第43話 差し替えられた一頁
ノエル・ヴァイスは沈黙していた。
彼は第三審査室の当事者用の丸椅子に深く腰掛け、両手を膝の上で組んだまま、静かに前を見据えている。胸元の銀のバッジはそのままだが、この事件を指揮する立場ではなかった。
現在の彼は、調査を指揮する権限を持たない、ただの「七年前の事故の当事者」である。資料を読み、疑問を述べることはできる。だが、原本の取扱いや鑑定を指示するのはクララだった。
「……ここから先は、俺たちの仕事だな」
バルトが重い足取りで進み出て、ノエルが見つけた『七年前の事故報告書』のバインダーを手繰り寄せた。
「索引とページ番号が合わねえ。差し替えも疑うべきだな。だが、事務的な綴じミスの可能性もある。管理記録まで確かめよう」
バルトは分厚い指で、問題の十ページ目の端をそっとつまんだ。
「どんなに巧妙に書類の束を偽造しても、物質としての『紙』の矛盾までは誤魔化しきれねえ。……見ろよ」
バルトはポケットからルーペを取り出し、十ページ目と、前後のページの表面を交互に拡大して観察し始めた。
「まず、紙質が微妙に違う。前後のページは当時のギルド指定業者から納入されてた標準的な羊皮紙だが、この十ページ目だけは、繊維の荒い安物の代用品が使われてる。見た目の色合いは似せてるが、光に透かせば一目瞭然だ」
バルトはさらに、バインダーの金具に通されている『綴じ穴』の部分を指差した。
「綴じ穴の位置も違う。十ページ目には、別の間隔で開けられた古い穴が残っている。あとでこの束に合わせて、穴を増やしたらしい」
ミラは写真を撮り、前後のページと並べた。
「紙自体は、これも古いですね」
「ああ。古さだけで、いつ入れ替えたかは分からねえ。分析担当が別の紙を使っただけかもしれん」
バルトはページを元に戻した。
「だから、管理記録が要る」
クララがミラを振り返る。
「持出し、返却、訂正の控えを照合して。なくなった十一ページの項目名も探しましょう」
「はい」
ミラは気合を入れて返事をし、書庫の管理台帳が山積みになっている棚へと向かった。
彼女はもう、ただノエルの後ろをついて歩き、同情で相手に誘導質問をしてしまうような未熟な新人ではなかった。記録の重みを誰よりも理解し、そこから真実をすくい上げる「書記官」としての責務に目覚めている。
(先輩に不利な記録でも、見落とさない)
ミラは分厚い管理台帳をめくり、七年前の『銀環』の事故報告書の閲覧履歴と、更新記録を猛烈な勢いで辿り始めた。
指先が汚れ、目がかすんでも、彼女は一行たりとも見落とさずに文字を追い続けた。
「……ありました!」
数十分後、ミラの弾んだ声が書庫に響いた。
「七年前の事故発生から二週間後。この『銀環』の事故報告書が文書庫から一時持ち出され、内容の『訂正』が行われた記録が残っています!」
「訂正時刻はいつになっている?」
クララが鋭く問う。
「ええと……」
ミラは台帳の時刻の欄を指でなぞり、その日時に息を呑んだ。
「七年前の、五月十八日の夜……午後十時を回っています。通常業務の時間を完全に過ぎた、深夜に近い時間帯です」
「五月十八日……」
その日付を聞き、当事者席に座っていたノエルが、初めて静かに口を開いた。
「私が呼び出され、責任解除の最終決定が下された『審査評議会』が開催されたのは、五月十九日です」
ノエルの言葉に、審査室の空気が一気に張り詰めた。
「評議会の、前夜……」
ミラは台帳の記録と、ノエルの言葉を頭の中で繋ぎ合わせた。
「訂正の受付票もあります。旧十・十一ページを回収し、十ページ一枚を返却。訂正理由は『分析評価の統一』です」
ミラはその下に、別綴じの決裁控えを置いた。
「訂正を承認したのは、当時の調達責任者ルーファス・グレン。署名と登録印があります。旧十一ページの件名は『規格値を下回る試料の測定表』です」
クララはすぐには答えず、各票の受付番号を照合した。
「分析の訂正自体はあり得る。でも、この表を除いた理由と、訂正前後の数値が説明されていない。訂正されたとの注記も、審議資料にはない」
彼女は控えを封筒へ収めた。
「当時の判定は、そのまま信用できません。原測定と、保管試料の再検査が必要です」
怒りでミラの体が震えた。
一人の冒険者の人生を、名誉を、なんだと思っているのか。組織の都合と保身のために、深夜にこっそりと書類を一枚差し替えるだけで、ノエルからすべてを奪い取ったのだ。
「絶対に許せません……! こんなの、あまりにも理不尽です!」
「怒るのは後よ、ミラ。私たちはまだ、ノエルの無罪を完全に証明したわけじゃない」
クララは冷静にミラを制した。
「ノエルの責任解除の理由は二つあった。『重大な持ち場放棄』と『警告の遅延』よ。材料分析の改竄を暴き、彼が持ち場を離れた理由が『欠陥装備の異常を知らせるための正当な行動』だったと証明できても……もう一つの理由が残っている」
「……生存者の、証言ですね」
ノエルが静かに言った。
七年前。ノエルは確かに、固定具の異常に気づいてから巻上機へ向かうまでの間に、危険を知らせる『警笛』を鳴らした記憶があった。
しかし、生き残った仲間であるエリアンは、評議会に提出した陳述書で「警笛は聞こえなかった。警告なしに橋が落ちた」と証言した。その証言こそが、ノエルが警告を怠り、一人で逃げ出した卑怯者として断罪される決定的な根拠となったのだ。
「ミラ。報告書の『生存者陳述』の項目を確認してちょうだい」
クララの指示を受け、ミラは差し替えられた十ページ目のすぐ後、十二ページ目から始まる『第五項・生存者陳述』の書類を開いた。
そこには、震える筆跡で書かれたエリアン・ロウの署名と、「警告の警笛は聞こえなかった」という決定的な一文が残されている。
「……ありました。エリアンさんの陳述書です」
ミラはその書類の日付を確認し、ふと首を傾げた。
「陳述書の提出は五月十八日。評議会の前日です」
「材料分析の訂正と同じ日ね。内容を別の記録と照合しましょう」
「でも、変です」
ミラは書記官としての勘を働かせ、別の棚から当時の『保険給付記録』の台帳を引っ張り出してきた。
「ラグンさんの件では、個人に責任を集中させなければ全員の給付を止めるという通知でした。七年前は何を条件に支払われたのか、こちらも確かめます」
ミラは給付記録のページをめくり、エリアン・ロウの名前を探し当てた。
「……見つけました。エリアンさんへの『生存者給付金』、および死亡した二名の遺族への給付金は、満額ではありませんが、規定の最低限の額で支払いが承認されています。その『給付承認日』が……」
ミラは台帳の日付と、陳述書の日付を交互に見比べた。
「五月十八日。……エリアンさんが『ノエル先輩の警笛は聞こえなかった』という証言書を提出した日と、全く同じ日です」
その事実に、バルトが顔をしかめた。
「おいおい……そりゃあ、まるで」
「ええ」
ミラはごくりと息を呑み、その不自然な一致が意味する、恐ろしい推測を口にした。
「同じ日に処理されただけかもしれません。でも、条件に関係がなかったか、本人に聞く必要があります」
クララは頷き、保存庫の試料目録にも印を付けた。事故当時に封入した未使用の同ロット品と、回収した破断片。七年間、一度も廃棄されず残っていた。




