任せるということ
2034年8月7日、月曜日。
大阪・本町。
株式会社カナメの業務部では、週明けの入出金確認が行われていた。
七月二十七日に承認された、五百万円の融資。
その実行予定日が、今日だった。
午前九時半。
三宅彩は、銀行の入出金明細を更新した。
新しい入金が、一件表示された。
金額、五百万円。
振込元は、融資を承認した金融機関だった。
「……高瀬さん」
三宅が声をかけた。
「はい」
「五百万円、入りました」
高瀬は、画面を確認した。
「ありがとうございます」
融資契約の内容と照合する。
金額。
実行日。
そして、入金先。
いずれも予定どおりだった。
*
高瀬は、八月の資金繰り表を更新した。
七月二十五日の給与支払いは完了している。
その後、売掛金の入金が四百五十万円。
そして、今日の融資五百万円。
会社の現預金は、七月末より増えていた。
ただし、融資は返済義務のある資金だった。
高瀬は、返済予定も別の資料へ反映した。
「……三宅さん」
「はい」
「これで、八月の支払いには少し余裕ができます」
「……よかったですね」
「ただし、今後の入金予定と支払いは、引き続き確認していきましょう」
「承知しました」
*
午前十時。
金目が業務部へやってきた。
「……高瀬さん、どうですか?」
「五百万円の着金を確認しました」
「……ほんまですか」
金目は、少し笑った。
「ありがたいですね」
「はい」
「これで、少しは息ができるようになったな」
高瀬は、うなずいた。
「ただし、返済も始まります」
「……せやな」
金目は、資金繰り表を確認した。
八月。
九月。
確定している入金と、条件付きの入金予定。
以前より、見通しは具体的になっている。
「……ほな、次は借りんでも回る会社にせなあかんな」
「そうですね」
金目は、うなずいた。
「引き続きお願いします」
*
午後一時。
開発部では、西田が尾崎達也と向き合っていた。
机の上には、開発二課の引き継ぎ一覧が置かれている。
尾崎が、週末までに整理した資料だった。
現在進行中の案件。
顧客との連絡窓口。
開発メンバーの担当。
人事評価や育成に関する情報。
そして、日常的に課長が判断している事項。
「……結構あるな」
西田が言った。
「せやな」
尾崎は、少し笑った。
「書き出してみたら、思ったより多かったわ」
*
「……案件の方は、どうや?」
西田が尋ねた。
「今のところ、予定どおり進んどる」
「うん」
「ただ、顧客との調整が必要なところは、まだ俺が見とるな」
「……せやな」
「それと、人事評価の方も、引き継ぎ先は決めとかなあかん」
西田は、うなずいた。
「そこは、当面俺が持つことになるかもしれんな」
「……了解」
*
西田は、資料を見直した。
開発二課の課長。
その仕事は、案件の進捗を見るだけではない。
技術的な判断。
顧客との調整。
部下の育成。
そして、人事評価や配置。
尾崎が一人で担ってきた仕事を、そのまま誰か一人へ渡せば済むわけではなかった。
「……尾崎」
「何や?」
「今の二課で、技術面をよう見てくれとるんは誰や?」
尾崎は、少し考えた。
「……上田やな」
*
「……上田か」
「うん」
「最近、どうや?」
「自分の担当だけやなくて、ほかのメンバーの相談にも乗っとる」
「ほう」
「岡元も中野も、設計や実装で迷ったら上田に聞いとることが多いな」
西田は、うなずいた。
「……なるほど」
「ただ、管理職としての経験はないで」
「……せやな」
「顧客との難しい調整とか、人事評価とかは、まだ任せたことないからな」
西田は、資料へ目を戻した。
「……そこは、考えなあかんな」
*
「……でもな、西田さん」
尾崎が続けた。
「何や?」
「上田は、二課の仕事をよう知っとるで」
「……うん」
「今の案件も、メンバーのことも」
「……せやな」
「もし次の課長を考えるんやったら、候補にはなると思う」
西田は、うなずいた。
「……ありがとう」
尾崎は、資料を閉じた。
「ただ、本人がやりたいかどうかは、聞いてみなわからんけどな」
「……そらそうや」
*
2034年8月8日、火曜日。
午前十時。
開発二課では、上田拓海が担当案件の設計資料を確認していた。
そこへ、岡元遥が声をかけた。
「……上田さん、ちょっと相談してもいいですか?」
「ええよ。どうしたん?」
「ここの処理なんですけど、仕様の解釈が二通りできそうで」
上田は、資料を確認した。
「……なるほど」
岡元が、画面を示した。
「こっちの実装でも動くと思うんですけど、後から変更が入ったときに影響が大きそうなんです」
「……せやな」
上田は、少し考えた。
