第32話 記録は残る
誰も、スポンサーの支援がなくても困らないとは言えなかった。
白鷲の隊長は申請書から手を離し、隣にいる仲間たちを見た。病気の子供も、寄付を待つ孤児院も、明日から金を必要としている。
ノエルはペンを置かなかった。ルーファスが机に戻した責任解除申請書と、その脇の経費決済簿を、ミラに見える位置へそろえた。
「さあ、ノエル審査官」
ルーファスは、決裁者の署名欄を指した。
「決裁の責任は私が持とう。本人の同意があったことを重く見て、申請通りに処理する。それでよいだろう」
ルーファスは、机の上の「責任解除申請書」を指でトントンと叩いた。
白鷲の隊長たちは、悔しげに唇を噛み締めながら俯いている。ルーファスの言う通り、これは自分たちが昨日、連座の恐怖から逃れるために自ら書き上げた台本だ。今さら上層部に逆らえば、スポンサーからの支援を完全に絶たれ、パーティが立ち行かなくなることは目に見えていた。
誰もが、ルーファスの言葉通りに事が進むと思った。
しかし。
ノエルはゆっくりと息を吐き出すと、手元のペンを動かした。
彼がサインを書き込んだのは、ルーファスが突きつけた責任解除の申請書ではない。クララが用意した、『緊急分離』の決裁書だった。
「……何の真似だ、ノエル審査官」
ルーファスの声から、柔和な響きが完全に消え失せた。
「私は、組織の信用を守るために迅速な処理を頼んだはずだ。その書類はなんだね」
「緊急分離の決裁書です。そして、審問院へ移送するための正式な記録書です」
ノエルは書き終えた書類をルーファスに見せつけるように持ち上げた。
「『対象者レオは過去六週間に三度、人道物資の提供を行った。パーティ白鷲は二度目の時点でそれを把握し、経費で支援していた。しかし、提供されたのは薬や食料のみであり、審問院基準における作戦情報や軍需物資の提供、すなわち組織内通の事実は認められない』……『確認した範囲では』との留保と、未確認事項の一覧も添えます」
「その評価には同意できない」
ルーファスは決裁書の一節を指した。
「その書き方では『白鷲』全体に疑惑の目が向く。スポンサーへの影響も考えたまえ。そこまで断定する必要があるのか!」
「それは、昨日という一日を乗り切るためだけの『嘘』です」
ノエルはルーファスを真っ直ぐに見据え、一歩も引かずに言い放った。
「確認できた支出と承認は残します。評価に異議があるなら、その意見も添えます。ですが、昨日まで知らなかったという申請を、承認することはできません」
ミラは移送記録に、副ギルド長から評価への異議が出たことを書き加えた。費用を誰が出したかという事実と、それをどう評価するかという意見。片方を消すのではなく、両方を残した。
「ルーファス副ギルド長」
クララもまた、ノエルの隣に並び立ち、冷徹な法務官の顔で副ギルド長を見据えた。
「ギルド法規において、緊急分離の具体適用は担当審査官に委ねられています。そして、我々審査室の決定を副ギルド長が不当に覆すことは、権限の逸脱に当たります。……それでも強行されるおつもりなら、私は審査評議会に本件の不当介入を提訴する準備がありますわよ」
ルーファスはクララを見た後、移送記録の控えを求めた。
「異議は書面で出す。支援への影響についても、別途報告を求める」
ミラが受領欄を示すと、彼は署名した。机を離れる前に、白鷲の隊長へ一度だけ視線を向けた。
扉が閉まっても、隊長の肩から力は抜けなかった。
静まり返った室内で、ノエルは再び白鷲のメンバーたちへと向き直った。
「本件の『一回限りの無断密会』を理由とする虚偽の責任解除申請は、正式に却下されました」
ノエルは淡々と、しかし確かな法的効力を持って宣告する。
「レオ氏は『責任記録なし』の状態で、本日付をもってパーティから緊急分離されます。審問院への記録移送は、先ほど読み上げた通り『情報・軍需物資の提供なし』の無許可接触として処理します。これにより、組織内通は未認定となり、記録移送まで一律の活動停止を保留する旨、審問院から回答も届きました。明日の聴取後は、各自の関与に応じて審問院が判断します」
「あ、ありがとうございます……! 本当に、なんとお礼を言ったらいいか……!」
隊長は立ち上がり、何度も深く頭を下げた。レオもまた、安堵の涙を拭いながら深々と一礼する。
「感謝には及びません。ただし、あなた方には応分の責任を取ってもらいます」
ノエルの言葉は甘くはなかった。
「白鷲のパーティに対しては、悪意のない相互保護の目的であったとしても、証拠を演出して重要事実を隠匿しようとしたことに対する『正式警告』を発令し、本件に関わる審査費用の全額負担を命じます。……そしてレオ氏」
「はい」
「審問院の裁定がどう転ぶかは分かりませんが、あなたは反復する無許可接触という個別の規律違反として、相応の罰を受けることになります。……覚悟はできていますね」
「ああ。自分で蒔いた種だ。逃げやしねえよ」
レオは憑き物が落ちたような、清々しい顔で笑った。
その後、手続きを終えた白鷲のメンバーとレオは、互いに肩を叩き合いながら第三審査室を後にした。
明日からは、一時的に別行動になる。レオが「荷物は宿に置いておいていいか」と聞くと、隊長は「捨てるわけないだろ」と答えた。再び組めるかは、調査が終わってから決める。それでも四人は、同じ宿へ帰っていった。
「……副ギルド長に、随分と睨まれちゃいましたね」
ミラが疲れ切ったように椅子に座り込むと、ノエルは片付けをしながら短く答えた。
「審査官が上層部の顔色を窺って真実を曲げれば、この部署の存在意義はありません。……クララ上級審査官。援護に感謝します」
「勘違いしないで。私はただ、法規がねじ曲げられるのが我慢ならなかっただけよ」
クララはそっぽを向きながらも、口元には微かな笑みを浮かべていた。
「さて、感慨に浸っている暇はありませんよ、ミラ」
ノエルが新しい書類の束をデスクに置いた。
「先ほど、総合受付から回されてきた新しい申請書です。目を通してください」
「ええ……もう次ですか? ノエル先輩、少しは休みましょうよ」
ミラは文句を言いながらも、手渡された書類に目を通し……その内容に、ギョッと目を丸くした。
「せ、先輩! これ、おかしいです!」
「何がですか」
「この責任解除申請書……申請理由が『命令違反で事故を招いたため』ってなってるんですけど、申請者である隊長のハロルドさんって……」
ミラは書類を持つ手を震わせた。
「三ヶ月前の事故で亡くなっています。生前に作った書類を、今日になって提出したのでしょうか」
ノエルはミラの驚愕を予想していたように、淡々と頷いた。
「その可能性はあります。だから、提出日と作成日を分けて調べます。この印を、誰がいつ押したのかも」
ノエルの冷徹な瞳が、偽造の匂いが立ち込めるその書類を鋭く見据えていた。




