんまま配置を決めるよりは、ずっとええ」
尾崎も、うなずいた。
*
会議を終えたあと。
西田は、引き継ぎ計画を更新した。
八月下旬。
日常の案件判断を上田が担当。
九月上旬。
顧客窓口とメンバーの相談対応を移管。
九月中旬。
開発二課の日常運営を、上田が実質的に担当する。
九月下旬。
尾崎による最終確認。
そして、十月一日。
組織表の名前が変わるだけ。
西田は、資料を閉じた。
今のところ、大きな問題はなかった。
*
2034年8月25日、金曜日。
午前十時。
業務部では、三宅彩が退職手続きの一覧を確認していた。
昨日、福原奈央の相談窓口を利用していた社員から、正式な退職の申し出があった。
九月末での退職を希望している。
直属上司への報告も済み、必要な手続きが始まっていた。
「……福原さん」
三宅が声をかけた。
「はい」
「こちらの退職手続き、受け付けました」
「ありがとうございます」
「ご本人から、正式に連絡をいただいています」
「……承知しました」
*
三宅は、必要な手続きを確認した。
退職希望日。
有給休暇の取得予定。
最終給与。
社会保険の資格喪失手続き。
そして、貸与品の返却。
退職する社員が一人増えるたびに、業務部の仕事も増える。
しかし、手続きを滞らせるわけにはいかなかった。
「……福原さん」
三宅が言った。
「はい」
「相談窓口の記録は、こちらには移さなくて大丈夫です」
「……はい」
「正式な退職手続きに必要な情報だけ、管理しますので」
福原は、うなずいた。
「ありがとうございます」
*
「……しかし」
三宅が少し考えた。
「はい?」
「退職の手続きが、少しずつ増えてきましたね」
福原は、うなずいた。
「……そうですね」
「……まあ、いろいろ考える時期なんでしょうね」
「……はい」
三宅は、資料へ目を戻した。
相談窓口で何が話されたのか。
それを聞くつもりはなかった。
ただ、正式な手続きとして届いたものを、間違いなく処理する。
それが、自分の仕事だった。
*
2034年8月28日、月曜日。
午前十時。
西田は、開発部の社員から面談の申し込みを受けていた。
普段は開発案件の実装とテストを担当している社員だった。
会議室へ入ってきた社員は、少し緊張した様子で席に座った。
「……お疲れさん。どうしたんや?」
西田が尋ねた。
「……西田さん、今日はご相談がありまして」
「うん」
社員は、一度息を整えた。
「……九月末で、退職させていただきたいと思っています」
西田は、少し黙った。
「……そうか」
*
「……理由、聞いてもええか?」
西田が尋ねた。
「……はい」
「今回の会社の件が、きっかけになったんか?」
「……それもあります」
社員は、少し考えた。
「ただ、以前から違う開発環境にも興味がありまして」
「……ほう」
「転職活動をしてみたら、希望していた仕事を任せてもらえることになりました」
西田は、うなずいた。
「……そうか」
*
「……正直、残ってもらえたらありがたいんやけどな」
西田が言った。
「……ありがとうございます」
「でも、ちゃんと考えて決めたんやろ?」
「……はい」
「ほな、その気持ちは尊重したい」
社員は、少し安心したようにうなずいた。
「……ありがとうございます」
「ただ、引き継ぎのことは相談させてな」
「もちろんです」
*
面談を終えたあと。
西田は、開発部の人員配置表を開いた。
尾崎の退職。
上田への課長引き継ぎ。
そして、今日新たに退職を申し出た社員。
九月末に向けて、開発部の人数が減っていく。
ただ、現時点では田村も井上もいる。
上田への引き継ぎも順調だった。
西田は、配置表を見直した。
まだ、対応できる。
そう判断していた。
*
午後二時。
高瀬は、業務部から届いた退職予定者の一覧を確認していた。
尾崎。
八月十八日、金目との1on1で退職の意思を伝えた社員。
八月二十三日、福原へ相談し、二十五日に正式な手続きへ進んだ社員。
そして、今日、西田へ退職を申し出た社員。
九月末の退職見込みは、四人となった。
高瀬は、人数を確認した。
現在の社員数。
四十人。
九月末の退職見込み。
四人。
十月以降の見込み。
三十六人。
*
高瀬は、資料を保存した。
まだ、全員の退職日が正式に確定したわけではない。
しかし、今後の人員計画には反映する必要がある。
高瀬は、金目へ連絡した。
「……金目さん、少しお時間よろしいでしょうか」
「はい。どうしました?」
「九月末の退職見込みについて、ご報告があります」
金目は、顔を上げた。
「……何人ですか?」
「……四人です」
金目は、少し黙った。
「……四人か」
高瀬は、うなずいた。
「はい。現在の四十人から、三十六人になる見込みです」
金目は、資料を受け取った。
四人。
その数字は、七月の資金繰り表で見ていた数字とは、まったく違う重さを持っていた。
