第44話 七年前の証人
翌日の午後。中央ギルドの応接室に、一人の男が足を踏み入れた。
男は右脚を引きずるようにして歩き、手にした木製の杖で体重を支えていた。年齢は三十代の初め頃だが、その顔には実年齢以上の深い疲労と、重い影が落ちている。
エリアン・ロウ。
七年前の『銀環』の崩落事故において、後衛にいて生き残ったもう一人の生存者であり、脚に後遺症を負って冒険者を引退した男だった。
「お呼び立てして申し訳ありません、エリアンさん。本日は第三審査室の再審請求に基づく、参考人としての聞き取りにご協力いただき、感謝します」
ミラが立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
長机の奥では、クララが法務官として腕を組み、その隣にある「当事者席」には、本件の担当を外れたノエルが静かに座っている。
エリアンはノエルの姿を認めた瞬間、ビクッと肩を震わせ、気まずそうに視線を床へと逃がした。
「……ノエル。久しいな」
「ええ。七年ぶりです、エリアン」
ノエルの声は平坦だった。怒りも、懐かしさも込められていない。ただの事務的な挨拶に、エリアンはさらに身を縮こまらせて席についた。
「本件の聞き取りは、私、書記官のミラが担当します」
ミラはペンを構え、エリアンの目を見つめた。
かつての彼女なら、「七年も苦しんでこられたんですね」と同情を寄せたり、「ノエル先輩を陥れるために嘘をついたんですか?」と核心を誘導するような質問をしていただろう。
だが、ミラは心を静かに保ち、透明な鏡に徹した。相手が話し終えるのを待つ。記憶と推測を分ける。ミラは質問票の先頭に、そう書いていた。
「エリアンさん。七年前の五月、橋が崩落した事故の発生直前の状況について、順を追って教えてください。当時のあなたの立ち位置と、装備係だったノエル氏の行動を」
「……ああ。俺は後衛で、魔法の準備をしていた。ノエルは橋のたもとにある岩壁で、固定具を打ち込んで、安全確保の作業をしていた」
エリアンはゆっくりと、当時の記憶をたぐるように話し始めた。
「固定具を打ち終えた後、ノエルの様子に変化はありましたか?」
「……急に、ノエルの動きが止まったんだ。あいつは岩壁に打ち込んだ固定具をじっと見て……それから、顔を青ざめさせて、岩壁沿いにある非常巻上機の方へ向かって走った」
「その間、ノエル氏は何か声を発したり、音を出したりしましたか?」
ミラのフラットな質問に、エリアンは一瞬、息を詰まらせた。
彼はちらりとノエルの方を見たが、ノエルは微動だにせず、ただ前を見据えている。
ノエル自身の記憶は、明確だった。
(私はあの時、固定具から嫌な軋み音がするのを聞いた。そして、警告のために持ち場の備付け警笛の紐を一度、強く引いた。……その後、非常巻上機へ向かった)
しかし、七年前の評議会で、ギルドはノエルにこう宣告した。
『材料分析の結果、固定具は規格内だった。君は異常もないのに恐怖で逃げ出しただけだ。そして、エリアンの証言によれば、君は警告の警笛すら鳴らさなかった』
分析結果は異常なしとされ、仲間は警笛を聞かなかったと証言した。
ノエルには、鳴らした記憶があった。それでも、最初の異常を見つけてから動くまでに時間を失ったことは否定できない。その遅れが二人を殺したのではないかと、七年間考え続けた。
「エリアンさん。当時の状況について、あなたの認識をお答えください」
ミラは急かさず、ただ静かに待った。
エリアンは震える両手を強く組み合わせ、搾り出すように口を開いた。
「……鳴ったんだよ」
「えっ?」
「ノエルは、逃げる前に……警笛を、一回だけ強く鳴らした。俺は確かに、その音を聞いたんだ」
審査室の空気が、ピンと張り詰めた。
「お待ちください、エリアン氏」
クララが法務官として鋭く口を挟む。
「あなたが七年前の評議会に提出した『公式の生存者陳述書』には、『警笛は一切聞こえなかった』と記載され、あなたの署名がなされています。今の発言は、当時のあなたの公式証言と完全に矛盾しますが、相違ありませんね?」
「……間違いありません」
エリアンは深くうなだれ、自分の杖を強く握りしめた。
「俺は……嘘の証言書に、サインをしたんです。ノエルが鳴らした警笛の音を、俺の証言で、なかったことにしてしまった」
彼が提出した証言は、やはり嘘だった。
だが、ミラはそこで彼を責めるようなことは言わず、淡々と次の手順に進んだ。
「当時の記憶を裏付ける、客観的な記録はありますか? ギルドの調書とは別に、あなた自身が事故直後に残した個人的なメモや日記などは」
「……あります。当時の俺が、事故の直後に救護所で書き留めていた、走り書きのメモ帳です」
エリアンは懐から、手垢で汚れた古い革表紙の小さな手帳を取り出し、震える手で机の上に置いた。
「俺は、これを捨てることも……ノエルに真実を話すこともできなくて。ずっと、持ち歩いていました」
ミラがその手帳を開き、該当する七年前の日付のページを確認する。
そこには、痛む手で乱暴に書きなぐられたような、当時の生々しい記録が残されていた。
『二時の定時鐘。ノエルがアンカーを指して俺を見た。しばらく動かなかった。警笛一回、巻上機へ。隊長たちが落ちた。俺の脚が』
余白には、救護所の受付印があった。エリアンが連絡先を伝えるために預け、事故翌日に返された手帳だった。日付だけで本文のすべてを保証はできないが、当時この手帳が存在した裏付けにはなる。
「……確認しました。事故直後の『原メモ』には、確かにノエル氏が警笛を一回鳴らしたという記述がはっきりと存在します」
ミラは手帳をクララとノエルに示し、調書に事実を書き込んだ。
「記録の不一致が確定しました」
ノエルは手帳の文字をじっと見つめ、静かに言った。
「私の記憶と、今の証言、手帳の記述は一致します。ただ、この手帳が実際にいつ書かれたかも、確かめる必要があります」
もし警笛が鳴っていたという証言が残っていれば、ノエルが「異常を知らせるための正当な行動をとった」という主張の裏付けになり得たはずだ。
だが、その記述が削り取られたことで、ノエルはただ無言で持ち場を放棄し、仲間を見捨てた完全な卑怯者に仕立て上げられた。
「エリアンさん」
ミラはペンを置き、彼を真っ直ぐに見つめた。
「公式の陳述書は、いつ、どこで、誰が文章を作りましたか。署名するまでにあったことを、順に教えてください」
ミラの問いかけに、エリアンは顔を歪め、大粒の涙を床に落とした。
「……そうだ。俺は……ギルドから、取引を持ちかけられたんだ」
エリアンの悲痛な告白が、静かな部屋に響いた。
「ノエルのせいにして、あいつが逃げたという証言書を出せ。そうしなければ……事故の責任の所在が不明確だという理由で、死んだ隊長たちの家族への遺族補償も、俺の脚の治療費も、すべて『全面停止』にするって……脅されたんだよ!」




