第12話 赤い救難炎
「なぜ、あなたの靴に隣の谷の赤土がついているのですか」
隔離天幕の中で、ノエルの静かな問いかけが響いた。
レオンは一瞬、図星を突かれたように目を見開いたが、すぐに口元を歪めてそっぽを向いた。
「……当たり前だろ。最短ルートでギルドの連絡所に駆け込むために、隣の谷の急斜面をショートカットして駆け下りたからだ。あそこは泥濘んでて滑りやすいからな、靴底に泥がめり込んじまったんだろうよ」
「泥は、その経路と矛盾しません。ただ、連絡所へ着いた時刻は受付簿で確かめます」
ノエルが淡々と確認すると、レオンは鼻を鳴らした。
「だから最初からそう言ってんだろ。俺は救難要請のために走ったんだ。早く追放申請なんか破り捨てて、俺の疑いを晴らしな」
レオンがパイプ椅子に深く座り直した時、ミラが納得のいかない表情で一歩前に出た。
「待ってください。隣の谷に行ったことが証明されたからって、それが『仲間を見捨てていない』理由にはなりません」
「あぁ? どういう意味だよ、書記官の姉ちゃん」
レオンが鋭く睨みつけるが、ミラは怯まずに言葉を続けた。
「あなたの言う『赤い救難炎』が上がったのは、本当にあなたが持ち場を離れる前だったんですか? 隊長と口論ばかりしていたあなたは、戦闘が始まって魔獣の群れに恐れをなし、思わず持ち場を放棄して逃げ出した。そして、逃げる途中でたまたま隣の谷から上がる救難炎を見つけて、『これを言い訳に使えば逃亡をごまかせる』と思いついたんじゃないですか?」
ミラの指摘は鋭かった。
靴の赤土は、「隣の谷へ行ったこと」を証明するが、「いつ行ったか」までは教えてくれない。逃亡した後で炎を見つけて連絡所へ駆け込んだとしても、靴には同じように赤土がつく。それならば、隊長が主張する「敵前逃亡」という罪は少しも軽くならない。
「ち、違う! 俺はちゃんと炎を見てから走ったんだ! 後付けの言い訳なんかじゃねえ!」
レオンが慌てて立ち上がり、顔を赤くして反論するが、ミラは冷ややかに手元のメモを見つめた。
「どちらの説明も、まだ確かめていません。隊長さんの主張だけを採用することもしません。別々に聞き取ります」
「くそっ……俺の言葉が信じられねえなら、どうやって証明しろってんだよ!」
レオンが頭を抱えて座り込んだ時、ノエルが天幕の出口へ向かって静かに口を開いた。
「言葉で証明する必要はありません。それが後付けの言い訳か、あるいは正当な救助要請の行動だったか。時間軸を調べれば、すぐに分かります」
「時間軸を調べるって、どうやってですか?」
「現場を見に行くのです。……ミラ、ここでレオン氏の調書を仕上げておいてください。私は少し、隣の谷へ行ってきます」
「えっ、先輩一人でですか?」
「いえ、専門家を呼んでいます」
ノエルが天幕の布をめくると、そこにはすでに馬車の御者台に腰掛けた、熊のような体格の男が葉巻を咥えて待っていた。
「遅えぞ、ノエル。現場監査課を急に呼びつけておいて、待たせるたぁいい度胸だ」
バルト・ヘイン。物証と現場復元のプロフェッショナルである彼が、不敵な笑みを浮かべてノエルを見下ろしていた。
* * *
西の渓谷の「隣の谷」。
そこは、切り立った岩山がV字に深く切れ込んだ、日差しすら届きにくい薄暗い地形だった。
バルトとノエルが斜面を慎重に下りていくと、やがて谷底に大規模な崩落の跡が現れた。斜面の岩肌が大きくえぐれ、鉄分を多く含んだ赤土が広範囲にわたって露出している。レオンの靴底に残っていた泥と、色も粒の細かさもよく似ていた。
