残された時間
2034年6月6日、火曜日。
大阪・本町。
株式会社カナメでは、昨日から続く確認作業が、朝から進められていた。
主要取引先の一社が、法的整理に入った。
その知らせが届いてから、まだ一日も経っていない。
営業部では契約状況を調べ、開発部では進行中の案件を確認し、業務部では請求と入金予定を整理していた。
そして今日。
金目は、朝から高瀬との打ち合わせを予定していた。
*
午前九時。
「金目さん、おはようございます」
高瀬が、会議室へ入ってきた。
「おはようございます」
金目が答えた。
「昨日の資料、確認しました。ありがとうございます」
「いえ。まだ確認できていない項目もありますが」
「それで大丈夫です」
金目は、資料を開いた。
「今日は、資金繰りの方を確認したいんです」
「承知しました」
高瀬は、画面を共有した。
現在の預金残高。
今後の入金予定。
そして、給与や外注費、事務所賃料などの支払予定。
いつもの月次資料と、並んでいる項目は同じだった。
しかし、今回はその横に、新しい列が追加されていた。
――入金が予定どおり行われない場合。
*
「まず、現在の資金残高についてご説明します」
高瀬が言った。
「お願いします」
「直近の給与や外注費については、現在の預金残高で支払い可能です」
「……そらよかった」
金目は、うなずいた。
「ただし、今後の入金予定には、今回の取引先からのものが含まれています」
「せやな」
「そのため、予定どおり入金されなかった場合の影響を確認しています」
「ありがとうございます」
金目は、資料を見直した。
「……ちなみに、ほかのお客様からの入金は?」
「現在のところ、予定どおり見込んでいます」
「了解です」
「ただし、今回の影響で案件の進行時期が変われば、今後の入金予定も変わる可能性があります」
「せやな」
*
「こちらが、通常の入金予定を前提とした資金繰りです」
高瀬が、最初の表を示した。
「なるほど」
「そして、こちらが対象取引先からの入金が当面ない場合です」
金目は、二つの表を見比べた。
支払予定は、ほとんど変わっていない。
給与。
社会保険料。
外注費。
事務所賃料。
しかし、入金予定の一部がなくなっている。
「……結構違うな」
金目が言った。
「そうですね」
高瀬が答えた。
「現時点では、回収可能額を確定できていませんので、入金がない場合も想定しています」
「せやな」
「ただし、これは全額回収不能と確定したという意味ではありません」
「了解です」
*
「それから、もう一つあります」
高瀬が続けた。
「はい」
「今後の予定案件についても、見直しが必要になります」
「……ああ、そっちもあるな」
金目は、うなずいた。
「これまで、対象取引先からの継続案件を売上見込みに含めていました」
「せやな」
「しかし、今後も同じように受注できるとは考えられません」
「なるほど」
「そのため、予定案件がなくなった場合の試算も用意しています」
高瀬は、三つ目の表を示した。
*
金目は、資料を見比べた。
一つ目は、従来の事業計画を前提としたもの。
二つ目は、対象取引先からの入金が当面ない場合。
三つ目は、入金がなくなり、今後の予定案件も失われる場合。
いずれも、現時点で確認できている数字をもとにした試算だった。
ただし、前提条件が変われば、結果も変わる。
「……なるほどな」
金目は、少し考えた。
「高瀬さん」
「はい」
「このまま支出を変えへんかったら、いつ頃まで持ちそうですか?」
高瀬は、資料を切り替えた。
「現在の条件では、回収状況や今後の受注によって幅があります」
「せやな」
「ただ、最も厳しい条件では、資金残高が継続的に減少する見込みです」
「……なるほど」
「現状の支出を維持したままでは、いずれ必要な支払いに対して資金が不足する可能性があります」
金目は、しばらく資料を見ていた。
*
「……つまり」
金目が口を開いた。
「はい」
「今すぐどうこういう話ではないけど、このままやったらあかんいうことやな」
「そうですね」
高瀬が答えた。
「何らかの対応が必要になる可能性が高いと考えています」
「……わかった」
金目は、うなずいた。
「ありがとうございます」
「いえ」
「この資料、経営会議でも共有してください」
「承知しました」
*
午前十時三十分。
緊急経営会議が始まった。
参加しているのは、金目、西田、高瀬、小坂の四人。
昨日の午後にも、同じ顔ぶれで情報共有を行っていた。
しかし、今日は違う。
