第9話 自筆
照合の席は、前回と同じ奥の小部屋に設けられた。
上座に記録院長。書記の席には、見慣れない年配の書記が座っている。ルーカスは、部屋の隅の椅子に座らされていた。窓口を外されたまま、調べの途中の身として呼ばれたのだ。
卓の片側に、フォルクマー子爵と、子爵家の代言人。
反対側に、アデライド。その後ろに、エルゼとマルタが並んで立っていた。エルゼは今日も前掛けを握っている。マルタは、母の袖を握っていた。
部屋の戸口近くに、二人。工部から呼ばれたフーゴと、白い上っ張りを着た痩せた老人。書庫番のゲルハルトである。三十年、記録院の書庫にいる男は、まるで自分も綴りの一冊であるかのように、壁際に背を貼りつけていた。
「はじめます」
記録院長が、南門外の土地の原本を卓の中央に置いた。
「相手方は、原本に基づく境界の確定を申し立てております。申立人は、同じ原本の記載の訂正を申し立てております。まず、相手方のご意見を」
代言人が立ち上がる。
「原本は、原本でございます」
短く、滑らかな声である。
「受理番号、受理日、署名、測量士の図面。いずれも形式に欠けはございません。申立人が根拠とされるのは、三十年前の写しと、工部の用水台帳。前者は書き写しの際の誤記と考えるのが相当であり、後者は浚渫の負担者を記すもので、土地の所有を定めるものではございません。──以上です」
子爵は、椅子にゆったりと座っていた。
この部屋のなかで、いちばん落ち着いているのは彼だった。記録院の原本も、教会の副本も、入庫記録も、すでに片づけてある。代言人の言うとおり、工部の台帳は所有を定めない。そのことを、子爵自身がよく知っている顔だった。
「申立人」
「代言人様の仰るとおりでございます」
アデライドの第一声に、代言人が眉を上げた。
「工部の用水台帳は、土地の所有を定めるものではございません。わたくしも、そう存じております。ですから、台帳の話はいたしません」
アデライドは、一枚の写しを卓に置く。
「子爵様ご自身の、お手紙の話をいたします」
◇
記録院長が、写しを手に取った。
二年前の日付。工部宛て。浚渫負担についての陳情。末尾に、子爵家の印と、ベネディクト・フォン・フォルクマーの署名。
院長は文面を一度だけ読み、写しを子爵の前へ滑らせた。
子爵の顔から、ゆったりとした色が、音もなく抜けていく。
「──当家の地は、南門外用水の東岸にて尽く」
アデライドは、文面を暗誦した。三度読んだので、もう紙を見なくても言える。
「西岸は他家の地なれば、当家に西岸の浚渫を負わしむるは当たらず。──二年前、子爵様が工部の窓口へご自分でお運びになり、置いていかれたものです。工部の監督官殿が、受け取った日のことを覚えておいでです」
戸口のフーゴが、帽子を胸に当てて一礼した。
代言人が、ようやく口を開いた。
「……当時、子爵様は、先代からの言い伝えを信じておられたのです。原本を確かめずに陳情を書かれた。いわば、誤解に基づく」
「誤解、でございますか」
「さよう」
「では、そのようにいたしましょう」
アデライドは、あっさりと引く。代言人が、かえって身構える。
「原本が正しく、西岸は三十年前から子爵様の土地であった。子爵様は二年前、それを知らずに、西岸は他家の地だと工部に書き送った。──そういうことでございますね」
「……そういうことです」
「フーゴ殿」
アデライドは、戸口を振り返った。
「浚渫の負担を逃れるために、工部へ事実と違う陳情をした者は、どうなりますか」
フーゴは、少しも迷わずに答えた。
「逃れた負担金の十倍を、王家の会計院に納めることになりますな。王領の用水は王家のもんですから、王家の金をごまかしたのと同じ扱いで。それと、陳情した者の名は、会計院の帳面に残ります」
「誤解であっても」
「うちの規則に、誤解の場合という但し書きはございません」
アデライドは、子爵に向き直った。
「子爵様。どちらでも、お選びくださいませ」
子爵の目が、アデライドに向く。
「原本が正しいのでしたら、二年前の陳情が偽りになります。王家の会計院に、子爵様のお名前が残ります。──陳情が正しいのでしたら、原本のほうが偽りになります。三十年前に書かれた原本が、どうして偽りになったのか。それを、この部屋で確かめることになります」
部屋が、静まり返った。
白鶴の間の夜に、ユリウスが立たされた場所と同じである。どちらを選んでも、紙が残る。
子爵は、長いこと黙っていた。
それから、低く言った。
「……陳情は、誤解でした」
原本を選んだのだ。王家の会計院に名が残るほうを。
原本の偽りを確かめられるよりは、ましだと考えたのだろう。
◇
「では、原本を確かめるのはやめにいたしましょうか」
アデライドがそう言ったとき、代言人の肩から、目に見えて力が抜けた。
「──と、申し上げたいところなのですが」
アデライドは、原本の綴りに手を伸ばした。記録院長が、目で許す。
「院長様。この頁の綴じ紐の穴を、ご覧いただけますか。ほかの頁より、わずかに大きゅうございます。一度糸を抜いて、通し直した穴です。わたくしは王城で、古い勅書の綴じ直しを何度かお手伝いいたしましたので、見ればわかります」
記録院長は、眼鏡をかけ直して綴りを覗きこんだ。
長い時間がかかる。
「……通し直してありますな」
