第4話 一枚の地図
冒険者ギルド中央本部から馬車に揺られること一時間。
都市の北部に広がる『迷いの森』は、初心者から中堅まで多くの冒険者が足を踏み入れる狩り場であり、同時に無数の遭難者を出してきた危険地帯でもある。
鬱蒼と生い茂る木々の合間から差し込む午後の陽光を浴びながら、ノエルたち一行は獣道とも呼べないような藪の中を進んでいた。
先頭を歩くのは、熊のような体躯に無精髭を生やした壮年の男。現場監査課のバルト・ヘインである。
「まったく、書類屋のあんたがわざわざ森まで出てくるなんて珍しいじゃねえか、ノエル」
バルトは手にした鉈で邪魔な枝を払いながら、背後を振り返ってニヤリと笑った。
「現場の証拠を確認するのは、審査官の重要な務めですから。バルトさんこそ、面倒な実地調査に付き合わせて申し訳ありません」
「構わねえさ。俺は机に囓りついて小難しい規約書を睨んでるより、泥臭い現場で土の匂いを嗅いでる方が性に合ってる」
元鍛冶師であり、現在は事故現場の復元や物証の検証を専門とするバルト。彼はノエルがもっとも信頼を寄せる現場のプロフェッショナルだった。
二人の後ろには、不安げな表情で周囲を見回すクロウと、メモ帳を抱えたミラ。そして最後尾には、腕を組んで不機嫌さを隠そうともしないガレス隊長が続いていた。
「おい、いつまでこんな森の中を歩き回るつもりだ! 俺たちは明日も遠征の予定があるんだぞ」
ガレスが苛立ち紛れに太い枝を蹴り折る。
「すぐ終わりますよ、隊長さん」
バルトが振り返り、手にした一枚の羊皮紙――クロウが書き込んでいたあの広域地図の写し――をひらひらと揺らした。
「さて、着いたぜ。地図にバツ印が打たれてる地点の一つだ」
バルトが立ち止まったのは、大人が三人ほど並んで歩ける程度の、比較的開けた獣道だった。一見すると歩きやすく、迷いの森の中では格好の進行ルートに見える。
「クロウ。お前さんはなんでこの歩きやすい道に、わざわざ危険を示すバツ印を書き込んだんだ?」
バルトに水を向けられ、クロウはビクッと肩を跳ねさせた。
「え、ええと……その道を真っ直ぐ行った先で、なんだか酸っぱいような、嫌な臭いがしたからです。それに、風向きが……」
「風向き?」
「はい。この森は昼間、南から風が吹きます。もしあの道の先に魔獣がいたら、俺たちの匂いが真っ直ぐ風に乗って相手に届いてしまう。だから、少し遠回りになっても、東側へ外れてから、尾根を回って相手の風下へ出る方が安全だと思いました」
クロウはおどおどとしながらも、懸命に当時の判断を説明した。
ガレスは鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。ただの獣の臭いに怯えて、わざわざ急斜面を歩かされた俺たちの身にもなってみろ」
「獣の臭いねぇ……」
バルトは鉈を腰に収めると、獣道の脇にある太い樹木の根元にしゃがみ込んだ。そして、土の上に残された何かを指で掬い上げ、匂いを嗅ぐ。
「ガレス隊長。あんた、ここを通らなくて正解だったぜ。こいつは『赤斑刃熊』の糞だ。それも、かなり新しい」
「なっ……赤斑刃熊だと?」
ガレスの顔色が変わった。それはA級冒険者パーティであっても、万全の準備がなければ苦戦を強いられる凶暴な大型魔獣である。
「クロウの言う通り、あのまま真っ直ぐ進んでいれば、風に乗ったあんたたちの匂いを嗅ぎつけた刃熊と鉢合わせしていた可能性が高い。……見ろよ、あそこの木の幹」
バルトが指差した先。太い幹には、大人の背丈よりも高い位置に、深々と抉られた生々しい三本の爪痕が残されていた。
「新しい爪痕の下に、古い傷も重なってる。今だけの縄張りじゃねえ。地図の日付の頃にも警戒する理由はあったってことだ」
ミラは息を呑み、クロウの横顔を見た。本人は「ただ怖かっただけ」と言っていたが、地図の端には、臭いを確かめた日と爪痕の高さが小さく書かれていた。怖いと思ってから、彼は確かめていたのだ。
「ぐ、偶然だ!」
ガレスが吠えた。
「たまたまそこを通らなかっただけで、もし遭遇していても俺たちが斬り伏せていた! こんなものが、あいつの無能を覆す証拠になるか!」