昨日は、何が起きているのかを確認した。
今日は、その影響を踏まえて、会社として何をするべきか考える。
「……ほな、始めようか」
金目が言った。
三人がうなずいた。
*
「まず、営業部からご報告します」
小坂が資料を共有した。
「昨日から、対象取引先との契約状況を確認しています」
「ありがとうございます」
「契約済みの案件については、現在の契約条件と進行状況を整理しました」
「なるほど」
「ただし、今後の扱いについては、先方の正式な連絡を待つ必要があります」
「せやな」
「相談段階だった案件については、いったん受注見込みから外す方向で考えています」
「……そうやな」
金目は、うなずいた。
「今までどおり受注できる前提には、もうできへんな」
「はい」
*
「開発部の方はどうや?」
金目が尋ねた。
「一課と二課で、対象取引先の開発案件を担当しとる」
西田が答えた。
「せやな」
「そのうち、今週から着手する予定やった案件は、契約の扱いを確認するまで待っとる」
「了解」
「進行中の案件についても、必要な作業と、判断を待てる作業を分けとるで」
「ありがとうございます」
「基盤運用課の方は、今のところ監視を続けとる」
「せやな」
金目は、うなずいた。
「勝手に止めるわけにはいかんしな」
「ほんま、それや」
*
「……ただ、金目」
西田が続けた。
「うん?」
「この先、対象取引先の案件がなくなると、開発部の予定も結構変わるで」
「せやな」
「今は、担当者が決まっとる仕事もあるけど」
「うん」
「それがなくなった場合、別の案件へ移す必要がある」
「なるほど」
「ただ、すぐに全員分の仕事が用意できるとは限らん」
金目は、うなずいた。
「……せやな」
西田は、資料を閉じた。
「そこは、早めに考えとかなあかんと思う」
「ありがとう」
*
「次に、業務部からご報告します」
高瀬は、朝、金目と確認した三条件の試算を共有した。直近の支払いはできるが、入金の停止に今後の案件消失まで重なると、残高の減り方が変わる。
「……結構、違うな」
西田が、三つの表を見比べた。
「営業部でも、受注見込みを見直します」
小坂が言った。
「お願いします。確定している契約と、まだ相談段階だったものは、分けて考えたいです」
「承知しました」
金目は、三人の報告を聞きながら資料へ目を戻した。
受注見込みが変われば、開発部の仕事も、入金予定も変わる。どれか一つの部署で埋められる穴ではなかった。
「今の支出を続けたら、いずれ資金が足らんようになる可能性がある。時期には、まだ幅があるんですね」
「はい。現在の試算では、そうなります」
高瀬が答えた。
直近の給与を支払えることと、これまでの計画を続けられることは違った。金目は、その違いを三つの表の前で受け止めていた。
*
午前十一時五十分。
金目は、資料を閉じた。
「……ほな、午後は対応を考えようか」
西田がうなずいた。
「せやな」
「まず、何を続けなあかんのか」
金目が続けた。
「それから、何を変えられるのか」
「はい」
高瀬が答えた。
「今ある情報で、できることから決めていきたいと思います」
「承知しました」
小坂も、うなずいた。
*
2034年6月6日、火曜日。正午。
損失額も、失われる案件の全体も、まだ確定していない。それでも、昨日までの事業計画を変える必要だけは見えていた。
*
午後一時。
金目、西田、高瀬、小坂の四人が、再び会議室へ集まった。午前中の資料を机に広げ、今度は、何を守り、何を変えるかを決める。
*
「……ほな、続き始めようか」
金目が言った。
三人がうなずいた。
「まず、今までどおり続けなあかんことを確認したいんです」
「はい」
高瀬が答えた。
「給与の支払いは、予定どおり進めます」
「承知しました」
「直近の支払いは問題ないんですよね?」
「はい。現在の資金残高では対応可能です」
「了解です」
金目は、少し考えた。
「ただ、その先まで何も変わらんとは言えへんので」
「そうですね」
「そこは、引き続き確認をお願いします」
「承知しました」
*
「それから、ほかのお客様の仕事は止めへん」
金目が続けた。
「せやな」
西田がうなずいた。
「倒産した取引先以外の案件については、今のところ予定どおり進められるで」
「そらよかった」
「ただ、開発部の担当を調整する必要は出てくるかもしれん」
「せやな」
「そこは、西田に任せるわ」
「了解」
金目は、小坂へ目を向けた。
「営業部も、ほかのお客様との仕事は予定どおり進めてください」
