第15話 無罪ではなく、責任の範囲
ノエルの静謐な声が、第三審査室の隅々にまで染み渡った。
先ほどまで「英雄を処分するな」と大声で息巻いていた四人の冒険者たちは、まるで魔法で口を縫い付けられたかのように沈黙し、気まずそうに顔を見合わせていた。
彼らとて、命懸けで戦う冒険者である。連携を前提とした前衛と斥候の動きの中で、一言の合図もなく側面担当が消え去ることが、残された者にどれほどの死の恐怖をもたらすか、理解できないはずがない。
「レオン氏」
ノエルは、隔離天幕での調査を終えてギルド本部へと連行されてきていたレオンへと視線を移した。
レオンは、壁際に背を預けたまま、深くうつむいていた。彼もまた、言い訳の言葉を失っていた。笛の音は仲間へ届き、走り出すまでに数秒で合図できたことが、現場の確認で示されたからだ。
「あなたは隊長の制止や妨害を恐れ、あえて笛を吹かず、合図を省略して持ち場を離れた。あなたのその自己判断による数秒の省略が、仲間二人の防御の隙を生み、重傷を負わせた。この事実に、反論はありますか」
「……ねえよ」
レオンは力なく首を振った。
「あんたの言う通りだ。俺は、隊長が嫌いだった。どうせ分かってもらえねえって、最初から対話を投げ出した。……俺の手抜きで、あいつらを死なせかけた。言い訳はしねえ」
その言葉には、これまで見せていたふてぶてしさは欠片も残っていなかった。
「分かりました。では、第三審査室としての最終判定を言い渡します」
ノエルはデスクに戻り、手元の『責任解除申請書』に朱肉をつけたペンを走らせた。
「『鉄の咆哮』隊長から提出された、斥候レオンに対する『敵前逃亡』および『重大な職務放棄』を理由とする責任解除申請は、これを却下します。レオン氏の行動はギルド規約に基づく正当な救助活動であり、逃亡の事実は認められません」
その決定に、救助された四人の冒険者たちがホッと胸を撫で下ろした。
しかし、ノエルの裁定はそれだけでは終わらない。
「ただし。レオン氏が自隊に対する『退路変更の合図』を意図的に省略し、仲間に重篤な危険をもたらしたことは明白な過失です。よって、レオン氏の冒険者記録には、連絡手順違反に関する『正式警告』を記載します。また、負傷した二名の仲間に対して支払われるべき補償金のうち、一定の割合を、レオン氏の未精算報酬から差し引いて充当することとします」
「……分かった。妥当な処分だ」
レオンは抵抗することなく、静かに頷いた。
それは「責任解除(追放)」という重大な不利益ではない。だが、「完全無罪」でもない。功績と過失を冷徹に切り分け、それぞれに相応の評価を下すという、助けた功績も、負わせた損害も、それぞれ記録に残す判定だった。
「これにて審査を終了します」
ノエルが書類を束ねようとした時、ミラがふと口を開いた。
「あの、レオンさんは……これからどうするんですか? 責任解除は却下されたわけですから、パーティに戻ることも……」
「戻れるわけねえだろ」
レオンは自嘲気味に笑った。
「合図もしないで仲間を見捨てるような奴と、誰が背中を預け合えるってんだ。隊長の方だって願い下げだろうさ。……俺は『自主離脱』の手続きを取る。ほとぼりが冷めたら、またどこか別の街で、一からやり直すよ。今度は、嫌いな奴が相手でも、ちゃんと笛を吹くさ」
そう言って、レオンは救助された四人とともに、第三審査室を後にして行った。
扉が閉まり、室内にいつもの静寂が戻る。
ミラは、彼らが去っていった扉を見つめながら、少しだけ複雑な表情を浮かべていた。
「ノエル先輩。なんだか、少し可哀想な気もします。結果的に彼は四人の命を救った大功労者なのに、記録に警告が残って、パーティも自分から去らなきゃいけないなんて」