「まず、お客様が何をしたいのか、もう一回整理してみようか」
*
「……何をしたいのか、ですか?」
岡元が尋ねた。
「うん。今の仕様書やと、処理の方法は書いてあるけど、何のために必要なんかが少し曖昧やねん」
「……確かに」
「ほな、そこを確認してから設計を決めた方がええと思う」
岡元は、うなずいた。
「わかりました」
「必要なら、俺も打ち合わせ入るで」
「ありがとうございます!」
岡元は、資料を持って自席へ戻った。
*
しばらくして。
今度は中野航平が、上田の席へやってきた。
「……上田さん、ちょっといいですか?」
「おお。何や?」
「昨日の実装なんですけど、テストで一件だけ想定外の結果が出てまして」
「……ほう」
上田は、画面を確認した。
「どんな条件で起きるん?」
「この入力のときだけです」
「……なるほど」
上田は、少し考えた。
「ほな、まず再現条件を整理しようか」
*
「……ここ、例外処理を追加したら直りそうなんですけど」
中野が言った。
「……直るかもしれんな」
「はい」
「でも、それで本当にええかは、もうちょっと確認したいな」
「……そうですね」
「何でその入力だけ結果が変わるんか、先に調べよう」
中野は、うなずいた。
「わかりました」
上田は、少し笑った。
「原因わからんまま直したら、別のところでまた出るかもしれんからな」
「……はい!」
*
少し離れた席で、尾崎がその様子を見ていた。
岡元が相談に来る。
中野が質問する。
上田は、それぞれの話を聞き、必要な確認を整理している。
すべての答えを、その場で出しているわけではない。
しかし、何を確認すれば判断できるかを考えている。
尾崎は、少しだけ笑った。
上田は、もう自分の担当だけを見ている社員ではなかった。
*
午後二時。
西田は、田村洋介と尾崎を会議室へ呼んでいた。
「……ちょっと、上田のことで相談したいんや」
西田が言った。
「上田?」
田村が尋ねた。
「うん。尾崎の後任として、二課の課長を任せられへんかと思っとる」
田村は、少し考えた。
「……技術面では、十分やれると思うで」
「……せやな」
「ただ、管理職の仕事は別やからな」
西田は、うなずいた。
*
「……尾崎は、どう思う?」
西田が尋ねた。
「候補としては、ええと思う」
尾崎が答えた。
「今の二課の仕事も、メンバーのこともわかっとるしな」
「……うん」
「ただ、顧客との難しい交渉や、人事評価は経験が浅い」
「せやな」
西田は、資料を確認した。
「……そこは、俺が支えるつもりや」
田村も、うなずいた。
「技術面やったら、俺も見られるで」
「……ありがとう」
*
「……ほな」
西田が言った。
「何や?」
「本人に、一回聞いてみようか」
田村は、うなずいた。
「ええと思うで」
尾崎も、少し笑った。
「……本人がやってみたい言うなら、俺も引き継ぎはちゃんとするわ」
西田は、うなずいた。
「……ありがとう」
会議室を出たあと、西田は、上田の予定表を確認した。
翌日の午前中。
短い空き時間があった。
西田は、面談の予定を入れた。
――今後の開発二課の体制について。
まだ、上田には何も伝えていなかった。
2034年8月9日、水曜日。
午前十時。
株式会社カナメの会議室では、西田が上田拓海を待っていた。
机の上には、開発二課の引き継ぎ資料が置かれている。
九月末で退職する予定の尾崎達也。
その後任を、誰に任せるのか。
西田は、田村と尾崎の意見を聞いたうえで、一つの候補を考えていた。
ほどなく、会議室の扉が開いた。
「……お疲れさまです」
上田だった。
「おお、上田。座ってや」
「はい」
*
「……上田、ちょっと相談があるんや」
西田が言った。
「はい。何でしょうか」
「尾崎が九月末で辞めるやろ」
「……はい」
「そのあと、二課の課長をやってみる気ないか?」
上田は、一瞬、言葉を止めた。
「……僕が、ですか?」
「うん」
「……課長、ですか」
上田は、少し考えた。
「正直、人事評価とか、管理職の仕事はまだ経験がありません」
「せやな」
「案件の管理も、自分の担当範囲しか見てきてませんし」
「うん」
「……それでも、僕でええんですか?」
*
西田は、うなずいた。
「最初から全部できるとは思っとらんで」
「……はい」
「尾崎もおるし、田村もおる。俺も支える」
上田は、少し黙った。
開発二課の課長。
これまで自分が相談してきた尾崎の仕事を、今度は自分が引き受けることになる。
上田は、もう一度西田を見た。
「……わかりました。やらせてください」
*
西田は、少し驚いた顔をした。
「……ええんか? もうちょっと考えてもええんやで」
「はい」
上田は、うなずいた。