「昨日、ここで別パーティの四人が土砂崩れに巻き込まれて生き埋めになりかけた。レオンの通報で駆けつけた救助隊が、間一髪で岩を退かして引っ張り出したそうだが……」
バルトは岩の間に残された血痕や、折れた武器の破片を長靴で器用に避けながら、谷底の中央付近へと歩を進めた。
「レオンの野郎が『救難炎を見た』って主張してるなら、それを撃ち上げた痕跡が必ずどこかにあるはずだ」
救難炎は、ギルドが各パーティに支給している緊急用の魔法道具である。小さな筒状の筒先に魔力を込めるか、専用の発火石で衝撃を与えると、特殊な化学反応と魔法陣が起動し、赤い閃光と煙を上空数十メートルまで打ち上げる仕組みになっている。
「ありました」
ノエルが足を止めたのは、崩落した岩石の山から少し離れた、比較的平坦な地面だった。
そこには、直径十センチほどの円筒形の金属の残骸が転がっており、その周辺の地面は高熱で黒く焼け焦げている。
「ビンゴだ」
バルトはしゃがみ込み、分厚い革手袋をはめた手で慎重にその金属の残骸を拾い上げた。
「ギルド支給の赤色救難炎の薬莢だ。間違いない」
「バルトさん。その燃え殻から、正確な発火時刻を推定することは可能ですか?」
ノエルの問いに、バルトはニヤリと笑った。
「俺を誰だと思ってんだ。現場監査課の仕事の半分は、こういう遺留品の時間を逆算することだぜ」
バルトは鞄からピンセットと小さなルーペを取り出し、金属の筒の内側にこびりついている赤い灰の塊――燃え殻を削り取った。
「救難炎の燃料は、普通の火薬じゃねえ。上空で長時間燃え続けるように、特殊な錬金術の樹脂が何層にも重ねて塗り込まれてる。こいつが燃焼すると、一種の『年輪』のような焼け焦げた層が残るんだ」
バルトは削り取った燃え殻の断面をルーペで覗き込んだ。
「この層の厚みと、風化の度合い、そして残っている微弱な魔力の揮発量を見れば、こいつがいつ発火し、何分間燃え続けたか、数分の誤差で割り出せる。ええと……」
バルトはぶつぶつと計算を始め、やがて顔を上げた。
「出たぜ。この救難炎が発火したのは、昨日の午後、一四時一〇分前後だ。燃焼時間は規定通り約五分。一四時一五分頃には火が消えた計算だが、ここからの推定には数分の幅がある」
「一四時一〇分……」
ノエルは懐から手帳を取り出し、『鉄の咆哮』の隊長が提出した遠征簿の記載と、負傷した隊員たちの証言記録を照らし合わせた。
遠征簿には、こうはっきりと書かれている。
『一四時二〇分。前衛が魔獣と交戦開始。同時に、側面を牽制するはずのレオンの姿が消えていることに気づく』
さらに、ミラが聞き取った負傷した隊員たちの証言も、これと完全に一致していた。『魔獣の群れとぶつかった時、すでにレオンはいなかった』と。
「二〇分は、隊長が不在に気づいた時刻です。離れた瞬間を見た時刻ではありません」
ノエルはその二つを、手帳の別々の欄に書いた。
「炎が先に上がった。それだけでは、レオン氏がどこで見たかは分からない。炎の前に逃げ出していた可能性も残ります」
「そいつを確かめるには、自隊の連中の話が要るな」
「ええ。負傷した二人に、相談せず別々に話してもらいます。それと、あの尾根まで実際に歩いてみましょう」
ノエルは持ち場から見える空を確かめた。赤い炎が上がった高さは、岩壁より十分に高い。見えないはずのものを見た、と主張しているわけではなかった。
「救助へ走ったのか。そして、仲間へ連絡する余地はあったのか」
ノエルは視線を北斜面――レオンが本来いるべきだった持ち場の方角へと向けた。
「この二つは、別々に調べます」




