第6話 治さなかった治癒術師
第三審査室の長机を挟んで、重苦しい空気が漂っていた。
ノエルの目の前に座っているのは、中堅の冒険者パーティ『銀の天秤』の隊長ロイドと、うつむいたまま一言も発しようとしない小柄な少女――回復術師のミーナである。
ミーナの白いローブには、過酷な遠征の痕跡である泥と、赤黒く変色した古い血のシミがこびりついたままになっていた。
「何度聞かれても同じです、審査官殿」
苛立ちを隠しきれない様子で、ロイドが机をドンと叩いた。
「この女は、俺たちの仲間である剣士のダグを見殺しにしようとした! 魔獣との戦闘でダグが腹を裂かれる重傷を負ったというのに、こいつは頑なに治癒魔法を使おうとしなかったんです!」
ロイドの怒声が室内に響く。ミラは痛ましいものを見るような目で、うつむくミーナに視線を向けた。
「その結果、ダグはどうなりましたか?」
ノエルは手元の調書から目を離さず、淡々と問いかける。
「三日間、高熱にうなされて危篤状態でしたよ! 俺たちが必死に寝ずの看病をして、急いで王都に帰還して診療所に担ぎ込んだから、なんとか一命を取り留めました。だが、もし帰還が一日でも遅れていれば……ダグは死んでいた。こいつは回復術師としての職務を放棄したんです。こんな奴をパーティに置いておくわけにはいかない。責任解除による即時追放を求めます!」
冒険者にとって、回復術師の存在は文字通りパーティの生命線である。
致命傷であっても、魔力による治癒を施せば傷口は塞がり、死の淵から引き戻すことができる。だからこそ回復術師はパーティ内で手厚く保護され、時には他のメンバー以上の報酬を受け取る。
傷ついた仲間を前にして治癒を拒むなど、冒険者の常識に照らし合わせれば言語道断の裏切り行為だった。
ミラがたまりかねたように口を開く。
「ミーナさん。ロイド隊長の言う通り、あなたはダグさんが怪我をした時に魔法を使わなかったんですか?」
ミーナはビクッと肩を震わせたが、顔を上げることはなく、膝の上でぎゅっと両手を握りしめた。
「……はい」
消え入りそうな声で、彼女は肯定した。
「魔力切れだったとか、自分も怪我をしていて集中できなかったとか、そういう理由があったんですか?」
ミラが助け船を出すように尋ねるが、ミーナは力なく首を横に振った。
「魔力は……十分にありました。でも、魔法は使えませんでした」
「どうして!?」
「それは……言えません」
何が見えたかを話せば、なぜその症状が出たのかまで問われる。そこから患者の秘密に行き着くのが、ミーナには怖かった。見たものと、まだ確かめていない原因を分けて話す余裕がなく、膝の上の指ばかりを握り直した。
「言えないって、仲間の命がかかっていたんですよ!?」
ミラの声が少し大きくなる。新人書記官である彼女にとって、治癒魔法という明確な解決手段がありながらそれを行使しない理由など、到底理解できなかった。
「ほら見ろ! こいつはいつもそうだ。理由も言わず、ただ黙り込むだけだ!」
ロイドが忌々しげに吐き捨てる。
「ダグは高熱で意識を失う直前、『治してくれ』とこいつに懇願していた。それなのにこいつは、ただダグの傷口を冷たい布で押さえるだけで、魔法を一度も発動しなかった。あまつさえ、ギルドから支給されている緊急用の『治癒石』すら使わなかったんだぞ!」
ノエルは書類をめくる手を止め、ロイドが提出した証拠の品に視線を落とした。
机の上には、手のひらサイズの透き通った緑色の魔石が置かれている。治癒石――魔力を持たない者でも、封印を砕けば一度だけ強力な治癒魔法を発動できる高価なマジックアイテムだ。
「確かに、治癒石の封印は解かれていませんね。未使用のままです」
「そうだ! こいつは自分の魔法を使わないばかりか、アイテムの出し惜しみまでしたんだ! こいつには俺たちを助ける気が、最初からなかったとしか思えない!」
ロイドの主張は一貫しており、論理的な矛盾は見当たらなかった。
患者自身が治療を求めていたという事実。魔力が残っていたのに魔法を使わなかったという自白。そして、封印されたまま残された治癒石という物証。