「でも、いつかはそういう仕事も経験してみたいと思ってました」
「……そうか」
「開発の仕事は、これからも続けたいです」
「もちろんや」
「ただ、自分が開発するだけじゃなくて、ほかの人が仕事しやすいようにすることにも興味があります」
西田は、少し笑った。
「……ええやん」
「……わからないことは、たくさんあると思いますけど」
上田が続けた。
「そらあるやろ(笑)」
「……そのときは、相談させてください」
「当たり前や」
西田は、うなずいた。
「相談せん課長の方が困るからな」
上田は、少し笑った。
「……ありがとうございます」
「ほな、十月から頼むで」
「はい。よろしくお願いします」
「……ただしな、上田」
西田が続けた。
「はい」
「十月になってから仕事を覚え始めるんは、遅いと思っとる」
「……はい」
「九月中旬には、二課の日常業務を一人で回せるようにしたい」
上田は、少し考えた。
「……九月中旬、ですか」
「うん。残りの二週間は、尾崎に確認できる期間にする」
「なるほど」
「十月一日は、組織表の名前が変わるだけ。それくらいにしときたいんよ」
上田は、うなずいた。
「……わかりました」
「……もちろん、人事評価とか正式な決裁は、権限が移るまで俺らが持つ」
西田が言った。
「はい」
「でも、日常の案件判断は、できるだけ早く経験してほしい」
「……承知しました」
「尾崎にも、引き継ぎの時間を取ってもらう」
「ありがとうございます」
西田は、資料を閉じた。
「……ほな、一緒にやっていこうか」
「はい!」
*
午後二時。
基盤運用課では、小川悠斗が前日の障害調査結果を整理していた。
監視システムで検知された、一部処理の応答時間の増加。
大きな障害には至っていないが、原因を確認する必要があった。
小川は、ログを比較し、発生時間帯と処理内容を整理していた。
井上修一が、声をかけた。
「……小川、昨日の件どうや?」
「原因の候補は、三つまで絞りました」
「ほう」
「一番可能性が高いのは、二番目です」
小川は、資料を示した。
*
「……ただ、まだ断定はできません」
小川が続けた。
「何が足らん?」
井上が尋ねた。
「追加のログです。今の記録だけだと、処理が遅くなった理由までは特定できません」
「……なるほど」
「なので、次に発生したときに確認できるよう、記録する項目を追加したいと思っています」
井上は、うなずいた。
「……ええやん」
「ありがとうございます」
「ほな、藤井にも確認して進めてくれ」
「はい」
*
小川は、藤井の席へ向かった。
「……藤井さん、ちょっと相談してもいいですか?」
「はい。どうしました?」
小川は、調査資料を開いた。
「昨日の応答時間の件なんですけど、追加ログを取りたいと思っています」
藤井は、資料を確認した。
「……なるほど。ここを記録するんですね」
「はい」
「ただ、ログを増やしすぎると、今度は処理への影響が出るかもしれません」
「……そうですね」
「必要な項目だけに絞りましょう」
小川は、うなずいた。
「わかりました」
*
「……小川君」
藤井が言った。
「はい」
「最近、調査の進め方がずいぶん変わりましたね」
小川は、少し驚いた顔をした。
「……そうですか?」
「はい。以前は、わからないことを一つずつ聞いていましたけど」
「……はい」
「今は、何を確認すれば判断できるか、自分で整理しています」
小川は、少し照れたように笑った。
「……まだ、わからないことも多いですけど」
「それでいいと思いますよ」
藤井は、うなずいた。
「わからないことを、ちゃんとわかるようにするのが仕事ですから」
*
夕方。
小川は、調査資料を更新していた。
追加するログ項目。
確認する条件。
そして、原因を特定できた場合の対応方針。
以前なら、井上や藤井に判断を任せていた部分もある。
しかし、今は自分で考え、必要な確認を提案できるようになっていた。
小川は、資料を保存した。
明日も、確認することがある。
*
2034年8月10日、木曜日。
午前十時。
開発部では、西田、尾崎、田村、上田の四人が会議室に集まっていた。
議題は、開発二課の課長交代に向けた引き継ぎ計画だった。
「……ほな、始めようか」
西田が言った。
尾崎が、引き継ぎ一覧を開いた。
「まず、二課の案件から整理するで」
「お願いします」
上田が答えた。
*
尾崎は、案件ごとの状況を説明した。
進行中の開発案件。
顧客との調整事項。
今後の見積もり予定。
そして、メンバーごとの担当業務。
上田は、一つずつ確認した。
「……この案件の顧客窓口は、今は尾崎さんですよね」
「せや」
「九月から、僕が入る形にしますか?」
