第7話 黒い斑点
「黒斑……? なんだそれは」
ロイドは信じられないものを見るように、ノエルが机に置いた門医の記録を凝視した。
「そんなもの、俺は見ていないぞ! ダグの腹は魔獣の爪で裂かれて、血が溢れ出していただけだ。斑点なんかどこにも……」
「大量の出血と泥で汚れた傷口の周辺を、素人が一目見ただけで正確に観察するのは困難です」
ノエルは淡々とした声でロイドの言葉を遮った。
「ただし、門医の記録は帰還時のものです。受傷直後にも同じ兆候があったか、別に確かめなければなりません」
ノエルは手元にある『銀の天秤』の遠征簿を引き寄せた。
「ロイド隊長。あなたがつけていたこの遠征簿に、当時の状況がこう記されています。『一六時二〇分、ダグ受傷。直ちにミーナが応急処置に入るが、一六時二五分、彼女は治癒魔法を発動する前に詠唱を中断し、急に患部を冷やし始めた』……と」
「そうだ! だから俺は、こいつが急に治療を放棄したんだと……」
「その少し下に、彼女の説明もあります。『黒い斑点がある、魔法は待ってほしいと発言』。隊長が、ご自身で書いた部分ですね」
ノエルは傍らに控えていたミラに目配せをした。
ミラはすぐさま、部屋の書棚から分厚い革表紙の書物を取り出し、ノエルの手元へ置いた。それはギルドが公認している、冒険者のための『野外医療手引書』だった。
ノエルは手引書を特定のページで開き、ロイドの目の前に滑らせた。
「読んでください。第三章、特殊感染症の項目です」
ロイドは訝しげに眉をひそめながら、その項目を目で追った。
「『……迷宮下層や沼地に生息する一部の魔獣は、爪や牙に微小な寄生体を宿している場合がある。特に、受傷直後に患部周辺へ特異な黒斑が現れた場合、血吸い胞子による感染が強く疑われる』」
読み上げるロイドの声が、徐々に震えを帯びていく。
「『……血吸い胞子は宿主の血液と魔力を養分にして爆発的に増殖する。したがって、黒斑を伴う寄生症疑いには、細胞の再生と代謝を強制的に促進させる【再生魔法(治癒魔法)】の使用を厳に禁ずる。使用した場合、胞子の急増殖によって急激な状態悪化を招き、救命できなくなるおそれがある』」
ロイドの顔から、さっと血の気が引いた。
静まり返った第三審査室の中で、ノエルの凪いだ声だけが響く。
「お分かりですか、ロイド隊長。もしあの時、あなたの言う通りにミーナ氏が治癒魔法を行使していれば、あるいはあなたが無理やりにでも治癒石の封印を砕いていれば……ダグ氏の状態を、さらに悪化させていたおそれがあります」
「そ、んな……」
ロイドはよろめくように後ずさりし、椅子にどさりと腰を下ろした。
「魔法を使う方が、危なかったかもしれないのか……?」
「ええ。ダグ氏を見殺しにしようとしたのではありません。ダグ氏を生かすために、あえて魔法を使わなかった。魔法の代わりに、冷却布で体温を下げて胞子の活動を遅らせ、抑制薬を投与して時間を稼ぐという、手引書に沿った方針を選んだと考えられます。実際の量や方法は、担当医に確認します」
ミラは驚きとともに、うつむき続けるミーナを見つめた。
彼女は職務放棄などしていなかった。むしろ、感染を疑って処置を選び、仲間の無理解と罵倒を浴びながらも、三日間不眠不休でダグの命を繋ぎ止めていたのだ。門医の記録と、大量に消費された冷却布の記録が、その献身を何よりも雄弁に物語っている。
「すごい……ミーナさん、あなたはずっと一人でダグさんの命を守ってたんですね」
ミラが尊敬の念を込めて声をかけると、ミーナはわずかに肩を震わせたが、それでも顔を上げようとはしなかった。
しかし、ミラの胸の内に、新たな疑問が首をもたげた。
(でも……待って。おかしくない?)
ミラは手元のメモと、今の状況を見比べた。
「あの、ミーナさん」
ミラの問いかけに、ミーナがびくっと反応する。
「魔法を避ける理由はあったようです。でも、その危険を仲間に伝えることはできなかったんですか?」
「え……?」
「『黒斑があるから、これは寄生症の疑いがある。魔法を使うと逆に死んでしまうから、冷やして時間を稼ぐしかない』って、そこまでは、患者の秘密を明かさずに説明できたのではありませんか?」
ミラの言葉は、もっともだった。
正しい処置をしたのなら、堂々と理由を告げればいい。それなのに彼女は説明を濁し、「理由も言わずに黙り込む」という態度をとり続けたせいで、追放申請という事態にまで発展してしまったのだ。
ロイドもハッとして顔を上げた。
「黒い斑点のことは聞いた。だが、何の病気かと聞いても、分からない、今は魔法を使えないとしか言わなかったじゃないか」
「それは……っ」
ミーナはぎゅっと目を閉じ、苦しげに首を横に振った。
「言えなかったんです。どうしても……言えなかった。患者の秘密だから」
「病名を言い切れなかった理由も、秘密に関わるのですか」
ミラは声を抑えて尋ねた。
「はい。症状が手引書と違っていて……感染は疑いました。でも、なぜこんなに急に熱が上がるのか、みんなに説明できませんでした」
ミーナは両手を握りしめた。
「危ないから待って、と繰り返すだけになってしまって。次に何をするのか、どこまで分かっているのかを、ちゃんと伝えられなかったんです」
ミーナの悲痛な叫びに、ロイドとミラは言葉を失った。
「別のものの影響……?」
ミラが呟いた直後、第三審査室の重い扉がノックされ、現場監査課のバルトがぬっと顔を出した。
「ノエル、診療所から保全品の引渡しだ。患者の同意書もある」
バルトが差し出した袋には封があり、採取者と採取場所が記されていた。ノエルは中の品を全員の前へ出さず、ミラと封印番号を確かめた。
治療のために開けられたダグの荷物から見つかった、小さなガラス瓶だった。
小瓶は空だったが、内側には赤黒い粉末の残滓がこびりついている。
「患者本人に確認する品です。ここでは開示しません」
ノエルはロイドに告げ、封筒を閉じた。
「明日、診療所でダグ氏と個別に話します。その後、本人の意向と安全上必要な範囲を確認して、説明の場を設けます」
ロイドが退出すると、ミラは保全票の検査欄を読んだ。
『残留物は、ギルド指定禁止覚醒薬ブラッド・スパイスに一致』。
ミラはミーナを見た。少女はその名を口にせず、固く目を閉じていた。