「承知しました」
「今までの契約は、ちゃんと守りたいんで」
「はい」
*
「……では、次に変えられるところを考えようか」
金目が言った。
高瀬が、支出予定の資料を開いた。
「現在、予定されている設備投資と、新規の支出について整理しています」
「ありがとうございます」
「通常業務に必要なものを除けば、時期を調整できる支出もあります」
「なるほど」
「まずは、そちらを一時的に保留する方法が考えられます」
金目は、うなずいた。
「それでいこうか」
「承知しました」
「ただ、仕事を続けるのに必要なものまで止めんといてください」
「はい」
「何が必要かは、各部門で確認してもろたらええと思います」
*
「採用の方はどうしましょうか?」
高瀬が尋ねた。
金目は、少し考えた。
「……今の採用計画、どこまで進んどります?」
「現在、選考中の候補者がいます」
「なるほど」
「内定済みの方については、現時点で確認できている範囲では予定どおりです」
「了解」
金目は、資料を見直した。
「……ほな、新しい募集を増やすんは、いったん待とうか」
「承知しました」
「ただ、すでに約束しとることは、勝手に変えんようにしてください」
「はい」
「選考中の方についても、状況を確認してから判断したいです」
「承知しました」
*
「……次は、倒産した取引先への対応やな」
金目が言った。
小坂が、契約一覧を開いた。
「現在、契約書と発注書の確認を進めています」
「ありがとうございます」
「先方の正式な連絡窓口については、引き続き確認中です」
「なるほど」
「こちらから連絡を取る場合も、対応方法を確認してから進めたいと思っています」
「そうですね」
金目は、うなずいた。
「契約の扱いは、専門家にも確認しようか」
「承知しました」
「勝手に判断して、あとから困るんは避けたいしな」
西田も、うなずいた。
「せやな。運用中のシステムもあるし」
*
「高瀬さん、資金調達の方はどうですか?」
金目が尋ねた。
「現時点では、既存の金融機関との取引状況を整理しています」
「なるほど」
「今後、追加の運転資金が必要になる場合に備えて、相談の準備を進めることはできます」
「お願いします」
金目は、少し考えた。
「まだ借りると決めたわけではないけど、選択肢は持っときたいんです」
「そうですね」
「条件がわかってから考えるより、先に相談しといた方がええやろうし」
「承知しました」
*
「営業部の方も、今後の受注見込みを整理します」
小坂が言った。
「お願いします」
金目が答えた。
「ただ、すぐに失った売上を全部埋められるとは思っていません」
「せやな」
「既存のお客様への追加提案や、新しい商談の状況を確認していきます」
「ありがとうございます」
金目は、うなずいた。
「無理な条件で受注せんようにしてください」
「はい」
「仕事増やそうとして、別の問題作ってもしゃあないしな」
小坂は、少し笑った。
「そうですね」
*
会議では、その後も具体的な対応が整理された。
不要不急の新規支出は、一時的に保留する。
倒産した取引先との契約については、専門家へ確認する。
資金調達の選択肢を調べる。
既存顧客との仕事は、引き続き進める。
そして、開発部では案件の状況に応じて、人員配置を見直す準備をする。
どれも、すぐに失われた売上を取り戻せる方法ではなかった。
しかし、今できることだった。
*
午後三時。
会議を終えたあと、金目は高瀬と西田を呼び止めた。
「……ちょっとええ?」
「はい」
高瀬が答えた。
「何や?」
西田も、席に戻った。
「社員への説明のことなんやけど」
二人が、金目へ目を向けた。
「そろそろ、ちゃんと話さなあかんと思うんよ」
「そうですね」
高瀬がうなずいた。
「開発部でも、今回の件を知っとる社員はおるしな」
西田が言った。
「せやろ」
「担当案件の確認もしとるから、何かあったんはわかっとると思うで」
「そうやな」
*
「……ただ、今の段階で何を話せるやろな」
金目が言った。
高瀬は、少し考えた。
「確認できている事実と、会社として決めた対応方針は説明できます」
「せやな」
「一方、損失額や今後の資金繰りについては、まだ確定していない部分があります」
「そうですね」
「そこは、未確定であることを明確にした方がよいと思います」
「……せやな」
金目は、うなずいた。
*
「……社員からしたら、不安やろな」
西田が言った。
「そらそうやろ」
金目が答えた。
