第34話 本物の印、ありえない書式
「転記なら、元の記録と、転記した人の証明が必要です」
ミラは別の申請用紙で、写しを添付する欄を確かめた。
「隊長印だけでは、本人がこの紙を承認したことにはならないんですね」
「ええ。魔術の契約印でも、分かるのは本人と押印時刻です。書いた内容が真実かどうかまでは保証しません」
ノエルは申請書に付箋を挟んだ。
数時間後。
ギルドの応接室に呼び出された『鉄の盾』の副隊長ケイルは、酷くやつれた顔で長机の前に座っていた。
隊長を喪った悲しみからか、あるいは別のプレッシャーからか、彼の目の下には濃い隈が刻まれ、貧乏揺すりが止まらない。
「……わざわざ呼び出して、なんの用ですか。こっちは隊長のお別れ会や、遺族への対応で忙しいんだ。ラグンの追放の手続きなら、もう書類は出したはずだろう」
ケイルは苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。
「ええ、書類は確かに受け取りました。今日はその申請内容について、いくつか確認をさせていただきたいのです」
ノエルは感情を一切交えない事務的なトーンで、机の上に『責任解除申請書』を広げた。
「この申請は、三ヶ月前の事故の翌日。救護所に運び込まれたハロルド隊長が、事故の原因をラグン氏の命令違反であると口述し、あなたがそれを代筆して作成したものですね?」
「ああ、そうだ。隊長は死の直前に、あいつの身勝手な行動のせいで崩落が起きたと証言した。俺はその言葉を書き留め、隊長が最後に力を振り絞って、この隊長印を押したんだ」
ケイルは悲痛な表情を作り、淀みなく答えた。
その顔には「自分は死にゆく隊長の遺志を継いだのだ」という、悲劇の副官としての自負すら張り付いているように見えた。
「なるほど」
ノエルはあっさりと頷き、申請書の右下を指差した。
「では、四月末の救護所のベッドの上で、ハロルド隊長はどのようにして『五月に新しくギルドで制定されたこの用紙』を手に入れ、そこに印を押したのですか?」
「……え?」
ケイルの動きが、完全にフリーズした。
「この申請書に使われているフォーマットは、ハロルド隊長が死亡した後に改訂された最新版です。事故の翌日にこの用紙に口述筆記をすることは、不可能です」
ノエルの指摘に、ケイルの顔色が一瞬にして土気色に変わった。
「あ、いや……そ、それは……っ!」
ケイルの目が激しく泳ぎ、額から滝のような冷や汗が噴き出した。
「お、俺が書き直したんだ! そうだ、当時の救護所には古いただの紙切れしかなくて……後になってギルドに提出しようとしたら、専用の書式じゃないと駄目だと言われたから! 俺が最近になって、新しい用紙に当時の隊長の言葉を書き写したんだよ!」
「ほう。あなたが書き写したと」
ノエルはケイルの苦しい言い訳を、氷のような声で切り捨てた。
「転記なら、その元になった紙はありますか。また、提出時の宣誓書には、この用紙が事故翌日の原本だと、あなた自身が署名しています。先ほども隊長がこの紙に押したと説明しましたね」
「そ、それは……」
「印を誰かに貸したことがあるかも伺います。所持していたことだけで、押した人物は決まりませんから」
ノエルは手元の別の資料――ギルドの備品管理台帳の写し――を開いた。
「事故後、ハロルド隊長が救護所に運び込まれた際、彼の装備品や貴重品はすべて、付き添っていた副隊長のあなたが預かっていましたね。そして、ハロルド隊長が死亡した後も、あなたはこの隊長印をすぐにギルドへ返却せず、新しい隊長を決める手続きの直前まで、約三ヶ月間にわたって自分の手元に保管していた」
ノエルの眼光が、完全に追い詰められたケイルを射抜いた。
「つまり、あなたは隊長の死後、新しく手に入れたこの五月制定の用紙に、自分の手で都合の良い作り話を書き込み……預かっていた『本物の隊長印』を自分で押した。違いますか」
「ち……違う……っ! 俺は……っ」
ケイルは椅子の肘掛けを強く握りしめ、何かを言い返そうと口をパクパクと動かしたが、そこから音を持った言葉が紡がれることはなかった。
ケイルは、元の紙はない、印も誰にも貸していないと答えた。ミラはその回答と、提出時の宣誓書を別々に綴じた。
「ケイルさん……どうしてこんなことをしたんですか?」
ミラが、信じられないというような顔で問いかけた。
「文書の偽造は、ギルドの規約でも重罪です。発覚すれば、あなた自身が厳しい処罰を受けることになるんですよ? そこまでして、行方不明のラグンさんに事故の責任を押し付けようとしたのは……いったい何故ですか?」
「……遡及的な責任解除は、事故当時の隊長名義でしか申請できない制度だからです」
ケイルが答えるより早く、ノエルがその動機の核心を突いた。
「事故によるパーティの損害や、遺族への補償。これらは当時の責任者の記録に基づいて配分されます。もし現在の臨時隊長であるケイル氏が、今になって『ラグン氏の責任だ』と訴えても、事後の事故申立てとして調査はできます。しかし、それだけで当時の隊長が責任解除を決めていたことにはできません。死者名義の遡及申請には、その意思を示す生前の記録が必要です」
ノエルは、偽造された申請書をじっと見つめた。
「保険部門の査定において、事故の全責任を行方不明者一人に押し付け、他のメンバーや遺族の補償を満額で受け取るためには……どうしても、『事故の直後に、当時の隊長自身がラグン氏の重大な過失を認定し、追放を判断していた』という既成事実が必要だったのですよ」
遺族保険。
その言葉を聞いた瞬間、ケイルの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……ああ、そうだ。俺がやった……俺が印を押したんだよ……!」
ケイルは両手で顔を覆い、テーブルに突っ伏して嗚咽を漏らした。
「隊長の奥さんは、まだ小さい子供を抱えてるんだ……! 事故で腕を無くした前衛の奴も、これからどうやって生きていけばいいか分からないって絶望してる……! 保険金が下りなきゃ、あいつらの家族は路頭に迷うんだよ……!」
ケイルの悲痛な叫びが、応接室に響く。
彼は私腹を肥やすために保険金詐欺を企てたわけではない。残された仲間と、死んだ隊長の家族を救うために、文書を偽造するという禁忌に手を染めたのだ。
「ですが、事故は事故です。不運な不可抗力であったとしても、ギルドの基本補償は支払われるはずです」
ノエルが淡々と指摘すると、ケイルは真っ赤に充血した目でノエルを睨みつけた。
「基本補償だと……? そんなはした金で、何年暮らせるって言うんだ!」
ケイルはギリッと奥歯を噛み鳴らし、呪いのような言葉を吐き出した。
「ギルドの保険部門から言われたんだよ! 今回の事故は『現場の過失』が疑われている。もし特定の誰か一人の『重大な命令違反』であることを立証できなければ……被害者全員が危険行為に加担したとみなされ、遺族給付が『全面停止』される可能性があるってな!」
「全面停止……!?」
ミラが驚愕の声を上げた。
その通知が存在するなら、規約に反する査定の疑いがある。行方不明者に全責任を被せなければ、残された者たちの補償をすべて打ち切ると、ギルドの保険部門が示唆したというのか。
「……保険部門からの、示唆」
ノエルの瞳が、僅かに細められた。
ただの悲惨なダンジョン事故だと思われていた事案の裏に、ギルド内部の何者かの、酷く冷たくて巨大な思惑の気配が立ち込めていた。




