第10話 北からの手紙
手紙は、便箋二枚に及んでいた。
字は大きく、行は右へ傾いている。書き損じを線で消した跡が、一枚目だけで七つあった。消した言葉の上に書き直した言葉が、また消されている箇所もある。
アデライドは、父の書斎の燭台の下で、それを最後まで読んだ。
──アデライド様。
──お手紙を差し上げる立場ではないことは、わかっています。読まずに捨てられても、しかたがないと思っています。
──ハイデ領の水車のことで、困っています。
ハイデ領は、ユリウスが廃嫡されたときに与えられた北方の小領である。麦畑と、川と、川沿いに並ぶ十二の水車小屋。領民は八百人ほど。北方三領のうち、いちばん小さい土地だった。
手紙によれば、この冬、ユリウスは北のブラント商会から金を借りた。領館の屋根が雪で抜け、修繕に要る金がなかったのだという。
借りる代わりに、契約書に署名した。
──領内の水車十二基の使用料を、向こう二十年、ブラント商会が取り立てる。
春になって、商会の手代が村へ来た。粉を挽くたびに、挽き賃の四割を商会へ納めよと言う。領民は、麦を粉にしなければ食べられない。払うしかない。払えば、冬を越す蓄えが残らない。
──殿下は、契約書をお読みになっていませんでした。
その一行だけ、字がまっすぐだった。何度も書き直して、最後にようやく書けた一行なのだろう。
──わたしは、読みました。でも、何が悪いのか、わかりませんでした。わかったのは、村の人たちが困っているということだけです。
──明後日、王都に着きます。お会いしていただけなくても、かまいません。
差出人は、ミーナ。
姓は書かれていない。ヴァルトとも、レーヴェンハルトとも。
◇
「会うのか」
父が訊いた。
「お会いします」
「助けるのか」
「わかりません」
アデライドは、手紙を畳んだ。
「ハイデ領の水車で困っているのは、村の人たちです。殿下ではありません。けれど、殿下の署名した紙で困っている以上、村の人たちを助ければ、殿下も助かることになります」
「それが嫌か」
「嫌です」
アデライドは、正直に言った。
「わたくしは、あの方に、北の空の下で朝が来るたびにあの夜のことを思い出してくださいと申しました。長く、長く、お健やかに、と。あの方がまた読まずに署名して、また誰かに後始末をしてもらうのでは、何も思い出していただいたことになりません」
父は、しばらく黙っていた。
「ブラント商会、と書いてあったな」
「はい」
「三年前、北方三領の穀物免税の後始末で、おまえが減額の交渉をした商会だ」
「……はい」
「覚えているか。あのとき、おまえがどんな紙を書いたか」
アデライドは、答えなかった。
覚えている。半年かけて書いた紙だ。細かい数字を突き合わせ、商会ごとに減額の幅を交渉し、王家の面目が立つ形に文面を整えた。十七の年の冬から、十八の年の夏まで。
ただ、一字一句までは覚えていなかった。三年のあいだに、八年ぶんの王太子妃教育と、白鶴の間の夜と、書式十七番が、その上に積み重なっている。
◇
ミーナは、約束の日の昼過ぎに、裏口ではなく正門から来た。
旅装のままだった。北の街道の土埃が、外套の裾に白く残っている。夜会に似合わないほど質素だった衣装よりも、さらに質素な毛織りの服を着ていた。頬が、少し痩せている。
応接間に通しても、ミーナは座らなかった。
扉の前に立ったまま、深く頭を下げる。そのまま、しばらく動かない。
「お顔を上げてくださいませ」
「……はい」
上げた顔は、青白かった。唇が震えている。けれど、目は伏せていなかった。
「お手紙は、拝読いたしました」
「読んで、くださったんですか」
「わたくしは、書類は読む女ですので」
ミーナの目に、何かがにじんだ。こぼれる前に、彼女は袖で拭った。
「先に申し上げておきます」
アデライドは、椅子に座ったまま言った。
「わたくしは、あなたを許しておりません。殿下も、許しておりません。母は、いまも歩けません。──ですから、殿下のためには、指一本動かすつもりはございません」
「はい」
「それでも、よろしいのですか」
「はい」
