つないだ一日
2034年7月20日、木曜日。
午後八時半。
大阪・本町。
株式会社カナメの会議室には、まだ明かりがついていた。
金目は、一人で資金繰り表を見ていた。
午後五時から行われた全社員向けの状況報告。
そこで金目は、七月二十五日の給与支払いについて、まだ保証できないと伝えた。
銀行から三百万円の融資承認を得たこと。
翌日には実行される予定であること。
そして、それでも八百万円が不足する見込みであること。
確認できた事実は、すべて伝えた。
しかし、社員たちが本当に求めていた答えは、まだ示せなかった。
*
金目は、資料を切り替えた。
八月以降の入金予定。
契約済みの案件。
検収を控えている仕事。
そして、審査が続いている金融機関からの融資。
主要取引先の法的整理が判明した六月上旬と比べれば、会社の将来を判断する材料は増えていた。
もちろん、すべてが予定どおり進むとは限らない。
それでも、事業を続けるための道筋は、少しずつ見えてきている。
金目は、確定している入金だけを前提にした試算を開いた。
次に、検収予定が実現した場合。
最後に、融資が追加で実行された場合。
どの条件でも、余裕があるとは言えなかった。
しかし、今すぐ事業を諦めなければならない数字でもなかった。
*
金目は、七月二十五日の欄へ目を戻した。
不足見込み、八百万円。
この金額が埋まらなければ、明日以降の仕事がどれだけ増えても、給与を予定どおり支払えない。
金目は、しばらく考えた。
そして、予定表を確認した。
高瀬は、まだ業務部で作業を続けているようだった。
金目は、メッセージを送った。
『高瀬さん、少しだけお時間いただけますか。二人で確認したいことがあります』
ほどなく返信が届いた。
『承知しました。伺います』
*
数分後。
高瀬が会議室へ入ってきた。
「……お疲れさまです」
「お疲れさまです。遅い時間にすみません」
「いえ。どうされましたか?」
金目は、会議室の扉が閉まったことを確認した。
「……高瀬さん」
「はい」
「例のアレなんですけど」
高瀬は、金目を見た。
「……はい」
「あれ、八百万円でもいけます?」
高瀬は、一瞬、言葉を止めた。
「……八百万円、ですか」
「うん」
「当初のお話では、百万円か二百万円程度だったかと」
「せやな」
金目は、資金繰り表を指した。
「思ったより残ってもうたな」
*
「……金目さん」
高瀬が、少し声を落とした。
「はい」
「本当に、ご自身の資金を?」
「うん。会社に貸すだけやで。返してもらうつもりやし」
「……返済できる保証はありませんよ」
「わかっとる」
金目は、うなずいた。
「せやから、八月以降の数字も確認したんよ」
高瀬は、資料へ目を落とした。
確定している契約。
今後の入金予定。
そして、まだ審査中の融資。
金目は、それらを分けて試算していた。
「……月曜日までに埋まらんかった分は、俺が貸します」
高瀬は、少し考えた。
「……上限は、八百万円ということでしょうか」
「はい」
「それ以上の不足が生じた場合は?」
「そのときは、改めて判断します」
金目は、少し間を置いた。
「今ここで、無制限に出すとは決められへんので」
*
高瀬は、もう一度資料を確認した。
「……金目さん。個人の生活資金についても、問題はないという理解でよろしいですか?」
「うん。そこは分けてあります」
「承知しました」
「会社に貸したあと、自分の生活が回らんようになったら本末転倒やろ」
金目は、少し笑った。
「……それも、資金繰りやからな」
高瀬も、わずかに表情を緩めた。
*
「……では、確認させてください」
高瀬が言った。
「はい」
「七月二十四日の時点で不足が残った場合、最大八百万円を会社へ貸し付ける」
「はい」
「ただし、会社としての資金調達は、引き続き進める」
「もちろんです」
「必要な資金がほかで確保できれば、貸付額は減らす。あるいは実行しない」
「それでお願いします」
高瀬は、うなずいた。
「承知しました。明日中に準備を進めます」
*
「……それと、高瀬さん」
「はい」
「振込限度額とか、給与振込の締切とか、その辺も確認しときたいんです」
「そうですね。八百万円となると、個人口座側の手続きも確認が必要です」
「せやな」
「会社側の受入手続きと、必要な承認についても整理します」
「お願いします」
「給与振込については、二十四日の資金確保でも間に合う方法を確認しています。明日、銀行側と最終確認します」
金目は、うなずいた。
「そこは絶対に間違えられへんな」
「はい」
「お金があっても、振り込めへんかったら意味ないから」
*
「……あと」
金目が続けた。
「はい」
「この件は、まだ二人だけでお願いします」
「承知しました」