「なら、これならどうだ?」
バルトは立ち上がり、今度は地図の波線が引かれた場所――東側の斜面を越えた先にある小さな窪地へと一行を案内した。
そこは、岩肌から澄んだ湧き水が流れ出し、背後を高い岩壁に守られ、左右に細い抜け道のある場所だった。
「クロウ。ここは野営地に指定した場所だな。どうしてここを選んだ?」
ノエルが静かに問うと、クロウは少しだけ落ち着いた様子で答えた。
「背後が岩壁なので、魔獣に背後を取られる心配がありません。水汲みで見張りが離れずに済みます。左右の抜け道は荷車も通れますし、前の茂みには獣道がないので……交代で休めるかと思って」
「なるほど」
ノエルは頷き、ガレスへ向き直った。
「ガレス隊長。クロウ氏が加入してから、あなた方のパーティの食料廃棄率と治療薬の消費量は、以前の半分以下に減少しています。彼がこうした『安全に休息できる野営地』を選んでいたことは、損失が減った理由の一つと考えられます」
ノエルは鞄から、もう一つの書類を取り出した。
クロウが熱を出して遠征を休んだ、二回分の記録である。
「クロウ氏が不在だった二回の遠征。あなた方は同じ森に入りながら、代理の荷物持ちを使いました。その結果、どうなりましたか?」
「それは……」
ガレスは唇を噛み、視線を逸らした。
「記録によれば、その二回だけ魔獣との遭遇率が劇的に跳ね上がり、夜間の奇襲を受けて重傷者が発生。大量の治療薬を消費した挙句、依頼を達成できずに撤退しています」
ノエルの声は、冷たい刃のように静かで鋭かった。
「これがすべて偶然だと、あなたはまだ主張しますか? この地図には、百を超える注意書きがあります。今日確認した二か所は、どれも危険を避ける理由がありました。彼は戦わなかったのではない。あなた方が『戦わずに済む環境』を作り出していたのです」
森の静寂の中、ノエルの言葉だけが重く響いた。
クロウは信じられないものを見るような目で、ノエルとバルト、そして自分の描いた地図を交互に見つめていた。
「俺が、皆の役に……立っていた……?」
「大したナビゲーターだぜ、お前さんは」
バルトがクロウの肩をバンと叩いて笑う。
「剣を振ることだけが冒険者じゃねえ。生き残るための道筋を引く。それは立派な『仕事』だ」
「……違う!」
沈黙を破ったのは、ガレスの怒鳴り声だった。
彼はギリッと歯を食いしばり、血走った目でノエルを睨みつけた。
「役に立っていたかどうかなど、どうでもいい! 俺たち『暁の剣』は、次でA級に上がらなければならないんだ!」
「ガレス隊長」
「分かっているさ! こいつがルート選びに長けていて、俺たちが怪我一つせず安全に森を抜けられていたことくらい、薄々は気付いていた!」
ガレスの口から飛び出したのは、紛れもない本音だった。
ミラは驚きに目を見開いた。ガレスはクロウの働きを知らなかったわけではない。ただ、その働きを契約上の貢献として数えていなかった。
「だがな、死ななくても……魔獣と遭遇しなきゃ、討伐数が稼げないんだよ!」
ガレスは荒い息を吐きながら、拳を強く握りしめた。
「ルーファス副ギルド長が導入した新しいスポンサー契約。あれの最上位枠をもらうためには、パーティの平均討伐数が絶対の基準になる。こいつが戦いを避ければ避けるほど、俺たちの評価は下がるんだ。だから……戦えない分の責任は、こいつにあると思ったんだ」
責任解除による即時解雇。補償金の免除。そして「役に立たない怠慢な荷物持ちがいたせいで、一時的に数字が落ちただけだ」というスポンサーへの言い訳。
それが、ガレスがクロウを「追放」しようとした真の理由だった。
「……安全に役立っていたことは、気付いていたのですね」
ノエルはガレスの言葉を記録し、地図の経路選定欄を開いた。
「ガレス隊長。あなたが成果指標を優先し、そのような判断を下したことは理解しました。ですが、それは……」
ノエルの視線の奥に、決然とした光が宿る。
「ギルドの審査において、責任解除を正当化する理由には到底なり得ません」