2034年8月29日、火曜日。
午前十時。
株式会社カナメの社長室では、金目と西田が向き合っていた。
机の上には、九月末の退職予定者をまとめた資料が置かれている。
四人。
尾崎を含め、九月末で会社を離れる意向を示した社員の数だった。
「……四人か」
金目が言った。
「……せやな」
西田は、うなずいた。
「正直、思っとったより早いな」
「……うん」
「尾崎のことは、前からわかっとったけどな」
西田は、資料を見直した。
「ほかにも、これだけ出てくるとは思わんかった」
*
「……西田」
金目が言った。
「何や?」
「開発部の方は、どうや?」
「……今のところは、何とかなると思う」
「……そうか」
「尾崎の引き継ぎは順調やし、上田もようやっとる」
「うん」
「ただ、ほかの退職者の担当案件もあるから、配置は見直さなあかんな」
金目は、うなずいた。
「……せやな」
*
「……金目」
西田が続けた。
「何や?」
「退職する人のこと、どう考えとる?」
金目は、少し考えた。
「……寂しいとは思うで」
「……うん」
「でも、みんな自分で考えて決めたことやろ」
「……せやな」
「会社の事情だけで、残ってくれとは言えへんよ」
西田は、うなずいた。
*
「……ただな」
金目が続けた。
「何や?」
「残ってくれる人のことも、ちゃんと考えなあかんと思っとる」
「……うん」
「四人減ったからいうて、四人分の仕事をそのまま残った人に渡すわけにはいかへんやろ」
「……せやな」
「必要なら、受ける仕事を減らすことも考えよう」
西田は、少し考えた。
「……そこまで考えとるんか」
「うん」
金目は、資料へ目を戻した。
「社員を守るために会社を続けたんやからな」
*
「……ほな、まずは」
西田が言った。
「うん」
「九月末までに、引き継げる仕事と、引き継げへん仕事を整理するわ」
「お願いします」
「そのうえで、必要なら営業部とも調整する」
「……せやな」
「今の人数で無理な案件を引き受けても、結局また苦しくなるだけやからな」
金目は、うなずいた。
「……頼むで」
*
午後、西田は人員配置表へ、九月末までに確認する仕事を書き出していた。
田村も井上もいる。上田への支援も続ける。それでも、引き継げる仕事と引き継げない仕事は、分けておかなければならなかった。
*
2034年8月30日、水曜日。
午後二時。
開発二課では、岡元遥と中野航平が、案件の進捗を確認していた。
「……中野君、ここのテスト、どうなってる?」
岡元が尋ねた。
「今、確認しています」
「……そっか」
岡元は、資料を見直した。
「九月から、少し担当が変わるみたいやね」
「……そうですね」
「上田さんが、いろいろ調整してくれてるけど」
中野は、少し考えた。
「……正直、ちょっと心配です」
*
「……何が?」
岡元が尋ねた。
「人が減っても、仕事の量は変わらへんのかなって」
「……せやな」
「上田さんも、課長になるんですよね」
「うん」
「……今までみたいに、いつでも相談できるんでしょうか」
岡元は、少し考えた。
「……そこは、聞いてみようか」
中野は、うなずいた。
*
しばらくして、上田が席へ戻ってきた。
「……上田さん」
岡元が声をかけた。
「何や?」
「ちょっと相談してもいいですか?」
「ええよ」
岡元は、中野と顔を見合わせた。
「……九月以降の体制のことなんですけど」
「うん」
「人が減ったら、今の仕事ってどうなるんでしょうか」
上田は、少し考えた。
「……そこは、今整理しとるところやな」
「……正直」
中野が言った。
「はい?」
「上田さんが課長になったら、今までみたいに相談できなくなるんちゃうかなって」
上田は、少し驚いた顔をした。
「……そう思っとったんか」
「……はい」
上田は、少し考えた。
「……全部、今までどおりとはいかんかもしれんな」
「……そうですよね」
「でも、相談できへんようにはしたくない」
上田は、二人を見た。
「俺が対応できへんときは、ほかの人にも相談できるようにしたいと思っとる」
「……それと」
上田が続けた。
「はい」
「仕事が増えすぎるようなら、ちゃんと言うてほしい」
中野は、顔を上げた。
「……ええんですか?」
「もちろんや」
上田は、少し笑った。
「課長になるからいうて、みんなの仕事を増やしたいわけちゃうからな」
岡元も、少し笑った。
「……それは、ありがたいです」
「まだ、俺もわからんこと多いけどな」
上田は、うなずいた。
「一緒に考えていこう」
*
その日の夕方。
上田は、案件一覧を確認していた。
今まで自分が担当していた仕事。
尾崎から引き継ぐ仕事。
そして、ほかの社員が担当している仕事。
課長になることで、自分が見る範囲は確実に広がる。
しかし、今日の岡元と中野の話を聞いて、上田は一つ気づいた。
自分が課長になることを、周囲の社員も不安に思っている。