「必要な手続きでほかの人に確認せなあかんことがあれば、先に教えてください」
「はい。正式な承認や経理処理に必要な範囲は整理します」
「お願いします」
金目は、少し笑った。
「できれば、例のアレは使わずに済ませたいんですけどね」
高瀬も、わずかに笑った。
「……私も、そう思います」
*
午後九時。
金目は、会社を出た。
七月二十五日の給与支払いは、まだ保証できない。
しかし、最後の不足額を埋めるための準備は始まった。
金目は、社員たちに伝えた言葉を思い返した。
――七月二十四日には、必ず結果をご報告します。
その約束は、変わらない。
明日も、会社としての資金調達は続く。
そして月曜日。
必要なら、最後の選択肢を実行する。
金目は、そう決めていた。
*
2034年7月21日、金曜日。
午前九時半。
業務部では、三宅彩が銀行の入出金明細を確認していた。
七月十九日に承認された、三百万円の融資。
その実行予定日が、今日だった。
三宅は、明細を更新した。
新しい入金が、一件表示された。
金額、三百万円。
振込元は、融資を承認した取引金融機関だった。
「……高瀬さん」
三宅が声をかけた。
「はい」
「三百万円、入りました」
高瀬は、三宅の画面を確認した。
融資契約の内容と照合する。
金額。
実行日。
そして、入金先。
いずれも予定どおりだった。
「……ありがとうございます」
*
高瀬は、資金繰り表を開いた。
七月十三日時点の不足見込み。
千二百万円。
十八日に回収した売掛金。
百万円。
そして、今日実行された融資。
三百万円。
残り、八百万円。
数字を更新する。
金融機関からの融資が一件、実際の資金になった。
高瀬は、融資の返済予定も別の資料へ反映した。
資金が増えたことと、返済義務が生じたこと。
どちらも、会社の数字だった。
*
「……金目さんに報告します」
高瀬が言った。
「お願いします」
三宅は、次の入金確認へ戻った。
金目は、午前中に別の金融機関との面談を予定していた。
高瀬は、短いメッセージを送った。
『本日、融資三百万円の着金を確認しました。七月二十五日までの不足見込みは八百万円です』
しばらくして、返信が届いた。
『ありがとうございます。銀行さんにもお礼をお伝えください。引き続きお願いします』
*
午前十一時。
金目は、金融機関の応接室にいた。
目の前には、今後の事業計画と資金繰り表が置かれている。
「……新しい契約については、こちらの資料に反映しています」
金目が説明した。
担当者は、資料を確認した。
「ありがとうございます。今後の収益見通しについては、以前より具体的になっていますね」
「はい。ただし、まだ確定していない案件もあります」
「承知しています」
担当者は、次の資料を開いた。
「融資については、引き続き審査を進めます」
「ありがとうございます」
「ただ、来週初めの実行は難しい見込みです」
金目は、うなずいた。
「……承知しました」
*
「……ちなみに」
金目が尋ねた。
「はい」
「審査自体は、このまま継続していただけますか?」
「はい。追加で確認したい資料については、改めてご連絡します」
「ありがとうございます」
金目は、頭を下げた。
七月二十五日には間に合わない。
しかし、その先の運転資金として、融資が必要になる可能性はある。
金目は、審査の継続をお願いして金融機関をあとにした。
*
午後一時。
高瀬は、銀行の担当者と給与振込の手続きを確認していた。
給与データは、すでに作成されている。
支給額の確認も進んでいる。
問題は、二十四日に資金が揃った場合でも、二十五日に支払いを実行できるかどうかだった。
高瀬は、事前に相談していた振込方法について、受付期限と必要な承認を改めて確認した。
その方法なら、二十四日に必要資金を確保したあとでも、翌日の支払いに間に合わせられる。
ただし、通常の給与一括振込とは異なる手順が必要だった。
高瀬は、担当者から案内された条件を記録した。
受付期限。
承認手順。
必要な口座残高。
そして、振込結果の確認方法。
金目へ伝えるための資料に、一つずつ整理していった。
*
午後二時。
金目は、会社へ戻っていた。
「……高瀬さん、三百万円、ありがとうございました」
「いえ。無事に実行されてよかったです」
「ほんま、ありがたいですね」
金目は、資金繰り表を確認した。
「……八百万円か」
「はい」
「ほかの入金予定は?」
「現在確認中のものはありますが、七月二十五日までに確定できるかは不透明です」
「……せやな」
*
「……給与振込の方は?」
金目が尋ねた。
「銀行側と確認できました」
「ほう」
「二十四日に必要な資金を確保できれば、事前に確認した方法で二十五日の支払いに間に合わせられます」
