第11話 文書庫
王家の文書庫への立ち入りは、侍従長の許しで決まる。
アデライドは、その日のうちに願い書を出した。書式は記録院のものとは違い、宮廷の厚手の紙に、用件と、閲覧を望む文書の名と、閲覧を望む理由を書く。理由の欄に、彼女はハイデ領の水車のことを正直に書いた。
返事は、三日後に来た。
侍従長の署名で、ただ一行。
──願いの儀、許されず。
理由は書かれていない。書かれていないことが、理由だった。
「王妃様ですね」
ハンナが、返書を覗きこんで言った。この侍女は、宮廷の噂にだけは妙に耳が早い。
「王妃様は、ユリウス殿下のお母上ですから。殿下が北へ行かされたのは、お嬢様のせいだと思っていらっしゃるって。侍従長様は、王妃様のご実家の縁続きだそうです」
「そうでしょうね」
アデライドは、返書を畳んだ。
王妃の気持ちは、わからなくもない。息子を三百人の前で失ったのは、王妃も同じだった。アデライドの母が三百人の前で娘の罪を聞かされたように、王妃もまた、書式十七番の審問で息子の偽りを聞かされたのだ。
ただ、わからなくもないことと、引き下がることは、別の話だった。
◇
その夜、アデライドは手紙を一通書いた。
宛名は、王太子レオンハルト殿下。
文面は短い。ハイデ領の水車の契約のこと。三年前の和解状のこと。そして、その和解状のなかに、北方三領の領主と商会の契約について何か書かれているはずだということ。
最後に、一行だけ添えた。
──殿下ご自身の目で、お読みくださいませ。写しをいただきたいのではございません。殿下に、お読みいただきたいのです。
封をしながら、アデライドは廊下での会話を思い出していた。婚約の申し入れを辞退した日、退出しようとする彼女を呼び止めた少年の声。
書類は、お読みくださいませ。
あのとき、少年は笑わずに頷いた。
「お嬢様。どうして、写しじゃだめなんですか」
手紙を預かりながら、ハンナが訊いた。
「写しをくださいと頼めば、殿下は侍従長に頼むことになります。侍従長は、王妃様に伺いを立てる。そうなれば、写しが出てくるまでに、ひと月はかかるでしょう」
「読んでくださいって頼んだら」
「王太子殿下が、ご自分の家の文書庫へ入って、ご自分の家の紙を読む。それを止められる侍従長は、この国におりません」
◇
返事を待つあいだに、アデライドは北へ発つことにした。
父は、反対しない。ただ、馬車を一台と、御者を一人つけた。御者は侯爵家の古い使用人で、雇ったのではなく、もともと家にいる者だ。父の四つの決まりには触れない、と父は言った。
母は、寝台の上から一言だけ言った。
「北の風は、まだ冷たいですよ」
「外套を持ってまいります」
「あなたの外套ではなく」
母は、枕元の小箱から、何かを取り出した。薄い灰色の、毛織りの肩掛けだった。
「わたくしが若い頃に、北の叔母の家へ行ったときのものです。ずっと、しまったままでした」
アデライドは、肩掛けを受け取った。
母の匂いがした。
◇
ハイデ領までは、馬車で五日かかった。
ミーナも同じ馬車に乗る。最初の二日は、ほとんど口をきかなかった。窓の外を見ているか、膝の上で手を組んでいるか、眠っているか。三日目の午後、馬車が峠にさしかかったとき、ようやく自分から口を開いた。
「アデライド様」
「はい」
「あの夜のこと、ずっと、言えなかったことがあります」
アデライドは、窓の外を見たまま聞いていた。
「殿下に、あの女に何かされたのだろうって訊かれたとき、わたし、されてませんって言えませんでした。毒でも盛られたかって訊かれたとき、黙ってしまいました。三日寝込んだそうだなって言われたとき、頷きました。──寝込んでなんか、いなかったのに」
「存じております」
「どうして、言えなかったのか、自分でもわかりません。違いますって言おうとすると、喉のところで、言葉が止まるんです。昔から、ずっと」
ミーナは、組んだ手に力をこめた。
「修道女様に、言われたことがあります。断れないのは、悪くないのかもしれないけど、いいことでもないって」
「その方には、わたくしもお会いしました」
「……そうなんですか」
「施療録を、見せていただきました。二月十四日のあなたの字は、とても元気でした」