上田は、予定表を開いた。
九月からの相談体制について、尾崎と西田に確認しようと思った。
*
2034年8月31日、木曜日。
午前十時。
業務部では、高瀬と三宅が十月以降の資金繰り表を確認していた。
九月末に退職を予定している四人。
その人件費を反映した試算だった。
「……三宅さん」
高瀬が言った。
「はい」
「十月以降の固定費について、もう一度確認したいと思います」
「承知しました」
三宅は、資料を開いた。
*
退職予定者の給与。
賞与引当。
会社負担の社会保険料。
そして、退職に伴う一時的な費用。
三宅は、項目を一つずつ確認した。
「……高瀬さん」
「はい」
「十月以降、人件費は減る見込みですね」
「そうですね」
「ただし、引き継ぎに伴う外注費や、案件の調整による売上への影響は、まだ確定していません」
「……はい」
高瀬は、うなずいた。
「そこは、別に見積もる必要があります」
*
高瀬は、資金繰り表を更新した。
十月以降の給与支払い見込み。
退職予定者の人件費。
そして、残る社員の給与。
固定費の見込みは、以前より下がっていた。
*
「……高瀬さん」
三宅が言った。
「はい」
「……数字だけ見ると、少し楽になりますね」
高瀬は、資料を見た。
「……そうですね」
「……でも、喜べる話でもないですね」
「……はい」
高瀬は、静かにうなずいた。
*
2034年9月1日、金曜日。
午後二時。
開発二課では、尾崎と上田が九月の引き継ぎ予定を確認していた。
「……上田、九月に入ったな」
「……そうですね」
「ここからは、日常の案件管理をもう少し任せるで」
「はい」
上田は、資料を確認した。
顧客との打ち合わせ。
案件の進捗確認。
メンバーの相談対応。
そして、必要な判断。
九月中旬までに、これらを一通り担当できるようにする予定だった。
*
「……尾崎さん」
上田が言った。
「何や?」
「正直、まだ確認したいことが結構あります」
「……そらあるやろ」
「でも、九月中旬までには、一人で回せるようにしたいです」
尾崎は、うなずいた。
「……せやな」
「十月一日には、組織表の名前が変わるだけにしたいので」
尾崎は、少し笑った。
「……西田さんの言うとったやつやな(笑)」
「はい(笑)」
*
「……ただな、上田」
尾崎が続けた。
「はい」
「課長になったからいうて、全部一人で決めなあかんわけちゃうで」
「……はい」
「相談することも、仕事のうちや」
上田は、うなずいた。
「……わかりました」
「ほな、九月も頼むな」
「はい!」
*
午後五時。
金目は、社長室で九月の人員見通しを確認していた。
現在は四十人。九月末の四人の退職を見込むと、十月以降は三十六人になる。
金目は、高瀬と確認した四人の名前を、もう一度見た。
*
金目は、一人ずつ名前を確認した。
それぞれに、違う仕事があった。
違う経験があった。
そして、これから進もうとしている道があった。
金目は、少し考えた。
四人。
会社にとっては、社員数の一割にあたる。
しかし、四人それぞれにとっては、自分の人生の大きな決断だった。
*
金目は、資料を閉じた。
社員が退職することを、会社の失敗だけで説明することはできない。
本人の希望もあれば、家庭の事情もある。
新しい仕事への挑戦もある。
しかし、今回の経営危機が、その判断を早めたことも否定できなかった。
金目は、窓の外を見た。
九月。
会社の資金繰りは、少しずつ改善している。
上田への引き継ぎも、予定どおり進んでいる。
それでも、会社を離れる人はいる。
金目は、もう一度社員名簿を開いた。
四十人。
まだ、数字は変わっていない。
しかし、会社はすでに、三十六人で働く準備を始めていた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、九月末に退職を希望する四人の社員と、その後の体制を考え始めたカナメをお届けしました。
四十人の会社から、四人が離れる。
数字にすれば、社員の一割です。
しかし、その四人にはそれぞれの仕事があり、経験があり、これから進もうとしている道があります。
金目は、その選択を尊重しようとしています。
一方、残る社員たちにとっては、これまで一緒に働いてきた仲間が減るという現実があります。
上田は、新しい課長としての準備を進めながら、残るメンバーの負担についても考え始めました。
そして業務部では、人件費の減少が資金繰りに与える影響も見え始めています。
人が減ることで、会社の支出は減る。
しかし、失われるのは支出だけではありません。
会社を続けるために、何を守り、何を変えていくのか。
カナメは、また一つ難しい判断に向き合い始めています。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