「この原本を最後に書庫から出したのは、入庫記録ではルーカス・ヘルト殿となっております。ですが、ルーカス殿は窓口の書記で、書庫で綴りの糸を扱うことはございません。綴じ直しの道具は、書庫の中にしかないはずです」
アデライドは、戸口の壁際に目をやった。
「ゲルハルト殿。書庫の糸は、どなたが管理していらっしゃいますか」
ゲルハルトの背中が、壁から離れた。
老人は、両手を上っ張りの前で揉み合わせている。唇が動いている。声が出ない。もう一度動いて、ようやく、かすれた音になった。
「わたくしで、ございます」
「入庫記録の、ルーカス殿の署名は」
「……わたくしが、書きました」
部屋の隅で、ルーカスが椅子から腰を浮かせた。記録院長が手で制する。
「三十年、書庫におりました。三十年、原本を守ってまいりました」
ゲルハルトの声が、震える。
「子爵様のお屋敷の方が、わたくしの娘の婿の借金のことを、ご存じでした。一枚だけだと言われました。副本の焼けた土地の、一枚だけ。誰も困らない、母娘二人の畑だと」
「一枚だけ、ですか」
「はい」
「その一枚を、どうなさいましたか」
ゲルハルトは、しばらく床を見ていた。
それから上っ張りの内側に手を入れ、薄い油紙の包みを取り出した。震える手で、卓の上に置く。
「……燃やせませんでした」
包みを開くと、茶色く焼けた一枚の頁が現れた。
三十年前の日付。測量士イグナーツの署名。子爵家の先代と、ヨーゼフの署名。図面の上に、小川の線と、石垣の線。
そして、小川の線に沿って、「境」の字があった。
「三十年、原本を燃やさずにまいりました。燃やせば、わたくしの三十年も燃えてしまう気がいたしました。それに──」
ゲルハルトは、子爵のほうを見なかった。
「子爵様が、あとでわたくしを切り捨てるおつもりなら、この一枚が、わたくしの命綱になると思いました」
フォルクマー子爵が、はじめて椅子から立ち上がった。
何か言おうとして、言葉にならない。代言人が、その袖を引いて座らせる。
◇
記録院長の裁定は、短かった。
南門外の土地の原本は、書庫番の差し出した頁をもって本来の原本とする。差しこまれた頁は偽りとして取り除き、訂正の根拠とともに同じ函に綴じこむ。境は、小川とする。
ルーカス・ヘルトの窓口への復帰を、本日付けで認める。
書庫番ゲルハルトは、職を解く。
「なお」
院長は、最後に子爵を見た。
「相手方は、本日この席で、二年前の工部への陳情が誤解であったと述べておられます。その発言は、照合の記録に残ります。照合の記録は、公開文書でございます」
フーゴが、戸口で小さく咳払いをした。
「写しは、うちで取らせてもらいますわ。ご本人が、あの陳情は誤解だったと仰ったんです。うちは、そのとおりに扱うだけでして。十倍の件は、会計院に回しますんで」
原本の偽りは確かめられた。そのうえで、陳情は偽りだったと自分の口で言ってしまっている。子爵は、両方を失ったのだ。
ひとつを選べと言われたときに、ひとつを選んだ。選んだほうも、選ばなかったほうも、同じ部屋のなかで紙になった。
◇
五日後、薬草園の杭が抜かれた。
抜いたのは、フーゴが連れてきた工部の職人たちである。南庭の現場で働いていた顔が、何人か混じっていた。頼んでもいないのに、と職人の一人が笑った。うちの監督が、用水の境の石を埋め直すと言って聞かないもので。
小川の縁に、新しい境の石が埋められた。
古い石は、子爵家の牧草地の藪の中から見つかっている。捨てるほうが面倒だったのだろう、と職人たちは言い合った。
エルゼは、埋め直された石の前で、長いこと前掛けを握っていた。それから、アデライドに深々と頭を下げる。
「お代は、どうすれば」
「もう、いただいております」
「でも、あれは娘が勝手に」
「勝手に、ではございませんでした。お嬢さまは、ご自分で貯めたお金を持っていらしたのです」
マルタが、母の後ろで顔を赤くしていた。
帰り際、エルゼは布袋を一つ、アデライドの腕に押しつけた。咳止めの草を干したものである。石垣の外の畝で摘んだ分だという。
「お母上に。煎じて、朝と晩に」
「ありがとうございます」
「お代じゃありません。うちの畑の草を、うちの畑の者が、差し上げたいだけです」
◇
記録院の窓口に、ルーカスが戻っていた。
アデライドが写しの受け取りに行くと、彼は髭を剃った顔で、背筋を伸ばして座っていた。
「令嬢。ご用件は」
「照合の記録の写しを、一通」
「番号で、請求なさいますか」
「ええ。番号で」
ルーカスは、少しだけ笑う。それから請求書式に番号を書き入れ、受付の欄に、自分の名を署名する。
その字は、以前より少しだけ崩してあった。真似されないように、と彼は言った。
◇
屋敷に戻ると、父の書斎の卓に、一通の手紙が置かれていた。
「おまえ宛てだ」
封は、切られていない。
封蝋の紋を見て、アデライドは手を止めた。北方の小領の紋である。王太子の位を失った男が、この春から治めている土地の。
差出人の名は、ユリウスではなかった。
ぎこちない、慣れない手つきの字で、ただ一言。
──ミーナ。
「読むのか」
父が訊いた。
「読みます」
アデライドは、封を切った。
「わたくしは、書類は読む女ですので」
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