第11話 逃げた斥候
申請が届いた翌朝、ノエルとミラは王都の西に位置する『西の渓谷』へ向かった。切り立った崖と岩場が続く難所だった。
その入り口付近に急造されたギルドの前線救護所には、血生臭い匂いと、負傷した冒険者たちのうめき声が充満していた。
到着した馬車から降り立ったミラは、思わず顔をしかめて口元を覆った。再処置のため担架で運ばれていく二人の冒険者の全身は、鋭い刃物で切り裂かれたような深い傷に覆われ、厚い包帯がすでに赤く染まっている。
「ひどい……」
「渓谷特有の魔獣、ロックマンティスによる裂傷ですね。装甲が硬く、集団で狩りを行う厄介な相手です」
ノエルは静かな目で負傷者たちを一瞥すると、救護所の入り口で頭を抱えて座り込んでいる大柄な男へと歩み寄った。
「パーティ『鉄の咆哮』の隊長ですね。第三審査室のノエル・ヴァイスです。責任解除の申請を受理し、事実確認に参りました」
その声に顔を上げた隊長は、両目が血走っており、疲労と怒りで頬がひくひくと引きつっていた。
「審査官殿か……遅えよ! 俺の仲間は、もう少しで魔獣の鎌に首を落とされるところだったんだぞ!」
隊長は立ち上がり、怒りの矛先をノエルに向けるように大声で怒鳴った。
「あいつだ! うちの斥候のレオンの野郎が、戦闘の最中に何の前触れもなく持ち場を放棄して逃げやがったんだ! 本来ならあいつが敵の側面を牽制する手はずだったのに、急に連携が崩れたせいで、前衛の二人が群れに飲み込まれた! あいつは仲間を見捨てて、自分だけ安全な場所へ尻尾を巻いて逃げ出しやがったんだ!」
ミラの背筋に冷たいものが走る。
冒険者にとって、連携を前提とした戦闘中の持ち場放棄は、単なるサボりとは次元が違う。それは仲間の命を直接危機に晒す。だからこそ、何が起きたかを急いで確かめる必要があった。
「……申請書には、レオン氏は『助けを呼びに行っていた』と主張しているとありますが」
ノエルが淡々と確認すると、隊長は地面に思いきり唾を吐き捨てた。
「ふざけるな! あいつは昔から俺の指示にいちいち反抗して、口論が絶えなかったんだ。最近じゃ『こんなパーティ、いつでも抜けてやる』って吹聴してたらしいじゃねえか。今回だって、魔獣の群れを見てビビり上がって逃げたのを、後からとってつけたような言い訳で正当化してるだけだ!」
隊長の怒りはもっともだった。過去の対立関係という「逃げる動機」が十分にあり、事実として仲間は死にかけている。
「現在、レオン氏はどこに?」
「奥の天幕で、ギルドの駐留警備隊に監視させてる。あんなクズ、さっさと追放の手続きを済ませて、二度と冒険者の看板を背負えないようにしてくれ!」
隊長の怒声に見送られながら、ノエルとミラは救護所の奥に張られた隔離用の天幕へと向かった。
天幕の中では、革の軽鎧を着た小柄で痩せぎすな青年が、不貞腐れたようにパイプ椅子に踏ん反り返っていた。彼が斥候のレオンである。
装備に目立った破損はなく、負傷した仲間たちに比べると無傷に近い状態だった。
「あなたがレオン氏ですね。我々は第三審査室の……」
「ああ、審査官サマか。待ってたぜ」
レオンはノエルの言葉を遮り、苛立たしげに足を組み替えた。
「さっきから警備隊の連中には言ってるんだがよ、俺は逃げたんじゃねえ。あの時、俺たちのいた北斜面から、隣の谷に『赤い救難炎』が上がるのが見えたんだ」
救難炎。それは冒険者が全滅の危機に瀕した際に打ち上げる、ギルド共通の緊急合図である。
