第9話 治さないという治療
王都の中央診療所、ダグの病室。
ダグが「後付けの言い訳だ」と絞り出した最後の反論は、ノエルが提示した『受傷五分後に冷却処置を開始した』という遠征簿の記録によって無残に砕け散っていた。
「ダグ氏。あなたが熱に浮かされ、痛みと恐怖の中で『魔法で治してくれ』と懇願した主観的な記憶は事実でしょう」
ノエルは鞄から、最初の審査でロイドたちに見せた消耗品のリストを再び取り出した。
「しかし、ミーナ氏が『何もしなかった』というあなたの認識は、明確に間違っています」
ノエルはリストを病室の担当医師へと手渡した。
「先生。ダグ氏のような体格の成人男性が、覚醒薬と血吸い胞子の影響で極度の高熱を発し、それが三日間続いたと仮定します。その間、体温を致死ライン未満に抑え込み、かつ胞子の増殖を遅らせるためには、どれくらいの頻度で冷却布を交換し、抑制薬を投与し続ける必要がありますか?」
医師は少し顎をさすり、壁に掛けられた時計とダグの体格を交互に見比べた。
「……そうですね。覚醒薬で血流が異常促進されているとなれば、熱の上がり方も異常だ。少なくとも三十分に一度は全身の冷却布を取り替え、薬効を保つために抑制薬も数時間おきにすり込み続けなければ、すぐに脳が焼き切れるか、胞子に内臓を食い破られていたでしょう」
「では、その三日間、不眠不休で処置を継続した場合、使用される冷却布と抑制薬の量はどれくらいになりますか」
ノエルの問いに、医師はしばらく頭の中で計算をし、具体的な枚数と薬の瓶の数を口にした。
「……およそ、それくらいは必要になりますね。通常の外傷治療ではあり得ないほどの異常な消費量ですが」
「ありがとうございます」
ノエルは頷き、医師の口から出た数字と、手元の消耗品リストに記載された『消費量』を、ダグとロイドに見えるように掲げた。
「ロイド隊長。ダグ氏。ギルドの購買部からあなた方が買い出し、遠征から帰還した際に『減っていた』冷却布と抑制薬の量……医師が今計算した三日間の継続処置に必要な量の範囲に収まっています」
「あっ……」
ロイドが息を呑んだ。
「あの三日間、あなた方はダグ氏の看病と、魔獣の警戒で交代で寝ずの番をしていた。しかし、ミーナ氏は違った。彼女は三日間、処置の方針を保ち続けた。ロイド隊長が記した交換時刻と、門医が確認した使用済み包材も、この量と合っています。消耗品の減りだけでなく、実際に使った記録があるのです」
沈黙が病室を支配した。
ミラは、ミーナの泥と古い血で汚れたローブを見つめた。
(そうか……回復術師は、普段は魔法を使うから、あんなに血で汚れたりしない。あの汚れは、ダグさんにつきっきりで、泥沼の野営地で何度も布を絞り、必死に看病を続けていた証だったんだ)
何もしなかったのではない。
魔法を使えば一瞬で終わるはずの治癒を封じられた状況で、彼女は仲間に布の交換を頼み、自分は投薬と傷の確認を引き受けて、三日間をつないでいたのだ。
「先生」
ノエルは再び医師に向き直った。
「もしあの時、ダグ氏の懇願に負け、あるいはロイド隊長の命令に従って、ミーナ氏が治癒魔法を使っていたら。あるいは、封印された治癒石を砕いていたら、どうなっていましたか」
医師は表情を強張らせ、ダグの腹部を指差した。
「重く悪化する危険がありました。死亡すると断定はできません。しかし、その危険を冒して再生魔法を使う状況ではなかった。搬送時の検査でも胞子が確認されています」
「ひっ……!」
ダグの喉から、ひきつるような悲鳴が漏れた。
自分がどれほどの綱渡りをしていたのか。自分が使った違法薬物がどれほど事態を悪化させ、そして、見捨てられたと恨んでいた相手が、どれほどの覚悟で自分の命を繋ぎ止めてくれていたのか。
ダグはミーナの手を見た。布を絞り続けた指に、まだ赤い荒れが残っていた。
「ミーナ……お前……俺のために……」
ダグは震える手でシーツを握りしめ、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。
「ごめん……ごめんっ! 俺が馬鹿だった! 薬なんかに手を出して、お前を人殺しにさせるところだった! 治してくれって、あんなにひどい言葉で罵ったのに……見捨てずにいてくれて……ごめん……っ!!」
ベッドの上で泣き崩れるダグを見て、ロイドもまた、顔を歪めてミーナの前に深く頭を下げた。
「俺も……すまなかった、ミーナ。お前が何も言わないのをいいことに、お前が治療をサボったんだと決めつけて、追放なんて……俺は、隊長失格だ」
ロイドの絞り出すような謝罪に、ミーナは何度も首を横に振った。
「やめてください、隊長。私こそ……ごめんなさい。私がもっと早く、ダグさんの薬のことに気づいて止めていれば……。みんなに本当のことを言えなくて、不安にさせて、ごめんなさい……」
ミーナの目からも、抑えきれない涙がこぼれ落ちていた。
守秘義務という重い鎖から解き放たれ、ようやく彼女は一人の少女としての感情を吐き出すことができた。
ミラは目頭を押さえながら、その光景を見守った。
職務放棄。そう糾弾された治癒術師の沈黙の裏には、患者の違法行為を隠し、かつ命を救うための、文字通りの血の滲むような『治療』が隠されていたのだ。
「さて。これで事実関係と、すべての証拠の確認が終了しました」
ノエルは感情の動かない平坦な声で宣言し、手にしていた記録書を閉じた。
その冷ややかな態度に、ミラは少しだけムッとしてしまう。これだけ感動的な真実が明らかになったというのに、この上司は相変わらず数字と規約のことしか頭にないらしい。
「ロイド隊長。ダグ氏。ミーナ氏。これより、冒険者ギルド第三審査室としての正式な結論を言い渡します。一度ギルド本部へ戻りましょう」
ノエルは踵を返し、病室の出口へと向かった。
「ダグ氏は休んでいてください。判定書はここへ届けます。皆さんには、処置を続けるために何を共有すればよかったかも、改めて伺います」




