第16話 消えた金貨百二十枚
冒険者パーティにおいて、金銭トラブルはもっとも頻繁に起こり、かつもっとも憎悪を生みやすい問題である。
命を懸けて魔獣を狩り、迷宮を探索して得た血の滲むような報酬。それを不当に奪われることは、冒険者にとって背中から刺されるのと同じくらい許しがたい裏切りだからだ。
「うちの会計担当である魔術師セラを、パーティの共有財産に対する『重大な横領』を理由に責任解除したい。これがその証拠だ」
冒険者ギルド第三審査室。
長机の上にドンと重々しい音を立てて置かれたのは、分厚い革張りの帳簿だった。
提出したのは、中堅パーティ『青の軌跡』の隊長である剣士。その隣には、ローブを身にまとった三十代半ばの女性――会計担当のセラが、青ざめた顔で硬く唇を結んで座っていた。
「横領、ですか」
ミラは息を呑み、セラを見た。
知的な顔立ちをした彼女は、横領という卑劣な犯罪に手を染めるような人物には見えなかった。身につけているローブは清潔だがすり切れており、装飾品の類は一切身につけていない。とても大金を懐に入れているような羽振りには見えない。
だが、隊長の怒りは本物だった。
「一週間前、来月の大規模遠征に向けてポーションの備蓄を増やそうと、共有資金の確認を求めたんだ。だが、こいつはのらりくらりと帳簿を見せるのを渋った。怪しいと思って強引に取り上げたら……案の定だ」
隊長は憎々しげにセラを睨みつけ、ノエルに向かって帳簿のページを乱暴にめくって見せた。
「この一年間の記録を見てくれ。毎月の報酬の分配金から、約一割が『雑費』や『消耗品代』という曖昧な名目で抜き取られている。俺たちが実際に購入した消耗品の額と全く合わない。こいつは毎月少しずつ、俺たちの命の代償を自分の懐に入れていたんだ! その総額は、この一年で金貨百二十枚にものぼる!」
「金貨百二十枚……!」
ミラは思わず叫んでしまった。
ミラは帳簿の十二か所を見た。一度の数え間違いでは済まない額だった。
「ノエル審査官。ギルドの規定では、故意の横領は責任解除の対象になるはずだ。俺たちはこいつを即刻追放し、未精算の報酬を横領分と相殺して取り返したい」
「帳簿の記載は確認しました」
ノエルは静かな目で帳簿を閉じ、黙りこくっているセラへと視線を向けた。
「セラ氏。隊長の主張に対し、反論はありますか? あなたが共有資金から毎月定額を引き出し、自身の私用口座へと移していたことは、ギルドの銀行部門の記録と照合しても事実のようです」
「……」
セラは膝の上で両手をきつく握りしめ、わずかに震えていた。
「お金を、別の口座に移したのは事実です。でも……私は決して、私腹を肥やすために盗んだわけじゃありません」
「じゃあ何に使ったって言うんだ!」
隊長が怒鳴りつける。
「お前はいつも『必要な経費だ』の一点張りで、誰に、何のために金貨百二十枚もの大金を送ったのか、絶対に言おうとしなかったじゃないか! 言えないような相手に送ってるから、横領だって言われるんだろうが!」
「それは……」
セラの顔がさらに苦痛に歪む。
「言えません。どうしても、受取人の名前だけは……」
「セラ氏」
ノエルは淡々と、しかし有無を言わせぬ重さで告げた。
「移動した金の使途と、支出の承認を確かめます。名前を言えない事情があるなら、先にその理由を伺います」
「言えません」
セラは血が滲むほど唇を噛み、首を横に振った。
「審査室での記録は……スポンサーの監査役にも閲覧する権限があるはずです。もし、受取人の名前が記録に残ってしまえば、必ず政治的な思惑を持った貴族たちに利用されてしまう。だから、絶対に言えないんです……!」
「受取人の安全に関わる、ということですか」
ミラが怪訝な顔をするが、セラはハッとしてそれ以上口を閉ざしてしまった。
「分かりました。個人情報を別綴じにできるか、上級審査官へ保護措置を申請します。その判断までは、受取人の氏名を公開調書へ書きません」
ノエルは手元の書類にペンを走らせた。
「帳簿の名目と実際の支出は一致していません。承認と使途は未確認です。本件の審査を開始します」
受理。その言葉が響いた瞬間、隊長は「よし」と小さくガッツポーズを作り、セラは絶望的な顔で天を仰いだ。
「ただし」
ノエルは続ける。
「まだ横領が確定したわけではありません。よって、本日から正式な審査期間に入ります。審査期間中、セラ氏はパーティから『分離保全』の扱いとなり、共同遠征には参加できません」
ノエルは引き出しから、ギルドの紋章が入った重々しい書類を取り出した。
「そして、これがもっとも重要な点ですが。責任解除申請が受理され、金銭トラブルが係争中となった場合、ギルドの規約に基づき、セラ氏の口座にある『未精算報酬』は、審査の決着がつくまで仮凍結されます」
「えっ……」
セラの目が見開かれた。
「仮、凍結……?」