ミーナは、何か言いかけて、やめた。
馬車が峠を越えた。窓の外に、北の平野が広がる。まだ雪の残る畑と、黒い森と、そのあいだを蛇のように流れる川。川沿いに、小さな屋根が点々と並んでいた。
「あれが、水車小屋です」
ミーナが言った。
「十二軒。わたし、全部の名前を覚えました」
◇
ハイデ領の領館は、屋根の半分が新しい板で葺き直されていた。
ブラント商会から借りた金で直した屋根である。残りの半分は、古い板のまま、雪の重みで歪んでいた。金が、半分で尽きたのだろう。
ユリウスは、領館の玄関先に立っていた。
ミーナの馬車が着くのを、待っていたのではないらしい。薪を運ぶ途中だったのか、両腕に丸太を抱えている。外套の裾は、北へ発った日と同じように、泥で汚れていた。
馬車から降りたアデライドを見て、ユリウスの腕から丸太が一本落ちた。
「……何をしに来た」
声だけが、あの夜と変わらない。けれど、張りがなかった。
「水車の件で、参りました」
「ミーナが、呼んだのか」
「粉挽きの方々から、ご依頼をいただきました」
ユリウスは、ミーナを見た。ミーナは、目を伏せなかった。
「笑いに来たのか」
「いいえ」
「なら、何だ。おれを助けに来たのか」
「いいえ」
アデライドは、母の肩掛けの前を合わせた。北の風は、母の言ったとおり、まだ冷たかった。
「殿下のためには、指一本動かすつもりはございません。わたくしは、十二軒の粉挽きの方々の紙を直しに参りました。──その結果、殿下がお助かりになるのでしたら、それは、わたくしの与り知らぬことでございます」
ユリウスの顔が、歪んだ。怒ったのか、笑おうとしたのか、どちらともつかない形に。
それから、落とした丸太を拾い上げ、黙って領館の中へ入っていった。
◇
その夜、領館の客間に、ブラント商会の手代が訪ねてきた。
商会主の名代だと名乗った。四十がらみの、目の細い男で、帳面を一冊抱えている。
「王都のヴァイセンブルク侯爵家のご令嬢が、お見えになったと伺いましてな。ご挨拶に」
「ご丁寧に」
「三年前は、たいへんお世話になりました。あの折の減額の交渉では、当商会も痛い思いをいたしましたが、令嬢の筋の通ったお話しぶりには、商会主も感服しておりました」
手代は、細い目をさらに細めた。
「ハイデ領の水車の件で、お見えになったとか」
「ええ」
「三年前の和解状のことを、お考えなのでしょうな」
アデライドは、表情を変えなかった。
「商会主より、言付かっております。あの和解状は、王家と当商会との約束。ハイデ領主様と当商会との約束は、また別のものでございます。──あの和解状に、北方の領主と当商会の取り決めを縛る文言がございましたかどうか。令嬢ご自身が、よくご存じでしょう」
手代は、一礼して出ていった。
扉が閉まる。
客間に一人残されて、アデライドは燭台の火を見ていた。
知っている、はずだった。十七の自分が書いた紙だ。
だが、書いたのは三年前である。一字一句までは、覚えていない。商会主はそれを見越している。見越したうえで、あの手代をよこした。令嬢ご自身が、よくご存じでしょう。──覚えていないのでしょう、と言いに来たのだ。
扉が、もう一度叩かれた。
開けると、ユリウスが立っていた。燭台を持たず、暗い廊下に一人で。
「……聞こえた」
低い声で、ユリウスは言った。
「和解状というのは、三年前の、あれか。穀物の免税の」
「はい」
「おまえが、書いたのか」
「わたくしが書き、殿下がご署名なさいました」
ユリウスは、しばらく黙っていた。暗くて、表情は見えない。
それから、ぽつりと言った。
「なら、書いてあるだろう」
アデライドは、息を止めた。
「おまえが書いたなら、何か書いてある。おまえは、そういう女だ」
それだけ言って、ユリウスは廊下の闇に戻っていった。
アデライドは、扉を閉めることができなかった。
あの男は、今でも紙を読まない。読まないまま、書いた者を信じている。三年前、読まずに署名したときと、同じように。
違うのは、信じている相手が、今は自分を北へ送った女だということだけだった。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