「……よかった」
金目は、小さく息を吐いた。
「ただし、必要な手続きは本日中に準備しておきます」
「お願いします」
「会社側の借入手続きについても、必要な確認を進めています」
金目は、うなずいた。
「……ほな、あとは月曜日の数字次第やな」
「はい」
*
午後三時。
金目は、自分の取引銀行にも確認を取っていた。
個人口座から、会社の口座へ八百万円を移す場合の手続き。
振込限度額。
高額送金に必要な本人確認。
そして、実際に資金が反映されるまでの時間。
銀行から案内された方法に従い、必要な事前手続きを進めた。
送金先となる会社の口座情報も、改めて確認する。
ただし、まだ振り込まない。
月曜日までに会社として資金を確保できれば、この手続きは使わずに済む。
金目は、確認結果を高瀬へ共有した。
『個人口座側の準備はできました。月曜日の最終判断まで、引き続きお願いします』
高瀬から返信が届いた。
『承知しました。会社側の準備も進めています』
*
午後五時。
業務部では、福原奈央が社員からの問い合わせを整理していた。
七月二十日の報告以降、給与支払いについての質問が増えている。
七月二十四日に、本当に結論が出るのか。
もし給与が支払われなかった場合、どうなるのか。
そして、八月以降の給与はどうなるのか。
どれも、社員にとって切実な問題だった。
福原は、確認できた内容だけを回答し、未確定のものは質問管理表に記録していた。
「……三宅さん」
「はい?」
「月曜日、どうなるんでしょうね」
三宅彩は、手を止めた。
「……まだ、わからんな」
「……そうですよね」
「ただ、今日も三百万円入ったやろ」
「はい」
「社長も高瀬さんも、ずっと動いてはる」
福原は、うなずいた。
「……そうですね」
三宅は、少し考えた。
「せやから、私らもできることを進めよう」
「はい」
*
同じ頃。
営業部では、大本恭平が翌週の顧客打ち合わせ資料を確認していた。
新しく受注した要件整理案件。
その先の開発工程について、顧客が判断できる材料を整理している。
松井慎吾が、資料を確認した。
「……大本君、ここはもう少し整理した方がよさそうですね」
「どこですか?」
「次の工程へ進む場合の条件です」
「……なるほど」
大本は、資料を見直した。
*
「……松井さん」
大本が言った。
「はい?」
「月曜日、どうなるんでしょうね」
松井は、少し考えた。
「……会社は、通常どおり業務を続ける予定ですよ」
「……そうですよね」
「ただ、心配なのはわかります」
大本は、うなずいた。
「せっかく次の仕事につながりそうなんですけどね」
「そうですね」
松井は、資料を指した。
「だからこそ、今できる準備は進めましょう」
「……はい」
大本は、もう一度資料を開いた。
社長は、銀行を回っている。
業務部は、資金繰りを確認している。
自分には、自分の仕事がある。
その仕事を次につなげることが、今の大本にできることだった。
*
開発部では、田村洋介が翌週の作業予定を確認していた。
自分が参加している改修案件。
開発一課の担当者の配置。
そして、引き続き調整が必要な社員。
七月二十五日の給与がどうなるかは、まだわからない。
しかし、月曜日には顧客との打ち合わせがある。
田村は、必要な資料を整理していた。
一方、尾崎達也も開発二課の予定を確認していた。
転職先企業からの正式な条件提示は、まだ届いていない。
会社に残るか、別の道を選ぶか。
その答えも、まだ出していなかった。
それでも、課長としての仕事は続いている。
尾崎は、担当者ごとの役割を見直した。
誰かが休んでも、仕事が止まらないようにする。
今の自分にできることを、進めておきたかった。
*
午後六時。
金目は、自席で資金繰り表を確認していた。
七月二十五日。
不足見込み、八百万円。
数字は、朝から変わっていない。
金目は、別の資料を開いた。
八月以降の入金予定。
契約済みの案件。
そして、金融機関との協議状況。
会社を続けられる可能性は、以前より具体的になっている。
ただし、今後の入金が予定どおり進む保証はない。
金目は、資金調達の一覧を更新した。
実行済み。
審査中。
追加資料待ち。
実行時期未定。
七月二十五日には間に合わなくても、八月以降の運転資金として必要になるものがある。
金目は、まだ一つも打ち切らなかった。
*
高瀬から、短い報告が届いた。
『給与支払いに必要な事務準備は、確認した手順に沿って進めています。月曜日の最終判断に対応可能です』
金目は、返信した。
『ありがとうございます。引き続きお願いします』
そして、予定表を閉じた。
月曜日までに会社として資金を確保できれば、個人の資金を使う必要はない。
しかし、確保できなければ。