「そうです。横領の事実が認定された場合、被害額の補填に充てるためです。止まるのはギルドが預かる未精算報酬です。すでに精算した個人資産まで凍結する措置ではありません」
「待って! 待ってください!」
それまで頑なに口を閉ざしていたセラが、椅子から立ち上がり、机に身を乗り出してノエルに懇願した。
「未精算分が止まると困ります! 今月は遠征報酬の精算が遅れて、まだ送れていません。次の送金に充てる予定なんです。今日は七日でしょう。十日の正午までに届かなければ……! もし間に合わなければ、学寮の次回納付期限を過ぎて、あの子が退寮させられてしまう! お願いです、審査は受けるから、口座の凍結だけは……!」
彼女の悲痛な叫びは、自分の罪が暴かれることを恐れる泥棒のそれとは明らかに違っていた。
純粋に、自分が守ろうとしている誰かが不利益を被ることを恐れる、切実な悲鳴。
ミラは胸が締め付けられるのを感じた。
「学寮……ってことは、学生さんですか? ノエル先輩、なんとか……」
「規則です」
ノエルはミラの言葉を冷たく遮った。
「今ここで係争中の報酬を渡すことはできません。ただ、納付先へ猶予の照会はできます。身元を伏せたまま、受領番号を教えていただけますか」
ノエルの氷のような視線に射抜かれ、セラはへたり込むように椅子に座り直した。
「猶予が通らなかったら……。もう手元のお金だけでは足りないんです」
「嫌なら、さっさと誰に送ってるか白状することだな。泥棒猫が」
隊長は冷たく言い放ち、席を立った。
「ノエル審査官。明後日から遠征に出る。それまでには、あいつの口座からきっちり金貨百二十枚を取り返して、追放の手続きを終わらせておいてくれ」
隊長が部屋を出て行き、セラもうつろな足取りで第三審査室を後にして行った。
部屋に取り残されたミラは、やりきれない思いでノエルを見た。
「先輩。セラさん、本当に自分のために横領したようには見えませんでした。誰かの子どもの学費のために、言えない事情でお金を送ってたんじゃ……」
「そうかもしれませんね。しかし、善意であっても無断で帳簿の名目を偽り、資金を移動させれば、それは立派な会計違反です」
ノエルは凍結の手続き書類をギルドの財務部門へ送る準備をしながら、淡々と応じた。
「それに、彼女の言う『学費』が本当だとしても、金貨百二十枚もの大金がすべて学費に消えるとは考えにくい。一部を学費に充て、残りをちゃっかり自分の懐に入れている『部分的な横領』の可能性も十分にあります。その可能性も確認します。まだ横領と認定したわけではありません」
「でも、学寮の納付期限まで数日しかないんですよ!? もし本当にただの善意で、審査が長引いたせいでその子が退寮になっちゃったら、どう責任取るんですか!」
ミラが声を荒らげる。審査官の慎重な手続きが、時には誰かの人生を理不尽に壊してしまうことを、彼女はこれまでの事件で学んでいた。
「だから、急ぐのです」
ノエルの手が止まった。
彼はすでに、もう一つの書類――ギルド銀行部門へ照会をかけていた、セラの『私用口座』の詳細な取引履歴を机の上に広げていた。
「ミラ。まず、名前を伏せた受領控えを照会してください。誰に渡ったかを保護しながら、何にいくら使ったかを確かめます。保護措置の決裁と並行して進めましょう」
ノエルの言葉に、ミラはハッとして机に広げられた取引履歴をのぞき込んだ。
「ええと、これがセラさんの私用口座の記録ですね。確かに、毎月決まった日に、パーティの報酬から『雑費』として金貨十枚が振り込まれています。一年間で計十二回。総額百二十枚……って、あれ?」
ミラは目をこすり、もう一度残高の項目を見直した。
「先輩……これ、どういうことですか? セラさんの私用口座の現在の残高、たったの金貨二枚しかありませんよ!」
「ええ」
ノエルは凪いだ瞳で、その不可解な記録をペン先でなぞった。
「彼女はこの一年間、金貨百二十枚を自分の口座に移しています。しかし、彼女の口座の残高は、一年間を通じてほとんど増えていない」
「使ったんじゃないんですか? こっそり高いものを買ったりして……」
「そう考えるのが自然ですが、彼女の生活状況や身なりから見て、大金を使っている形跡はありません。……ミラ、出金記録を見てください」
ノエルに促され、ミラは出金欄に目を移した。
そこには、極めて奇妙な規則性が刻まれていた。
「毎月、パーティの口座から金貨十枚が振り込まれた……『その日のうち』に、全額が別の場所へ送金されてる……!」
「その通りです。金貨百二十枚は、少なくともこの口座には残っていません。本人に戻る金がないか、先の受領控えまで追います」
ノエルは記録書をトントンと机で揃え、立ち上がった。
「消えた金貨百二十枚。それがどこへ向かったのか。……すぐにギルド公認の送金業者へ向かいます。学寮の納付期限が切れる前に、真実を暴き出しますよ」