「自分の担当しとる仕事がどうなるかわからん人もおるし」
「せやな」
「会社のことも、気になるやろうしな」
高瀬が、少し考えた。
「説明の機会を設けた方がよいと思います」
「そうですね」
金目は、うなずいた。
「ほな、全社員向けに時間を取ろうか」
「了解」
西田が答えた。
「業務部で、日程と案内を調整します」
「お願いします」
*
「……ただ、一つだけ」
金目が言った。
「はい?」
高瀬が尋ねた。
「大丈夫やから安心してくれ、とは言わんようにしたいんです」
二人は、静かに聞いていた。
「まだ、どこまで影響するかわかってへんし」
「そうですね」
「わからんことを、大丈夫や言うてもしゃあないんで」
西田がうなずいた。
「せやな」
「今わかっとることと、会社として何をするつもりなんか」
金目は、少し考えた。
「そこを、ちゃんと伝えたいと思います」
「承知しました」
高瀬が答えた。
*
午後四時。
金目は、自席へ戻っていた。
机の上には、昨日から確認してきた資料が並んでいる。
先月までの事業計画。
新しく作られた資金繰りの試算。
倒産した取引先との契約一覧。
そして、今日決めた対応方針。
金目は、それぞれを見直した。
直近の給与は支払える。
ほかの顧客との仕事も続けられる。
しかし、これまでと同じ支出を続けることは難しくなるかもしれない。
そのために、今できることから始める。
今日決められたのは、そこまでだった。
*
「……金目」
西田が声をかけた。
「おお、どうしたん?」
「ちょっと様子見に来た」
「……何やそれ(笑)」
金目は、少し笑った。
西田は、隣の椅子に腰を下ろした。
「……どうや?」
金目は、資料を見た。
「……思っとったより、厳しいな」
「せやな」
「昨日までは、どこまで影響あるんかもわからんかったけど」
「うん」
「今日、数字見たら、さすがにこのままではあかんいうんはわかったわ」
西田は、うなずいた。
*
「……でも、まだ何も決まったわけちゃうしな」
金目が言った。
「せやな」
「今後の入金も、全部なくなると決まったわけちゃう」
「うん」
「ほかのお客様との仕事もあるし」
「せやな」
金目は、少し考えた。
「……ほな、できることからやろうか」
西田が、うなずいた。
「せやな」
*
「……しかし、金目」
西田が言った。
「何や?」
「お前、ちゃんと飯食うたんか?」
「……あ」
金目は、時計を見た。
午後四時を過ぎていた。
「……忘れとった(笑)」
西田が、少し呆れたように笑った。
「……あかんやろ(笑)」
「せやな(笑)」
「会社のこと考えるんはええけど、自分が倒れたら困るで」
「……ほんまやな」
金目は、少し笑った。
「ほな、何か食べてくるわ」
「そうしとき」
*
午後五時。
金目は、翌日の予定を確認していた。
金融機関との相談準備。
契約対応についての専門家への確認。
そして、全社員への説明に向けた資料の整理。
やるべきことは、昨日より増えていた。
それでも、今日、何を先にするべきかは少し見えてきた。
金目は、資料を保存した。
*
失われる売上も、回収できるお金も、まだ確定していない。
明日の予定は埋まったが、会社がどこまで耐えられるのかは、わからないままだった。
それでも金目は、保存した資料を閉じた。
残された時間を、明日の相談と説明のために使わなければならなかった。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
今回は、主要取引先の倒産による影響が、具体的な数字として見え始めるお話でした。
直近の支払いはできる。しかし、これまでと同じように会社を運営し続けられるとは限らない。
金目たちは、そんな現実に直面しています。
会社を守るためには、何を続け、何を変えるべきなのか。
金目が最初に決めたのは、社員への給与を予定どおり支払い、ほかのお客様との仕事を続けることでした。
同時に、支出の見直しや資金調達の準備も始めています。
ただし、これで問題が解決したわけではありません。
何を守りたいのかが明確になっても、すべてを守れるとは限らないからです。
そして、金目自身もまた、この状況に向き合う一人の人間です。
西田が食事を気にかけたのも、長い付き合いだからこそなのでしょう。
まだ、危機は始まったばかり。
金目たちがこれから何を選び、どのような判断を重ねていくのか。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




