第47話 逃げた男の時刻
翌朝、施設管理局から届いた点検札の照合が始まった。そこには、ノエル自身の署名が残っていた。
七年前の五月四日。救助が終わった後、震える手で書いた名前だ。
ノエルは紙に触れず、その筆跡を見つめた。
「まず、記録の時刻を整理します」
ミラが三枚の紙を並べた。
「第五区画の警笛は、午後二時二分に一回。非常巻上機の起動は、二時三分三十秒。橋の支索が切れ、監視装置が断絶を記録したのが、二時四分三十秒です」
「時計のずれは?」
クララが尋ねる。
「同じ施設時計につながっています。事故直前の保守記録と、事故後に回収した打刻紙の照合では、最大でも十秒程度です。巻上機の起動時刻は、管理人の原簿とノエル氏の署名した点検札が一致しています」
警笛を鳴らした。
橋が落ちる一分前には、巻上機を動かしていた。
七年前、弁明しても取り上げられなかった行動が、数字になって机の上に戻ってきた。
「逃げ道とは逆方向ですね」
ミラは見取り図を指した。
「安全域へ戻るなら、巻上機へ寄る必要はありません。先輩は橋を支えようとした」
ノエルは頷いた。喉の奥が詰まり、すぐには声が出なかった。
「ですが、すぐには動きませんでした」
やっと出た声は、ひどく掠れていた。
「最初に異常を見つけたのは、二時の定時鐘の時です。エリアン氏の手帳にも、私が固定具を指したとある。私はあの時、締め直せば直るのではないかと迷った。……警笛まで、約二分を失っています」
ミラは、その二分を消さずに書き足した。
エリアンの手帳だけで秒まで決まるわけではない。ノエルの説明、事故直後に管理人が聞き取った異常報告、定時鐘の作動時刻を照らし、幅を持たせて扱う。
「加えて、警笛は一回でした」
クララが古い安全規則を開いた。
「二回なら退避。一回は点検時にも使われる。この区画では、十年以上変わっていない合図です」
「巻上機を先に動かせば間に合うと、思い込みました」
ノエルは答えた。
二回目の紐を引く時間がなかったのではない。引かずに走る方を、自分で選んだのだ。
「当時も、そう説明したのですか」
ミラが聞く。
「ええ。ただ、警笛は鳴っていないとされた。装備にも異常はないとされました。残ったのは、私が持ち場を離れた記録だけでした」
クララは当時の照会処理票を置いた。
施設管理局への照会は、提案されていた。だが『原因確定につき不要』として打ち切られている。
「今回は新しい欠陥の資料と、分析ページの訂正記録がある。評議会の別の審査担当が、必要性を認めて令状を出したわ。当時、調べなかった判断も検証の対象です」
ノエルは長く息を吐いた。
記録がなかったのではない。
読まれないまま、彼の言葉だけが嘘になっていた。
午後、現場監査課から退避経路の検証が届いた。
橋の中央にいた二人は、狭い作業足場を通って戻る必要があった。走れる床ではない。反対側は工事中でつながっておらず、飛行や転移が可能な隊員もいなかった。
荷物を捨てた条件でも、安全域までの所要時間は最短で五分二十秒。命綱は同じ支持部につながっており、崩落後の別の支えにはならない。
「異常を認識してから崩落まで、約四分半。記録の誤差を双方に有利に見ても、退避には足りません」
クララは検証担当者の署名を確かめた。
「巻上機は橋を支えるためのもので、人を瞬時に引き上げる設備ではない。予備支持部も同じ欠陥品だったことが、回収品の検査で確認されています」
ノエルは、前衛二人の名が書かれた場所を見つめた。
すぐに鳴らしていれば。
二回鳴らしていれば。
七年間、同じ場所へ戻り続けた問いだった。
「警告の遅れが二人の死亡を招いたという、当時の認定は維持できません」
クララは言った。
「確認できた退避手段と設備の条件では、規則通りに警告しても救命できなかった。異常を察知して巻上機へ向かった行動を、逃走とした認定も訂正します」
誰も、すぐには言葉を継がなかった。
ノエルの膝の上で、固く組んでいた指がほどけた。
「……後方の、エリアンは」
彼は見取り図の手前を指した。
「彼は、違いますね」
「ええ」
クララは別の経路へ線を引いた。
「こちらの側道なら、警告後に退避できる。彼の手帳の次のページにも、一回の音を点検の合図と思い、退避を始めるのが遅れたとあります。施設の退避経路と負傷位置も合う」
二人の死を背負う根拠はない。
それでも、一人の傷に関わった事実は残る。
「私の警告の遅れと、二回目を省いた判断です」
ノエルは顔を上げた。
「その責任まで消さないでください」
「あなたが認めたから、そのまま決めるわけではないわ」
クララは静かに返した。
「危険を止めようとした状況、本人にできたこと、実際の結果。全部を合わせて判断します。レオン氏の時と同じです」
ミラは、調書の欄を二つに分けた。
取り消す認定と、残す過失。
どちらにも、証拠の番号を添えた。
夕方、バルトが第三者工房の技師とともに戻ってきた。
運んできたケースには、開封と再封印の立会記録が付いている。
「評議会の証拠庫に、事故直後から封入された未使用の同ロット品があった。回収した破断片と、両方を調べたぞ」
バルトは試験書を広げた。
「未使用品は、丸ごとの強度試験で規定未満で割れた。破断片は断面を検査した。同じ不純物の層が内部まで続いている。表面が七年間で錆びただけじゃ、こうはならねえ」
「七年前から、欠陥があったのですね」
「そうだ。保管状態の記録もそろってる。隣で保管されていた正常品との比較でも、保管による劣化じゃ説明できん」
『規格値を下回る試料の測定表』。
除かれた十一ページの件名が、ミラの頭に戻ってきた。
「当時の訂正が、単に誤記を直しただけだという説明は、難しくなりました」
クララが書類を閉じた。
「明日の公開評議へ提出します。原本の検証と、ルーファス副ギルド長からの説明を求めるわ」
ノエルは当事者席で、その言葉を聞いた。
今度は、自分で結論を書くのではない。
自分に不利な二分も、一回だけの警笛も残したまま、判定を待つ。
机の上の点検札には、七年前の自分の名前があった。
もう、その文字から目をそらす必要はなかった。