すべてが、ミーナの「職務放棄」を裏付けているように見える。
「ミーナ氏」
ノエルは静かな声で、うつむく少女に語りかけた。
「魔法を使わなかった事実だけで、職務放棄とは決まりません。なぜ使わなかったのか、聞かせていただけますか。公開できない事情があるなら、その扱いも相談できます」
ミーナは唇を噛みしめ、ぽつりとこぼした。
「……患者の、秘密に関わることだから……公の場では、言えません」
「患者の秘密?」
ミラが怪訝な顔をする。
「ダグの秘密だと? ふざけるな、あいつはただの人の良い剣士だぞ。お前が治療をサボった言い訳に、ダグを使う気か!」
ロイドが激高して立ち上がりかけたが、ノエルが冷たい視線でそれを制した。
「ロイド隊長、話を遮らないでください。患者の秘密に関わる部分は、閲覧を制限した別記録にします。今日は公開できる処置の経過から確認します」
ノエルはミーナから視線を外し、今度は手元にある『銀の天秤』の遠征簿と、ギルドの購買部から取り寄せた消耗品の購入記録を照らし合わせ始めた。
「……一つ、確認させてください。ダグ氏が怪我をしたのは、迷宮の第二層にある『腐死の沼地』付近ですね」
「ああ、そうだ。泥の中から飛び出してきた魔獣に腹を裂かれた」
「彼が危篤状態にあったのは、受傷から王都に帰還するまでの『三日間』ということで間違いありませんか」
「間違いない。だから言っているだろう、その三日間、こいつは何もしなかったんだと」
「なるほど。『何もしなかった』、ですか」
ノエルは遠征簿のページをめくり、ある箇所で指を止めた。
「ロイド隊長。あなたの言う『何もしなかった』という主張は、少々記録と矛盾するようです」
「矛盾だと? 俺は嘘など言っていないぞ!」
「あなたが嘘をついているとは言っていません。ただ、記録が別の事実を示していると言っているのです」
ノエルは消耗品のリストをロイドとミラの前に滑らせた。
「これを見てください。今回の遠征に際して、あなた方はギルドの購買部でいくつかの医療品を購入しています。その中で、帰還後に残量が極端に減っているものがある」
ミラがリストをのぞき込む。
「ええと……ポーション類は手付かずですね。減っているのは……『冷却布』と、『胞子抑制薬』?」
「そうです。どちらも一般的な外傷の治療に優先して使われるものではありません。しかし、この二つのアイテムだけが、今回の遠征で『三日分相当』、ほぼ底をつくほど大量に消費されている」
ノエルの言葉に、ロイドが眉をひそめた。
「それがどうした。ダグが高熱を出していたから、こいつが気休めに冷やしたり薬草をすり込んだりしていただけだ。魔法を使えば一瞬で治るものを、そんなちまちました処置でごまかしていたんだから、悪質だろうが!」
「気休め、でしょうか」
ノエルは感情のない瞳で、未使用の治癒石を見つめた。
「この消費量は、少なくとも別の処置を続けていた可能性を示しています。その処置が適切だったかは、医療記録と専門家の判断を確かめる必要があります」
「馬鹿な……じゃあなんだ、ダグの腹の中に魔獣の寄生虫でもいたって言うのか!?」
ロイドが信じられないというように叫んだ。
「あの時、ダグの傷口にそんなおかしなところはなかった! ただ血を流していただけだ!」
「あなたが気付かなかっただけかもしれません」
ノエルはデスクの引き出しから、一枚の書類を取り出した。
「これは、あなた方が王都のギルド門を通過した際、ダグ氏の緊急搬送に立ち会った『門医』が残した独立記録です」
ノエルがその書類を机の上に置く。
そこには、達筆な文字で患者の初期症状が記されていた。
『腹部裂傷。傷口周辺および首筋にかけて、特異な黒斑を確認。患者は極度の高熱を発しているが、付き添いの回復術師によって冷却処置が継続中であった』
「黒、斑……?」
ロイドが愕然と呟く。
「ええ。門医は明確に『黒斑』という異常を記録しています」
ノエルは静かに言い放った。
「黒斑に、冷却処置。ミーナ氏が何を見て方針を変えたのか、順を追って確認しましょう」