「赤い炎が上がったなら、一番近くにいる斥候が最優先でギルドの連絡所へ向かい、救助要請を伝達する。それがギルドの定めた絶対の規則だろうが。俺は一番足が速いから、規則通りに走っただけだ。それを敵前逃亡だの仲間殺しだの、ふざけた言いがかりをつけられて堪るかよ!」
レオンは早口で捲し立て、自分を正当化するように腕を組んだ。
「事実、俺が連絡所に駆け込んだおかげで、隣の谷で崩落に巻き込まれてた別のパーティの四人は、ギリギリで救出されたんだ。俺は四人の命を救った英雄だぜ? それを追放するなんて、ギルドの審査室は頭がイカれてんのか?」
ミラは、レオンのふてぶてしい態度に強い反発を覚えた。
確かに、彼の通報によって別のパーティが救われたというのは事実らしい。しかし、だからといって目の前の仲間が死にかけている戦闘を、一言の相談もなく放棄していい理由になるのだろうか。
「……いくら規則でも、自分のパーティが戦闘中だったんですよ? せめて、隊長に『救難炎が見えたから離脱する』って合図を送るべきだったんじゃないですか」
ミラが鋭く指摘すると、レオンは一瞬だけ気まずそうに視線を泳がせたが、すぐに鼻を鳴らした。
「そんな余裕、あるわけねえだろ。一分一秒を争う事態だったんだ。それに、あの石頭の隊長に相談なんかしたら、『他人のことより目の前の敵に集中しろ』って怒鳴られて、止められるに決まってる」
ミラはレオンの顔から手元の記録へ視線を戻した。態度が悪いことと、逃亡したかどうかは別だ。
「ノエル先輩。救助へ行ったとしても、合図をしなかった理由は別に確かめる必要がありますね」
ミラが小声で耳打ちする。
「口論があったことだけで逃亡とは決められません。でも、仲間が何を知らされていたかは記録しておきます」
だが、ノエルはミラの言葉に頷きも否定もせず、無表情のままレオンへ一歩近づいた。
「レオン氏。一つ確認します。あなたが隣の谷の『赤い救難炎』を確認したのは、間違いなくあなたが持ち場を放棄する『前』ですね?」
「あ? 当たり前だろ。炎を見たから走ったんだ。逃げ出した後で炎に気づいたなんて、くだらねえ疑いなら捨てな」
「分かりました」
ノエルはレオンの目を真っ直ぐに見据えたまま、ふと視線を下に落とした。
「では、その靴を見せてください」
「は? 靴?」
レオンが怪訝な顔をする中、ノエルはしゃがみ込み、レオンが履いている革靴の底をじっと観察した。
渓谷を駆け抜けるために酷使された靴底には、べっとりと泥がこびりついている。
「ノエル先輩、靴に何があるんですか?」
「現場の土です」
ノエルは静かに立ち上がり、レオンに告げた。
「あなた方『鉄の咆哮』が魔獣と交戦していたのは、この渓谷の入り口に近い『北斜面』でした。あそこの土質は、水はけの良い黒土です。……ですが、あなたの靴底の奥深くに詰まっている泥は、明らかに黒土ではありません」
ノエルの言葉に、レオンの顔色が変わった。
「あなたの靴には、この渓谷でもっとも水気が多く、鉄分を含んだ粘土質の『赤土』がこびりついている」
ノエルは淡々と、しかし決定的な事実を突きつける。
「そして、この周辺でその赤土が露出しているのは、あなた方がいた北斜面ではなく……崩落事故が起き、赤い救難炎が上がった『隣の谷の底』だけです」
ミラは息を呑んだ。
「隣の谷の泥が、靴に……?」
「ええ」
ノエルは感情の動かない瞳で、言葉を失っているレオンを見下ろした。
「あなたは『持ち場から隣の谷の救難炎を見て、ギルド連絡所へ走った』と証言しましたね。連絡所は北斜面の麓です。現場から連絡所へ直行したのであれば、隣の谷に足を踏み入れる理由がない。なぜ、あなたの靴に隣の谷の赤土がついているのですか?」