「うん。八月中は一緒に対応して、九月から主担当を渡そうと思っとる」
「わかりました」
*
「……次に、人事評価の方やな」
西田が言った。
「はい」
上田は、資料へ目を向けた。
「……正直、そこはまだ自信がありません」
「せやろな」
「何を見て、どう評価するべきかも、まだ整理できていなくて」
西田は、うなずいた。
「ほな、まず尾崎が今どういう観点で見とるか、一緒に確認しよう」
「……はい」
「ただし、評価をそのまま引き継ぐんやなくて、自分でも考えてほしい」
「……わかりました」
*
「……上田」
田村が声をかけた。
「はい」
「課長になったら、全部自分で判断せなあかんと思わんでええからな」
「……はい」
「技術的なことでも、迷ったら相談してくれたらええ」
「ありがとうございます」
「俺も、まだおるしな(笑)」
上田は、少し笑った。
「……頼りにしてます」
西田も、うなずいた。
「……せやな。今の体制なら、十分支えられると思う」
*
西田は、引き継ぎ計画を画面に表示した。
八月中旬。
案件と顧客情報の整理。
八月下旬。
日常の案件判断を上田が担当し、尾崎が確認する。
九月上旬。
顧客窓口とメンバーの相談対応を、上田へ移す。
九月中旬。
開発二課の日常運営を、上田が実質的に担当する。
そして、九月下旬。
尾崎による最終確認。
*
「……この進め方で、どうや?」
西田が尋ねた。
「ええと思う」
尾崎が答えた。
「上田は?」
「はい。やってみます」
「田村は?」
「技術面の支援は任せといてくれ」
「ありがとう」
西田は、うなずいた。
「ほな、これで進めよう」
*
「……ただし」
西田が続けた。
「はい」
「十月一日に全部できるようになっとけ、いう話ではないからな」
上田は、顔を上げた。
「……はい」
「日常業務は回せるようにする。でも、難しい判断は引き続き相談してええ」
「……わかりました」
「課長になったからいうて、一人で抱え込まんようにな」
上田は、うなずいた。
「……はい」
*
会議を終えたあと。
尾崎は、上田へ声をかけた。
「……上田」
「はい」
「わからんことは、今のうちに全部聞いとけよ」
上田は、少し笑った。
「……全部は無理ですよ(笑)」
尾崎も、笑った。
「……そらそうやな」
田村が、横から口を挟んだ。
「ほな、俺らがおる間に、できるだけやな」
西田も、少し笑った。
「……せやな」
*
午後五時。
上田は、自席で引き継ぎ計画を確認していた。
八月。
九月。
そして、十月。
予定表には、これまで自分が担当していなかった仕事が少しずつ増えている。
顧客との打ち合わせ。
案件の進捗確認。
メンバーとの面談。
そして、人事評価に向けた準備。
上田は、資料を見直した。
課長になる。
そのことを、まだ実感できているわけではなかった。
しかし、少しずつ仕事は変わり始めていた。
*
隣の席から、声がした。
「……上田さん」
岡元遥だった。
「何や?」
「来週の設計レビュー、お願いしてもいいですか?」
「ええよ」
上田は、予定表を確認した。
「……月曜日は休み取る人も多いから、火曜日にしようか」
「わかりました」
「ほな、資料だけ先に送っといて」
「はい!」
岡元は、自席へ戻っていった。
上田は、予定表にレビューの時間を追加した。
来週も、いつもどおりの仕事が続く。
ただ、その仕事の意味は、少しずつ変わり始めていた。
十月一日。
組織表の名前が変わるだけ。
西田は、そう言っていた。
上田は、その言葉を思い出した。
その日までに、どこまでできるようになるだろうか。
まだ、わからない。
それでも、やってみようと思っていた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、開発二課の課長交代に向けた動きをお届けしました。
尾崎の退職を受け、後任として名前が挙がったのは上田でした。
カナメ初の新卒社員として入社した上田も、今では周囲から相談される立場になっています。
管理職の経験はありませんが、本人はその場で挑戦することを決めました。
ただし、役職が変わったからといって、すぐに何でもできるようになるわけではありません。
尾崎から仕事を引き継ぎ、田村や西田の支援を受けながら、少しずつ新しい役割を覚えていきます。
十月一日は、組織表の名前が変わるだけ。
そのために、今から準備を進めることになりました。
一方、基盤運用課では、小川も着実に経験を積んでいます。
会社を支える人たちは、少しずつ成長しています。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