「結果が良かったからといって、過程の過失が帳消しになるわけではありません」
ノエルはインク壺の蓋を閉めながら、感情の読めない声で答えた。
「彼が合図を怠ったことで、別の二人が死にかけていた。それは決して揺るがない事実です」
「でも……」
ミラはまだ納得がいかないように食い下がる。
「本当に一刻を争う事態で、急いで走り出さなきゃいけない時だってあるじゃないですか。そういう時でも、手順を省略したことは罪に問われるんでしょうか。正当な理由で、みんなを助けるために走ったのだとしても……」
「省略が避けられたか、そのせいで何が起きたかを調べます。守れない状況だったのに、規則があるというだけで罰することはできません」
ノエルの言葉は、いつになく強い語気を含んでいた。
ミラが驚いて振り返ると、ノエルは窓の外の遠く――空の彼方を見つめるように視線を漂わせていた。
その横顔には、いつもの氷のような冷静さとは違う、痛みをこらえるような、微かな歪みが浮かんでいた。
「え……?」
「何を救えて、何を防げなかったのか。そこを調べずに、自分は正しかったと言い切ることもできません」
ノエルは机の上に置かれていた自分の手を、無意識のうちに強く、白くなるほど握りしめていた。
まるで、過去の自分自身に向かって、冷徹な判決を下しているかのように。
(先輩……?)
ミラは息を呑んだ。
ノエルが、七年前に責任解除を受けていることは知っている。元斥候であり、装備係であった彼が、一体どんな事故で、どのような決断を下して追放されたのか、詳しい記録は誰も教えてくれない。
だが今、レオンの「警告の省略」という事象に触れた瞬間、ノエルの奥底に沈んでいた何かが、確実に揺らぎを見せていた。
「ノエル先輩、あの……」
「……失礼。少し、私情が混じりました」
ミラが声をかけるより早く、ノエルはスッと瞬きをし、強く握られていた拳を解いた。
こちらを振り向いた時の彼の瞳は、すでにいつもの凪いだ、深い湖のような静けさを取り戻していた。
「書類の整理を進めましょう。レオン氏の警告記録と、補償金の計算を明日の朝までにギルド本部へ提出しなければなりません」
「あ……はい、分かりました」
ミラはそれ以上踏み込むことができず、大人しく自分のデスクへと戻った。
ただ、ノエルがふとした瞬間に見せる「荷車の固定具を二度引く癖」や、先ほどの「警告手順の省略」に対する異様なほどの執着が、彼自身の過去の傷と深く結びついていることだけは、確信を持って感じ取れた。
いつか、審査官としてではなく、彼自身の過去の記録を審査しなければならない日が来るのではないか。そんな予感が、ミラの胸の奥で小さく警鐘を鳴らしていた。
* * *
それから数日後。
第三審査室には、新たな案件が舞い込んでいた。
「今度は……横領、ですか」
ミラは、クララ上級審査官から回されてきた書類の束を見て、ウンザリとした声を上げた。
「ええ。中堅パーティ『青の軌跡』の隊長から、会計担当の魔術師セラに対する責任解除の申請です」
ノエルはすでに、提出された分厚い帳簿の写しに目を通していた。
「過去一年の金貨百二十枚が、会計担当の私用口座へ移されています。使途を聞いても、受取人は言えないと」
「私用口座へ……。まず、そこから先のお金の流れですね」
ミラは新しい調書を開いた。ノエルは頷き、帳簿の十二か所に付箋を挟んだ。
十二か月にわたる送金。受取人の欄だけが、まだ空白だった。
「……なんだか、嫌な予感がしますね」
ミラの呟きに、ノエルは短く頷いた。
「調査を開始します。消えた金貨百二十枚の行方と、彼女が守ろうとしている『言えない受取人』の正体を、記録の底から引きずり出しましょう」