ミーナは、外套の内側に手を入れた。取り出したのは、小さな麻の袋だった。口を紐でくくってある。
彼女はそれを、卓の上に置いた。
「殿下のためじゃありません」
袋の紐を解く。
中から出てきたのは、銀貨ではなかった。銅貨である。大きさも、すり減り方も、ばらばらの銅貨が、卓の上に小さな山を作った。
「村の人たちが、出し合ってくれました。水車小屋の、十二軒の粉挽きの人たちが。王都に、銀貨三枚で紙を直してくれる人がいるって、わたしが話したら」
ミーナの声が、少しだけ揺れる。
「銀貨三枚ぶん、あります。両替屋に持っていったら、ちょっと足りないかもしれないけど。何度も数えました」
ハンナが、盆を持ったまま動きを止めていた。
アデライドは、銅貨の山に目を落とす。
粉挽きの手で、何年も握られてきた銅貨だった。麦の粉の匂いが、かすかにする。
「……ハンナ」
「はい」
「数えてちょうだい」
ハンナは盆を置き、卓の前に膝をついて、一枚ずつ数えはじめた。数えるあいだ、誰も口をきかない。銅貨の触れ合う音だけが、応接間に響いていた。
「銀貨三枚に、銅貨二枚足りません」
「では、二枚はわたくしが足しておきます」
アデライドは、ミーナを見た。
「依頼人は、ハイデ領の十二軒の粉挽きの方々です。あなたではございません。殿下でもございません。──それで、よろしければ」
ミーナは、何度も頷いた。頷きながら、今度こそ泣いた。
◇
契約書の写しは、ミーナが持ってきていた。
ユリウスは領館の机の抽斗に原本を放りこんだまま、一度も開いていないという。ミーナが夜中に抽斗を開け、ろうそくの明かりで書き写してきたのだった。
字は、手紙と同じように右へ傾いている。書き損じは、一つもなかった。
「これを写すのに、三晩かかりました」
「書き損じが、ございませんね」
「間違えたら、一枚目から書き直しました」
アデライドは、写しを読んだ。
借用の額。返済の期日。担保として、領内の水車十二基の使用料を二十年、ブラント商会に委ねること。使用料の率は商会が定めること。領主は、商会の取り立てに異を唱えないこと。
最後に、ユリウス・エディンガー・レーヴェンハルトの署名。
署名の形まで、ミーナは写していた。中指の第二関節に力が入りすぎた、あの筆跡の癖まで。
アデライドは、写しを卓の上に置いた。
「ひどい契約です」
「やっぱり、ひどいんですか」
「ひどいです。けれど、ひどいだけで、偽りはどこにもありません。殿下は、ご自分の意思で署名なさった。借りたお金も、本物です。──これまでわたくしが直してきたのは、紙に書かれた偽りです。この紙には、偽りがありません」
ミーナの顔から、血の気が引いた。
「じゃあ、どうにも、ならないんですか」
アデライドは、すぐには答えなかった。
写しの一行目に、指を置く。
──北方三領ハイデ領主と、ブラント商会とのあいだに、以下のとおり約す。
北方三領。
三年前、アデライドが半年かけて書いた紙にも、その四文字が何度も出てきた。穀物免税の後始末。ブラント商会を含む北方の商会と、王家とのあいだの和解状。
あの紙に、何を書いたか。
一字一句までは、覚えていない。
けれど、十七の自分が何を恐れていたかは、覚えている。商会が、免税騒ぎで北方の麦の流れを握りかけたこと。減額の交渉が終わったあと、同じ商会が今度は別の形で、麦を握りにくるのではないかということ。
だから、何かを書いた。二度と同じことが起きないように、何かを。
「ミーナ様」
「はい」
「三年前に、わたくしが書いた紙がございます。王家とブラント商会とのあいだの和解状です。その紙に何が書いてあるか、確かめなければなりません」
「どこに、あるんですか」
「王家の文書庫に」
アデライドは、窓の外に目をやった。
記録院ではない。銅貨二枚で写しの取れる、公開の窓口ではない。王家の文書庫は、王族か、王族の許しを得た者しか入れない場所だった。
そして、アデライドは、もう王太子妃ではない。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