そのときに何をするかは、もう決めていた。
*
2034年7月24日、月曜日。
午前九時。
株式会社カナメの業務部では、週末を挟んだ入出金の最終確認が始まっていた。
高瀬は、三宅と銀行口座の残高を照合した。
金曜日以降の入金。
週明けの支払予定。
そして、明日の給与支払い。
「……三宅さん、こちらの入金は?」
「予定どおりです」
「ありがとうございます」
「ただ、追加で確認していた入金については、まだ着金していません」
高瀬は、うなずいた。
*
「……金融機関の方は?」
三宅が尋ねた。
「現在審査中のものについては、明日までの実行は難しい状況です」
「……そうですか」
三宅は、資料へ目を戻した。
高瀬は、最終的な資金繰りを更新した。
七月二十五日までの不足額。
八百万円。
金曜日から、数字は変わらなかった。
三宅は、しばらく画面を見ていた。
「……結局、八百万円残りましたね」
「はい」
高瀬は、うなずいた。
「金目さんに報告します」
*
午前九時半。
金目が業務部へやってきた。
「……高瀬さん、今日の数字、出ました?」
「はい。こちらです」
高瀬は、資金繰り表を共有した。
「七月二十五日までの不足額は、八百万円です」
金目は、画面を見た。
「……金曜日から変わらんかったな」
「はい」
「ほかの資金調達については?」
「引き続き進めていますが、明日までの実行は難しい状況です」
金目は、うなずいた。
「……八月以降の見通しも、もう一回確認させてください」
*
高瀬は、別の資料を開いた。
既存契約に基づく入金予定。
検収を控えた案件。
そして、金融機関との協議状況。
確定しているものと、条件付きのものを分けて表示している。
「……現在の契約に基づく入金予定は、以前より具体的になっています」
高瀬が説明した。
「はい」
「ただし、すべて予定どおり入金される保証はありません」
「……せやな」
「また、今後の支払いを含めると、会社の資金繰りに十分な余裕があるとは言えません」
金目は、うなずいた。
「そこは理解しています」
*
「……ほな、高瀬さん」
金目が言った。
「はい」
「ちょっと、二人で確認しましょうか」
高瀬は、金目を見た。
そして、小さくうなずいた。
「……承知しました」
二人は、会議室へ移動した。
扉が閉まった。
*
「……高瀬さん」
「はい」
「例のアレ、お願いします」
高瀬は、すぐにうなずいた。
「……八百万円ですね」
「うん」
「金曜日に確認した手続きで進められます」
「ありがとうございます」
金目は、資料を見直した。
「ほかの方法も最後まで確認してもらったけど、間に合わんかったな」
「……そうですね」
「でも、銀行さんから三百万円借りられたんは大きかった」
「はい」
「せやから、最後に残った八百万円だけ、俺が貸します」
*
「……金目さん」
高瀬が言った。
「はい」
「もう一度、確認させてください」
「もちろんです」
「会社からの返済を前提とした貸付です。ただし、返済できない可能性もあります」
「わかっとります」
「個人資金を使うことについても、問題はありませんか?」
「うん。そこは確認済みや」
金目は、少し笑った。
「……金曜日から、ずっと同じ数字見とったからな」
高瀬も、わずかに笑った。
*
「……では、進めます」
高瀬が言った。
「お願いします」
「三宅さんにも、経理処理と入金確認をお願いする必要があります」
「もちろんです」
「必要な承認と貸付条件の記録も、準備した手順で確認します」
「はい」
金目は、うなずいた。
「……ほな、間に合わせましょうか」
高瀬は、資料を閉じた。
「承知しました」
午前九時四十五分。
金目は、会社への八百万円の貸付を実行することにした。
それは、木曜日の夜から準備していた選択肢だった。
そして、その決断をまだ知らない三宅が、業務部で二人の戻りを待っていた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、七月二十五日の給与支払いに向けた、最後の準備をお届けしました。
金融機関からの三百万円の融資が実行され、資金不足は八百万円まで縮小しました。
しかし、残された時間はわずかです。
金目は、社員への説明を終えた夜、高瀬にだけ一つの相談を持ちかけました。
以前から確認していた「例のアレ」。
二人の間では、それだけで話が通じます。
もちろん、簡単に選べる方法ではありません。
金目は今後の入金予定や返済可能性を確認し、リスクを理解したうえで準備を進めました。
そして七月二十四日。
最後まで残った不足額に対して、一つの決断を下しました。
その判断が、会社にどのような変化をもたらすのか。
次回もお付き合いいただければ幸いです。




